川の向こうと薄い布
任務明けのあまり気持ちよくない休日の朝、ベランダで洗濯を干す人を見ている。
少し強い風が吹けば、ふわっと飛んでいきそうなペラペラの服を何枚も丁寧に干していた。全て干し終わると、等間隔に並んだ洗濯物を満足そうに眺めて、からりと窓を開け部屋へ戻っていく。
俺の住むボロいアパートの、川向かいにある砂色の外壁が新しいアパートにその人は居た。
始まりは後味の悪い仕事の後、嫌になるくらい青い空を目に映しながら、浮かぶ雲へ目掛けて肺に入れた煙を吹きかけたときだった。その時は干された後だったのだが、物差しで計ったかのように等間隔に並んだ薄い布が、ぬるい風に靡くの見て、それが物凄く綺麗なもののように見えた。
最初は綺麗なもの見たさの純粋なものだった。
決まった曜日の決まった時間にベランダに出ることがわかった。俺とさほど歳の変わらなさそうな、若い人だった。夏だと言うのに真っ白で、だが、日に焼けるのを気にすることなく汗を拭いながら、一枚一枚丁寧に服をハンガーにかける姿は見ていて気持ちがよく、大胆さも垣間見えた。髪は肩くらいの、さらさらとした栗色だった。
部屋の窓からではなく、もう少し近くでその姿を見たいと思った。幸いなことに、俺と彼女の家の間には川が流れている。そこで煙草を吸うことにした。部屋にいても暑さはたいして変わらない。むしろ、彼女の近くにいるということが、心なしか、ずしりと重い何かを軽くしてくれるような感覚さえしていた。
視線を感じた。
彼女の目に映るのであれば、それが不審な者を見る目でも、奇異の目でもなんでもよかった。
名前は、偶然、近くのクリーニング店の軒下で話す、大家と彼女の会話で知った。
半ば習慣、というものと呼べるようになった頃、彼女はベランダに現れなかった。昨夜遅くまで明かりがついていたせいだろうか。男でもできたのか、と喉の下辺りが、ざわりとした。そんな俺の、新たに生まれた、また別な重い何かを他所に、彼女は昼過ぎにベランダに出て、いつものように綺麗な光景を創りだしていた。窓を開け、レースカーテンを開けた部屋には、男の影などなく、ただ彼女が忙しなく掃除をしている姿だけがあった。
ほっとした。ほっとしたと同時に、喉の窪みに黒い塊のようなものがつかえた。
その日、夕飯を買いに近所のスーパーへ行った帰りのことだった。まだらで、ざらっとした質感が古いものだと思わせる石橋に彼女は居た。俺と彼女のアパートの間を流れる小さい川の短い橋の中間に、居た。どくり、と心臓が鳴って、彼女の背後に立った。
休みだからか、彼女は干してある薄い布の服ではなく、しっかりとした生地の白いTシャツを着ていた。華奢な体の線を拾って、すとんと落ちていた。
俺に気付くことなく川を一生懸命に覗く彼女が、
「あっちには何かいるのかな」
と、言った。あっち、とは俺が居る場所のことだろうか。また、どくり、と心臓が鳴った。彼女にとって俺は、どんな風に映っているのだろうか。
「岩の窪みに小さな魚の群れがいますよ」
咄嗟に出た嘘だった。何故なら、この狭い川には魚はおらず、俺が眺めていたのはちょろちょろと頼りなく流れる川ではなく、今、目の前にいる彼女だったのだから。
最初こそ、びくりと肩を震わせたが、真剣な顔で「どこですか?」なんて聞くもんだからおかしくて、「あそこです」とまた嘘をついた。すると、彼女がこちらに身体を傾けた。
今度は俺がびくりとしてしまった。彼女にとって俺は、少なくとも不審人物に映っているわけではなさそうだと思った。仮にそう思われていたとするならばこの近さは隙がありすぎるし、危機管理がなさすぎる。大胆な彼女の中に、危うさも感じた。
俺の震わせた肩にか、近すぎる距離にか、「すみません」と、彼女は謝った。特段謝ることでもなかったのに、と考えながら、短く答えた。持ち物を見たところ、この先のスーパーに行く途中なのだろう。日が沈みかけていて、明るい時間は短い。早くしなければ、帰りは真っ暗だ。
「邪魔をしてすみません」と今度はこちらが謝ると、どうして、と言いたげな目が、俺の目を覗く。
「買い物、行く途中だったのでしょう?」と言えば、暫くの沈黙の後、「あ、そうでした」と言葉が思いつかないとでもいった、ふわりとした返事をして、スーパーの方へと歩いて行った。
一度家に帰ったものの、段々と暗くなる空に、川を覗く彼女や、布が落ちる華奢な背中、近づいたときに揺れた栗色の髪を思い出し、もう一度会いたいという思いがふつふつと沸いて、すぐに家を出た。
空が藍色になりかけた頃、スーパー帰りの彼女が「こんばんは」と言った。先ほどよりも、しっとりとした空気を纏っていた。それに充てられた俺は、つかえていた黒い塊が出てこないよう、眉間に皺を寄せた。暗くて助かった、と安堵して、「こんばんは」と返した。
「今帰りですか?」
「はい。日も暮れたというのに暑いですね」
「そうですね」
「川、好きなんですか?」
「まあ、好き、ですね」
当たり前な事を言う俺を不審がる事なく、会話を続ける彼女からは、むわりと女の匂いがした。数歩離れた二人の間に、夏の夜の蒸し暑さに似た、だが、それとは違う、どろっとしたものが流れていた。
「うち、来ますか」
出てこないよう抑えていた、黒い塊が、それを孕んだ言葉が喉元を通り過ぎ、口を開くと、いとも簡単に、するりと溢れる。
彼女は、かろうじて捉えられる輪郭を、揺らした。
write 2023/7/17