何も知らない、
いつか帰ってくるから待ってて、と言われた。
どこに住んでいるのか、なにをしているのかもわからない人だった。ただ、名前は知っていた。それが本当の名前かはわからないけれど、それしか彼の存在を留まらせるモノがなかったから、私はそれを信じ、何度も呼んだ。
いつか、とはいつなのだろうか。
一年経ち、二年経ち、もう少しで五年が経とうとする頃、早起きの蝉と同時に五月蝿くチャイムが鳴った。私はそれを忘れかけていたし、忘れるには十分の長さだった。
「ただいま」
蝉にかき消されることなく低く響く声は、確かに彼のもので、ああ、そうだった、と、もう微かにしか思い出せなかった彼の顔を、声と照らし合わせて思い出していく。
「忘れてしまったか」
そう、忘れるには十分の長さだったのよ。元々あなたの事なんて、何も知らなかったのだから。でも私はここを離れずにいたし、最後の言葉も、名前も忘れることはしなかった。
彼の悲しそうな顔に、ふるふると首を振って、
「待ってたよ、おかえり」
と言えば、眉が下がって、それは最後に見た彼の安堵した時の顔だと、それを両手に包みながら反芻した。
write 2023/7/29