みどり
朝起きて、カーテンを開けるのは夫、直正さん。
淡い水色のパジャマ姿に、耳上のぴょこんとした寝癖はそのままで、うーんと伸びをしている。
日中は日差しも入り、暖かくなって窓辺に移動させた観葉植物にお水をあげるべく、わたしは水を溜めたピッチャーを持って彼の元へ。ちなみに、パジャマはお揃いです。
「あったかくなったから、葉っぱがイキイキしてるね」
しゃがんで鉢にたっぷり水を注ぎながらわたしが言うと、直正さんは「そうだね」と言って葉に触れた。
「だいぶ大きくなったなあ。夏に向けてそろそろ剪定しないといけないね」
「ね。買った時はわたしの胸下くらいだったのに、もう越されそう。葉っぱも増えて可愛くなったねえ」
立ち上がって、小振りの若い葉をツンツンする。ふるんと揺れるハート型の葉っぱが可愛い。
「ああ、大事に育てていこう」
直正さんはわたしの肩をそっと抱き寄せた。結婚して2年。まだまだ甘い時期なのです。
直正さんとの出会いは日曜のホームセンター。
開店と同時に行けば、丁寧に並べられ行儀良くこちらを見ている元気のいい植物たちに会えるので癒されによく訪れていた。緑を愛でるのが趣味なわたしは、窓辺に置く少し背の高い、葉が豊かな観葉植物を探しに来たところだった。
お目当ては、フィカスウンベラータ。魔法の呪文みたいで口に出して言いたくなる名前だが、幹は細く、葉がハート型でかわいらしい姿なのだ。
「フィカスウンベラータ、フィカスウンベラータ、あ、あった」
園芸用品のバイヤーさんが凄腕なのか、どこのホームセンターより品揃えの良いこのお店のサンルームのウッドデッキに置かれた観葉植物を、呪文を唱えるかのように呟きながら歩き見ている時、彼とすれ違った。「なんだか呪文のような木の名前ですね」と降ってきた言葉に振り返れば、すっきりとした短髪に真面目そうな顔立ち、背も高く、がっちりとした筋肉質な体型、それを拾い魅力増しなポロシャツとチノパン姿の彼に、爽やかスポーツ選手風の見た目が好みなわたしは、ピシャン! と雷が落ちたのだ。まごうことなき一目惚れである。
「く、口に出して呼びたい名前ですよね」
「ですね。しばらくは頭から離れなさそうです」
それが彼と初めて会い、交わした言葉だった。
その後も何度か同じホームセンター内の園芸用品コーナーで会うようになり、緑が好きなこと、わたしと一緒でここには癒されによく来ていること、少し年上だということ、鍛えられた身体の理由は警察官だからということを知った。
毎週行くわけでもないし、もちろん行っても会えない時もあった。そして何ヵ月か彼に会わない時が続き、仕事でへこむ事が多かった週の日曜日、無性に彼に会いたくなって、シャッとカーテンを勢いよく開け、部屋を光で満たし、ホームセンターへと出かけた。会える確証はないのに、今日は何故だか会えるような胸のざわめきを感じたからだ。
開店からしばらく経った店内は、休日らしく家族連れが多く、活気溢れている。いつも真っ先に見に行くサンルームも何家族かが仲よさげに見ていたため、彼がいないことを確認すると、違うコーナーへ移動した。
背の高い木に馴染むマットな陶器の白い鉢、鮮やかな緑の映えるレモンイエローやペールピンクの小さめの鉢、多肉植物が似合いそうなスクエア型がおしゃれなターコイズブルーの手のひらサイズの鉢。大きめのものから受け皿までを順に見て回って、最後にガラス製のトレーや小瓶、大小様々なフラワーベースのコーナで止まった。
グリーンって切り花も可愛いんだよなあ、と自室に置けそうなスペースを思い浮かべる。そういえば、ふさふさに増えたワイヤープランツをそろそろ剪定しようかと思っていたんだった。小瓶に生けたら可愛いな、玄関とかキャビネットの上とか置くのはどうだろう。
うーんと顎に手を当て考えていると、「お久しぶりです」と声がした。両手で数えられてしまえるほどしか会ったことがないのに、不思議と耳に馴染む穏やかな声に横を向けば、白いTシャツにネイビーのシャツを羽織った、塚内さんがいた。やっぱり会えた。予感が当たって、運命のひと、なんじゃないかと軽率に思ってしまう。葉や根がぐんぐんと日光や水分を吸ってイキイキ育つように、わたしの心も栄養を貰ったように瑞々しく元気になっていく。
「塚内さん! 久しぶりですね、お元気でしたか?」
「ええ、あいも変わらず仕事詰めで、やっと休みが取れて癒されに来たところです。あなたは元気でしたか?」
「仕事でちょっと凹んでたんですが、今元気になりました」
嬉しすぎて口走ったような気がする。でも塚内さんは、「ははは、それはよかった」と爽やかに笑った。気にされてないのは少し悲しかったけれど、笑顔を見れた嬉しさのほうが勝っていた。だって、会えて言葉を少し交わしただけで、こんなにも簡単に舞い上がって、萎んでいた心はたぷんと満たされたんだから。
世間話をしつつ、いつものように園芸用品コーナーを一緒に回る。最後に残ったサンルームの入り口を覗けば、他のお客さんはおらず、ゆっくり見て回ることができた。他愛も無い話をしながら歩いて、徐々に近づく、極太ゴシックフォントで『出口』と書かれたビニールカーテンに、きゅっと切なくなる。ここを出れば、「ではまた」と別れて終わり。
ここでしか会わない彼のプライベートにこれ以上踏み込んでいいものかと悩み、胸の苦しさに鼻から長い息を吐く。足取りも重く、更にゆっくりになる。
「なんだか別れがたいですね」
「え?」
「もしよければ、この後コーヒーでも一緒にいかがですか」
「え! もちろんです!」
初めてホームセンター外にいる彼を見た。並んで歩く彼はやっぱりかっこよくて、さりげなく車道側へ寄ったり、自転車や人通りが多い場所では触れない程度に分厚く大きな手のひらで優しく制し、立ち振る舞いも紳士的だった。恋人ももう4、5年居ない、出会いもなければ、片想いすらしていないわたしにとって、それはもう王子様のようで。家に居る緑たちのようにツヤツヤふっくらと心が芽吹いていく。それは紛れもなく恋心。
深緑と白のストライプ柄のテントが目を引く朝のオープンテラスのオシャレ席で向かい合ってしまえば、もう一歩も二歩も関係が進んでしまった感じがして急にドキドキした。
わたしたちの間に置かれた、全く口をつけていないアイスコーヒーの氷が溶けてうっすら二層になっていく頃、ググッと眉頭を寄せた彼がゴクゴクと喉を鳴らしながら少し薄まったアイスコーヒーを半分程流しこんだ。突然の彼の様子に驚いて、わたしはカランカランと自分のグラスをストローで混ぜる。この後起きるであろう何かしらの準備をするように。指で持ったままのストローを唇で挟んだ時、
「あなたが好きです、結婚してください」
と、彼は言った。心の準備の斜め上どころか明後日、明々後日、一周回って真正面な言葉に、ゴボッとアイスコーヒーを吹きこぼしてしまった。
「わ、汚くしちゃってすみません」
エンボス加工が施されたアルミのテーブルを慌てて拭く。ぼんやりと写った自分の顔が首まで真っ赤なことに気が付き、今すぐにでも氷がたっぷり浮かぶ目の前のグラスの中へ飛び込みたい気分だった。改めて、多めの一口をコクリと飲んで顔を上げれば、わたし以上に赤い彼が襟足をぎこちなく撫でていて、先ほどの言葉は本気だったのだと、にやけそうな口元を隠すためにもう一口飲んだ。
「俺は、あの日、あの呪文のような名前の木をこの先、あなたと育てるような気がして」
「日光もあまり必要ない、お世話頻度の低い植物を探していたのに、ですか?」
「ええ、自分でも何を言ってるかわからないんですが。なぜかふとそう思って。出会ったばかりですし、あなたの気持ちが整うまで触れないので、安心してください」
「いえ、なんとなくわかります。わたしも、塚内さんのこと好きです。末長く、よろしくお願いします」
プロポーズをされ、受けた日、わたしたちは連絡先を交換した。
今でこそ躊躇いなく触れてくれるようになったけれど、言葉通り彼は全く触れる様子はなく、触れないなんてできるわけがない、と身構え、そして痺れを切らしたわたしから手を繋いだのは結婚式の前日だった。
関係が進んでも直正さんは紳士的で、なんというか全部があったかい。柔らかい眼差しや、落ち着く静かな低い声は、優しく木陰を作る樹木のようで、心地がよかった。
「お腹空いたよね。着替えて朝ごはんにしよっか」
腕の中で直正さんを見上げる。
「うん、それもいいんだけど、俺はもう少しきみに触れていたいな」
深い黒の、とろけるように甘い瞳に吸い込まれる。
「ん、わたしも。やっぱりそうしたい」
世間はわたしたちのような結婚を、スピード婚だとか、交際0日婚と言うのだろう。
実際親も、式に呼んだ友人たちもそう言って驚いていた。心配する声もあったけれど、出会った時、雷が落ちたんだからしょうがない。
「ねえ、なんで良く知りもしないのに結婚しようって言ったの?」
「んー、雷が落ちたから、かな。きみだ、と思ったんだよ。それに、」
肩に置かれていた手が、腕を撫で腰を抱く。
「それに?」
「いや、続きは寝室に戻ってからにしよう」
結婚して2年ということは、出会って2年。まだまだ甘い時期なのです。
彼の好きな手のかからない可愛らしい緑と、わたしの好きな少し手はかかるけれど大きくて安心感のある緑に囲まれたこの家で、愛を育もうと思うのです。
write 2024/4/23 イベントにて展示