春眠
──眠っててもいいよ。
少しひんやりとした華奢な指先が鼻筋を撫でた。くすぐったさに、僅かに開いた瞼を閉じ、ささやかな彼女の鼻歌に耳を傾ける。
『春眠』
ひと通り片付けも終わらせた午前中、ちょっと休憩、と座ったソファでうつらうつらとしていた俺を「膝枕でもいかがですか」と彼女は誘い、子どもを寝かしつけるかのように頭をそっと撫でた。
新居に引っ越してきたばかりの昨日は、ご近所さんへの挨拶と、掃除や荷解き、手続きの対応で一日が終わってしまった。
日取りが決まった時、彼女は「早くくつろげるように片付けがんばるね!」と言った。俺の仕事を理解してくれているとは言え、その一言に無意識のうちにひとりでやるものだと思われていたのかと、内心グサリと胸が傷んだ。
ふたりで暮らしていく家を一緒に整えたかったため、引っ越しの次の日は既に有給申請済みだった。それを告げると、何かと抱え込む性分の彼女は「ほんとに? 直正さんと一緒にいられるなんて嬉しい」と目を輝かせて喜んでいた。
今までもそんな素振りは見せなかった彼女だったが、我慢をさせてしまっているのだろうと薄々気付いていた。そのため同棲へと踏み切ったのだ。
結婚前にと悩んだが、彼女は「両親は同棲賛成派だよ。直正さん前に挨拶に来てくれた時、結婚しますって勢い余って言っちゃったでしょ、ふふ。一緒に暮らしてふたりのリズム見つけていこ」と、微笑みながら言い、フゥと軽い一息で靄のかかった心を晴らした。
直正さんの隣は安心するのよ、と彼女は言ってくれるが、俺の方がしっかりした彼女におんぶに抱っこ状態で、すっかり甘えているのだと改めてそう思う。
向かいの壁まで白く光るほど日当たりの良いリビング。やっと春が来たと言えるようになった快適な室温。新品でハリのあるレースカーテンを靡かせ、ゆるやかに入ってくる風は心地よく、窓の側に置いた観葉植物の葉と土の柔いにおいをまとっている。外から聞こえる道ゆく人々の声も朗らかだ。
それに、後頭部を包み込むやわらかい太ももの感触と彼女の体温、匂い。撫でる手は優しく、眠らないわけがなかった。俺はまたたく間に夢の中へと潜っていった。だが、職業柄か眠りが浅く、すぐに目が覚めてしまう。眉間に力の入る俺に彼女は、「眠っててもいいよ。大丈夫、大丈夫」と微笑んだ。安らぐ声色に心までもほぐされていく。ああ、これからはこんな幸せな景色を毎日見ることができるのか。彼女にも甘えてもらおうと思っていたのに、だめだな、この全てを赦すあたたかい存在に抗えない。
子猫を撫でるよう鼻筋を撫でられ、俺はまた瞼を閉じる。
──フーン、フン、フフフ、フフン、フーン。
──直正さん、外に出ない日はお髭剃らないのね。ふふ、新鮮。意外と似合う。伸びたところも見たいなあ。
俺が眠ったと思ったのだろうか。上から降ってきた初めて聴く彼女の鼻歌に、愛らしいひとりごとは、まるで桜の花びらのようだ。
──フフ、フ、フーン、フフーン。
──はわぁ…ふう。私も眠くなってきちゃった。
こんないい天気の日にお昼寝? 朝寝? は贅沢よね、とひとり、ふふふと小さく笑う。
「一緒に寝るかい?」
目を閉じたまま話す俺の声に、柔らかく頭を撫でていた手が止まる。
「わ、起きてたの?」
「寝かけていたんだけど、可愛らしい声が聞こえてね。眠るのが惜しくなったんだよ」
「恥ずかし…」
目を開けると、彼女は慌てて両手で顔を隠す。指の隙間から恥じらいで丸くなった瞳が、こちらを見ていた。
「引いてない? 音痴だったでしょ」
「そんなわけない。もっと聴いていたいくらいだったよ」
「やだ。恥ずかしくて、目、覚めたかも」
「もう少しゆっくりしよう。ほら、きみも横になろう」
ふたりで選んだ大きめのソファに、彼女を抱き込むようにして横になる。柔らかくあたたかい彼女をぎゅっと抱きしめれば、上目遣いで見上げる愛しい瞳と視線が交わり、どちらともなく軽く唇が触れ合った。
「わたし、直正さんの腕枕好きなんだあ。ピッタリフィットなんだよ。直正さんの腕の中にいると安心してすぐ眠くなっちゃうの」
「ああもう、きみはなんでそんなに可愛いんだ」
もう一度、今度は感触を確かめるよう唇を重ねる。
「ふふふ、お髭チクチクする。直正さん、好き」
「俺も好きだよ」
このまま寝かせたくない気にもなってくるが、彼女は、素敵なお家見つかってよかったね、とぽそりと呟き、とろんと重くなった瞼を頼りなさげに数回瞬かせると、俺の胸に擦り寄り眠ってしまった。
「……おやすみ」
すうすうと静かに眠る寝つきの早い彼女に、自然と口の端が上がる。上下する肩を抱き、額に唇を寄せた。
向かいの壁まで白く光るほど日当たりの良いリビング。やっと春が来たと言えるようになった快適な室温。新品でハリのあるレースカーテンを靡かせ、ゆるやかに入ってくる風は心地いい。
丸みを帯びた風は春そのもので、まだよそよそしい新居の匂いと、嗅ぎなれた甘い匂いを深く吸い込み、また瞼を閉じた。
今度は深く眠れそうだ。
write 2024/4/20 イベントにて展示