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王ありて魔女ありき


 朝。通勤通学ラッシュの真っ只中だが、瑠々の乗る電車は混み過ぎず、空き過ぎず、まずまずだ。工業地区を通過する上り電車は、そもそも利用者が少ない。

 工業地区に暮らしているのは、住み込みの労働者がほとんどだ。そもそも居住区ではないから工場に勤める者以外は住んでおらず、工業地区以南は荒地が広がり、貨物機のための小さな発着場があるだけ。工業地区を通過する上り電車は専ら貨物列車で、普通の電車は一時間に一度しか走っていなかった。

 すかすかの車両で、瑠々と紅蓮はくっつくように座っていた。周りに人もいないから、彼らは手を繋いで頭を寄せている。

「なんかあれだね」
「あれってなんだよ」
「昔のこと思い出す」

 言いながら、瑠々は目を閉じる。

 視界が閉ざされれば、自然と、他の感覚を鮮明に感じる。車両の振動や走行音、近くなって遠くなる踏み切りのサイレン、繋いだ彼の手の温度。

「こうして一緒に電車乗ってたよね」
「座れなかったけどな。居住区の電車、頭おかしいだろ、あの混みよう」
「でも私好きだったよ、満員電車。中学あがってからは、あの二十分だけが生きがいだったんだよ〜」
「満員電車で推し潰されるのが生きがいかよ。どんな人生歩んでんだ」
「だってさ、紅蓮に抱きついても文句言われないじゃん? だから、満員電車好きだった」

 すると、繋いでいた手をぐっと引っ張られる。目を開ければ、じっと見つめてくる彼と視線が絡む。

「抱きついてきていいぞ?」

 冗談なのか本気なのかはわからないが、彼が口に笑みを浮かべて言うので、瑠々も笑った。

「今はしないよ。家帰れば、好きなだけ出来るもん。……………………あの頃は、まだ、こういう関係じゃなかったから」

 彼の目から逃れるように、瑠々の視線が宙へ泳ぐ。やがて、繋いでいる彼の左手に留まった。
 彼の薬指で、ごついシルバーの指輪が朝日を受けてぎらぎらしている。指輪で隠しきれない刻印の端が、巻き付くように指に刻まれていた。

 瑠々が見ているものに気づいて、紅蓮もああーと声をこぼす。

「たしかに、『友だち』じゃあ出来ねえな。いや、『幼馴染』か? それとも『近所の顔見知りのやつ』……」
「ひどっ、顔見知りはさすがにないでしょ。紅蓮ん家でご飯だって食べさせてもらった仲なのに。あ〜あ、紅蓮のお母さんの炊き込みご飯、また食べたいな〜」
「今日の帰りに寄るか?」
「えー。さすがにそれは迷惑でしょ……」
「じゃあ、俺が今日の夕飯作ってやるよ。炊き込みご飯」
「エッ」

 瑠々がギョッと目を見開く。
 まるで珍獣でも見たのような驚愕の表情を浮かべる彼女に、紅蓮は不機嫌そうに眉間にシワを刻んだ。

「アア? 文句あんのか」
「作れるんですか……?」
「ガキの頃から食ってきたおふくろの味ぐらい、再現できるに決まってんだろ」
「お米研ぐのに洗剤入れちゃだめだよ……?」
「入れねーよッ! 俺をなんだと思ってやがるオメー」
「トーストとカップ麺しか作れないヒモ」

 キリリと答えた彼女に、紅蓮は怒りも忘れて呆れ返る。あまりにも真顔で返されたものだから、本気で言っているのかそれとも冗談なのか、紅蓮は内心考え込んでしまった。

 すると、黙り込んだ彼の顔を、瑠々が左手で指差す。

「ほら否定しない〜。ヒモけって〜」
「ヒモじゃねェよ。これからバイト…………」

 彼の言葉が途切れる。

 どうしたのかと瑠々が不思議に思っていると、繋いでいた右手が解けて、はぐれた彼の手が、かわりに瑠々の左手をとった。

「お前、いつも貼ってる絆創膏はどうした」

 瑠々の左手薬指には、黒い刻印が刻まれている。彼女の細く小さな指には不似合いで、その異質さは目を惹く。

 いつもは隠すように絆創膏を巻き付けているのだが、今はなく、刻印は顕になっていた。

「寝てる間に取れちゃったかな……」
「絆創膏、替えはあるのか?」
「ん〜ん、ない。へーきへーき。コンビニかどこかで買うから」
「んなことしてたら遅刻すんだろ。それに、短時間でも人目に触れさせるのはまずい」

 紅蓮はそう言って、自分の右手指に嵌めた指輪のひとつを外す。彼は瑠々の左手薬指に、その指輪を通した。
 例に漏れずゴツい指輪は、彼の手にあるだけでもゴツいのに、瑠々の手ではさらに際立つ。ようするに、似合わない。

 しかし、彼女の小さな手の刻印を隠すには十分だった。

「今日一日、つけとけ」
「これ…………」
「お前の好きな、カワイイのじゃなくて悪ィけどな」
「……………………」

 瑠々はしばらくその指輪をじっと見つめていたが、その表情が徐々ににやけていく。

「えへへ、結婚指輪みたいだねっ」
「は? もう刻んであるだろ、指輪」
「そうだけど。でもさ、やっぱり、物としてあると嬉しいんだもん」

 彼女はにやにやしたまま、左手を閉じたり開いたり、指輪を撫でてみたりと、ゴツい結婚指輪を堪能している。

「そんなモンで喜ぶのかよ」
「うんっ、だって紅蓮がいつもしてるやつだもん。でへへっ」

 抑えきれないと言うように瑠々はだらしなく笑いながら、チラチラと、指輪と彼とを交互に見やる。

 そんな彼女に、紅蓮の顔にも笑みが浮かぶ。

「お前の笑い方きもい」
「は!? ふざけんなっキモくないし! キンタマもげろ!」
「はハッ、んなニヤつきながら言われてもなァ」

 瑠々が彼の腹を殴るが、彼は痛がる素振りも見せない。しょうがなく左手で殴ろうとすると、彼に手を掴まれ、止められてしまった。

「ちょ、掴むなっ」
「そんなに気に入ったなら、気の済むまでつけてていいぞ」
「えっ、いいの? 墓まで持ってっちゃうよ」
「大袈裟なやつだな」

 すると、車内アナウンスが次の停車駅を知らせた。

「ほら、駅着くぞ」
「うぇー……まだ紅蓮と一緒がいい……」
「指輪やったろ。そいつで我慢しろよ」
「うん、わかった。じゃあ、いってらっしゃいのちゅーして?」
「はいはい」

 軽く唇を押し付けるようなキスを交わして、瑠々は座席から立ち上がる。荷棚から鞄を下ろしたところで、ちょうど電車が停車した。

「じゃあね、いってくるね、紅蓮もバイト頑張ってねっ」
「ん、いってら」
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