王ありて魔女ありき
彼女がやっと止まったのは、通りを抜けた先の、森林公園のなかだった。遊歩道から噴水広場まで走り出て、瑠々はようやく亜美の手を離す。
亜美はなにか言おうとして、しかし息を整えることにしばらく専念していた。
「はあ、はあ……ちょっと……なんで、いきなり走り出すのよ……」
「だって、あそこにいたら、私、捕まっちゃうもん」
瑠々は不貞腐れたように、むっと唇を突きだす。彼女は眉間にしわを寄せて、町並みのなかでいまだあがっている黒煙を見つめていた。遠くからサイレンの音が聞こえるから、もうしばらくすれば消防車が到着するだろう。
「捕まるって…………ああ、彼氏の財布のことね。帰ったら早く返しなさいよ? ま、その薄っぺらな財布じゃ、もう遅いかもしれないけど」
亜美はそう言って、乱れた髪を軽く直す。留め金からはぐれた髪を耳にかけて、ずり落ちた鞄の肩紐を直した。
そんな彼女を見ながら、瑠々は笑顔を作って言った。
「今日はありがと。私、もう帰る」
「あれ、他の店に行くんじゃなかったの?」
「走ったらすっきりしちゃった。憂さ晴らし、付き合ってくれてありがとねー」
「はあ?まったく…………付き合わされる、こっちの身にもなってよね」
呆れたように言うものの、亜美は怒るようなこともなく、疲れたように笑い返す。
「じゃあね、亜美、また月曜日~」
瑠々は亜美に手を振りながら、公園を走り出た。
道路を曲り、彼女から完全に姿が見えなくなったのを確認して、瑠々はほっと息をつく。
走る足を緩め、少し速いくらいのペースで歩きながら、瑠々はふたたび空を見た。さきほどの黒煙は薄れ、灰色の靄がかかったように空の色がくすんでいる。
その煙から逃げるように、彼女は早足で町を抜けた。
繁華街を抜けると、閑散とした居住区がひろがる。繁華街より何倍もの面積を持つ居住区のその先には、かつて賑わっていた旧い繁華街に出る。古びた店舗のほとんどは看板が白く塗りつぶされ、どんな店が入っていたかもうかがえない。どの建物も例外なくシャッターが下ろされ、ひとの気配ももちろんない。しばらく進むとかつての大通りが途切れ、やがて迷路のような細い路地に変わる。瑠々は迷うことなく路地を進んでいった。
街の中央から遠ざかれば遠ざかるほど、空気は汚れ、頭に杭を打たれるような騒音が鼓膜を揺らす。
雨が降ったわけでも、降るわけでもないのに、空気が肌にじっとりと張り付いてくる感覚を覚える。
むっとしつつも、瑠々は路地を曲がった。人一人がやっと通れる隙間に体を滑り込ませ、その途中で立ち止まった。その足下には、マンホールがあった。
「た、だ、い、まんっ」
錆びた鉄板の扉を、瑠々は笑顔で押し開けた。
しかし、返事は返ってこない。空調のファンが回る気味の悪い、けれどもう慣れ親しんだ、規則正しい不協和音が聞こえるだけだ。
「はいはい。ぼっちぼっち」
ぶーぶー独りごちながら、トタン板の階段を下り始める。
錆びた天井で、蛍光灯が明滅する。ジジ、という微かな雑音を聞きながら、瑠々は階段を下りきった。床も階段と同じため、ブーツで歩けば嫌でも音が鳴り響く。
鉄板とトタンで形作られたその空間は、まるで家だった。鉄板にじかにカーペットが敷かれ、硝子のテーブルやソファが並ぶ。壁際にはクロゼッドやタンスといった収納家具が置かれている。瑠々がクロゼッドを開けると、おせじにも綺麗とは言えない、繁雑に押し込まれた服の山が出てきた。その山の上に、彼女は腕にひっかけていた紙袋を繁雑にのせて、戸を閉めた。
「あーあ。疲れた!」
ブーツのまま、彼女はソファに寝転がる。しかし腰のところに違和感を感じて、スカートのポケットを探る。
黒革の財布だ。
そばのテーブルに置こうとして、そこに一枚の紙切れがあることに気付く。
財布を置き、代わりに紙を指でつまむ。そこには端正な字で、「使ったら返せ」と書かれていた。
「返すってば。空っぽだもん」
紙を丸めて、屑かごのほうへ投げる。見事に外れ、床に落ちたが、瑠々は気にする様子もなく、ソファで寝がえりを打っていた。
そのうちだんだん眠くなってきて、彼女の瞼が下がりかけて、
「うわっ」
彼女のお尻の下で、着信音が鳴り始めた。音だけでなく震え始めるものだから、彼女は慌てて携帯端末を尻の下から引っ張り出す。
「もしもーし」
『財布返せ』
電話越しに聞こえる、不機嫌な男の声。その向こうで人の声がするから、どこか賑やかな場所にいるんだろうか。
「第一声がそれ?」
瑠々は端末を持ち直すと、再び寝返りをうち、うつ伏せになる。クッションを顎の下に敷くのは、彼女にとって長電話の準備だ。
『当たり前だろ。牛丼屋で恥かいたんだぞこっちは』
向こう側で怒っている声に、瑠々は楽しそうに口元を歪めて、足をばたつかせる。
「牛丼とか食べるんだ? ジャンクフード嫌いそうなのに」
『お前が飯作らないからだろ』
「わかった、
『お前、今、家だな? ひん剥いて豚みてェに鳴かしてやるからな、そこ動くんじゃねえぞ』
「やーん。紅蓮の変態」
すると、電話口の向こうからため息が聞こえてくる。
『お前さあ、今日どこ行ってたんだよ』
少しトーンの下がった声。彼のこの疲れたような声が、瑠々はとくにお気に入りだ。
「知りたいの?」
『知りたいねェ』
彼が随分素直なものだから、彼女の顔が知らず知らずニヤける。
「心配?」
『あァ、お前が誰と何所に行ってたのか、心配で心配でたまんねぇよ』
「友だちの亜美ちゃんとお買いものだよ。浮気なんかしてないから、安心して? たとえ紅蓮が私のアイスを盗み食いしても、私はちゃんと紅蓮のこと、だ~い好きだよっ、ちゅっ!」
『たかがアイスで怒んなよ。女々しい奴』
「あ? チンコもげろクズ」
『ぎゃあああああああああああああ』
返ってきたのは、耳が痛くなるような雑音だった。それが悲鳴だと気付いたときには、悲鳴は消えていた。
思わず耳から話した端末に、瑠々は叫ぶ。
「え、ちょ、紅蓮? なに、今の。まじでチンコもげた? ちょっと、返事してよ、紅蓮ってば!」
『なんだよ』
聞こえた彼の声に、息をつく。
けれど、彼女はハッとしてすぐに問い詰める。
「今、叫んだじゃん!? なにあったの、平気!?」
『俺が叫んだんじゃねえよ。一緒にいる男』
「男? えっ? 今、どこにいるの? なにしてんの?」
『アー……』
彼が言い淀む。
『あーっ、あれだ。お化け屋敷だ! ダチと来てる。叫んだのはダチ』
「お化け屋敷って」
どうにも信じがたい様子のまま、瑠々はソファから体を起こした。
「紅蓮、一緒に遊べる友達いたんだねえ」
『そこかよ』
電話口で彼が笑っているのが聞こえる。
「でも、よくそんな場所行こうと思ったね」
『ああ? お前が相手してくれねぇからだろ? 信じられねえなら、ほら。こいつらの情けねえ声聞いてやれよ……』
彼の声が途中で遠のく。代わりに、何人かの男の声が聞こえてきた。
『やめろ、来るな! 来ないでくれ!』
『許してください! お願いします! 金でも女でも、なんでも用意するからっ、だから……ぎゃああ!!』
『助けてくれえええええッ!』
よほど恐ろしい目に合っているらしい。電話口からは遠いだろうに、男たちの悲鳴は一言一句、鮮明に聞こえた。
「紅蓮は叫ばないの?」瑠々はそう訊こうとしたが、彼の声が聞こえて、その言葉を飲み込む。
『ウケるだろ? 大の男がよォ』
再び聞こえた彼の声は、不規則に震えていた。笑いを抑えているのだ。
瑠々は、ふたたびソファに体を横たえた。そしてつまらなそうにつぶやく。
「悪趣味」
『そう言うなよ。それもこれも、お前がたかがアイスで意地張って、俺の相手しないからだぜ? それよりもよォ、俺に言わずにどっか出かけたりすんじゃねえよ。最近、物騒なんだぞ』
「じゃあ紅蓮も早く帰ってきなよ。今日ね、街で魔女が出たんだよ」
『は? まじかよ』
「うん、まじだよ。だからさ、早く帰ってきて。一緒に寝て?」
『わかった。エロ下着つけて待ってろよ』
「パジャマ着て待ってる」
『あと、飯も作っといてくれよ』
返事をする間もなく不通音が聞こえたので、瑠々は端末をテーブルに置いた。
彼女はソファに寝たままボーッとして、むっと顔をゆがめた。
「……ご飯作るのめんどくさ」
この錆び臭い部屋には、持ち運び式の小型コンロがある。もとはただの手洗い用だった洗面をシンク代わりに、瑠々はここで料理をする。
彼女はコンロの火を止めると、フライパンの中味を皿に盛る。他にも、鍋のスープや、電子レンジで温めたお米をテーブルへ運んでいく。
「んふふふ、今日も会心の出来」
テーブルに並んだ手料理を、瑠々が得意げな顔で眺めていたとき。
鉄扉が開くうるさい音がして、彼女は階段を見上げる。
柵で囲われた踊り場に、派手な髪色の男がいた。彼は目の前に垂れてくる前髪を鬱陶しそうに掻きあげた。髪の含まれた水がはね、髪だけではなく服からも、水が床に滴っている。
「雨?」
「急に降ってきやがった」
彼は不機嫌そうで、声を発することすら気だるげに見えた。ゆっくりと階段を下りてくる。
瑠々がタオルを持っていくと、無言で受け取る。代わりに濡れた上着を彼女に預けて、彼は髪をタオルで撫でつけながら、ソファにどっと倒れ込んだ。だるそうに、片手と片脚を床に垂らし、そのまま沈黙する。
水の滴る上着をドラム洗濯機に放り込んできた瑠々は、意気消沈している彼を見て、呆れていた。
「大人しくしてればよかったのに」
彼女の言葉に反応する気力もないのか、彼はなおも静かだった。
「紅蓮?」
あまりにも反応がないので、心配になった瑠々は彼を覗きこむ。
すると、彼に腕を引っ張られた。
「わっ」
バランスを崩し、彼女は彼の体の上に倒れ込む。
「ちょっと」
「疲れた」
文句を言おうとした瑠々の声を遮って、紅蓮が言う。言葉のとおり彼はだるそうに、自分の腹の上の彼女を見上げていた。
「腹減った」
「ご飯、出来てますよ~」
「お前を食べたい」
「うっせうっせ。冷めないうちに食えっつーの」
「あァ……」
むっとしている瑠々の頬に、紅蓮が手をのばす。雨に濡れてすっかり冷たくなった手に、彼女が手を重ねる。その後、彼女は体を倒して、紅蓮の唇にキスをする。
「はい、これで元気出して、早くご飯食べて」
「足らねェ……」
「空きっ腹で出かけるから~自業自得~」
「お前が拗ねるからだろ……一週間もよォ……俺の寝てる間に財布も盗りやがるし……アイスごときでよォ……」
「アイスごとき、ねッ」
「ぐふっ」
無防備な彼の腹に、瑠々の拳がのめり込む。
「ま、これで許してあげるよ。今の紅蓮、ちょっと可哀想だし」
そう言って、彼女は体を倒し、彼に抱きつく。雨と鉄錆の混ざった不快なにおいがして、一瞬、顔をしかめる。けれども、湿ったシャツ越しの彼の体温が心地よくて、瑠々はそのまま目を閉じる。
紅蓮が、彼女を抱きしめる。そして、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐きだした。
「やっぱ俺、お前がいねえと生きていけねえなあ」
「馬鹿なこと言ってないで、早く食べて。もう十分でしょ」
彼女は紅蓮の上から退いて、コンロ脇の棚に箸やスプーンを取りにいく。
戻ってきたときには、紅蓮は起き上がっていたものの、ソファの背もたれにぐったりと寄りかかっていた。
「アーンしようか?」
「してくれるのか?」
「元気そうじゃん。自分で食べて」
彼に箸を押し付けて、瑠々は向かいに置かれた、一人がけのソファに座り込んだ。テーブルに手を伸ばし、テレビのリモコンを手にとる。
ちょうどテレビ画面に映し出されたのは、報道番組だった。
『――――本日の午後三時頃、セントラル地区で魔女による被害が発生しました。事態鎮圧の際に、警官隊の一人が負傷、民間人に被害はなく、現在魔女は政府の収容施設に移送中とのことです』
「これ」
「なあに?」
「お前が電話で言ってたやつだろ」
燃え残った、黒い建物が画面に映される。しかし、周りの建物で瑠々にはすぐにわかった。あの魔女に襲われた、ジュエリーショップだ。
「怖かったか?」
「うん、怖かったよ。火の魔女だった。警察の人が燃やされて…………あと、店から盗った宝石を食べたら、火が強くなったの。ごわーって」
「宝石って美味いのか?」
「私は食べるなら、宝石よりアイス」
「まだ言ってやがる」
うんざりした様子で、紅蓮は箸でハンバーグを千切る。
「で? あとは?」
「あと…………あっ、茨の王」
「茨?」
記憶を手繰り寄せるように、紅蓮は呟く。
「政府の子飼いの王、魔女狩りか……」
「茨の王がね、火の魔女をやっつけたの。すごいの、もうね、めっちゃすごかった! 地面の煉瓦を砕いて木が生えてきてね、ほんとやばかった」
「やばいってどれくらい?」
「どれくらいって、あ、そうだ、魔女の炎を弾いてた! 一度燃やされちゃったんだけど、火が弾けたの。しかも、全然やけどしてない。すごくない?」
「あー、そうだな……」
興奮した様子で矢継ぎ早に、そして稚拙な言葉でその光景を語ろうとする瑠々。
適当な返事を寄越す紅蓮に、瑠々はむっと彼を睨んだ。
「聞いてる?」
「あぁ、聞いてる……」
曖昧で、上の空な返事。
しばらく考えこんで、瑠々は首を傾げた。
「興味津々?」
「まあな……」
曖昧な言葉を返す彼は、テレビに映し出された焼け跡の映像をずっと見つめていた。
すると、映像が移り変わる。
『速報です。ウェストパーク地区の工業地区で、暴行事件が発生しました。近隣の工場に勤務する従業員から「叫び声が聞こえる」との通報を受けて警察が向かったところ、建物内で、血を流した複数の男性を発見。二十七名が重軽傷を負い、病院に搬送されました。被害者は全員、工業地区を拠点として活動するギャングの構成員とみられており、また、警察からの情報では、傷口は鋭利な刃物でつけられたものと――――』
別のニュースになってもぼうっと画面を見つめたまま、こちらには見向きもしない彼を、瑠々は膝に頬杖をついて見つめていた。
「だめだからね?」
紅蓮が目だけでこちらを見る。
「危ないことしないで」
「しねえよ」
「そうかな」
「してないだろ?」
まるで許しを乞うように、彼は眉をよせて笑う。気だるい笑みでも疲れた笑みでもない、でもほとんどいつもの顔と見分けがつかない。
そんな彼を見て、瑠々はさらに問い詰める。
「嘘付きは泥棒の始まり」
「ひとの財布盗ったやつがなに言ってんだ。おまけに、スッカラカンにしやがって」
彼が箸で、テーブルのうえの財布をつつく。
「そのお金、もとを辿れば私のじゃない?」
「新聞紙を寸分違わず一万円札の形に切ったのは俺。つまり、共用資産」
「私、財布兼家政婦になるためにあなたと結婚したわけじゃないんだけど」
瑠々の声は、まるで責め立てるようだった。
彼女の様子に、紅蓮は箸を置き、彼女へ向きなおる。
「瑠々」
「私も、紅蓮がいないと生きてけない。あなたが欲しくて、だから“
「瑠々、こっち」
手招きされ、彼女は彼の隣に座る。
「俺もお前が大事だ。心配するな、ずっと一緒にいる」
「危ないことしないって約束する?」
「だから、してないだろ」
「してるよ」
「してない」
「言うこと聞かないと、手足切り落として監禁しちゃうよ」
「面白い冗談だなァ」
「雨なんて嘘。血のにおい、水被ったくらいじゃ消えないの」
「俺の血じゃねえよ」
「いつかそうなる」
「だから?」
「危ないことしないで」
何度もそう言う瑠々に、紅蓮は声をあげてくつくつと笑った。降参といいたげに、彼は両手をあげる。
「わかった、わかった。危ないこと、しない、しません」
「信じられない」
「そこは信じてくれよぉ」
「…………」
しばらく瑠々は厳しい目で彼を見つめていたが、ひとつ、溜息をおとす。
すると、彼に頭をなでまわされた。彼の薬指にはめられたごつい指輪が頭にあたって、痛いと言って、その手を払いのけた。