【web再録】こんにちはで離別
初めてそれを見たときは、血と見紛った。
「え……?」
小さな、赤い塊。少し気分が優れなくて便所に駆け込んだ自分自身が、つい先程それを吐き出したとは俄に信じ難くて。消化液で溶けたドロドロの吐瀉物とは明らかに違う、整った形状のそれが水溜まりに浮かぶのををじっと眺める。
知らない形ではなかった。平たい米粒が無数に集まり、円形を成すこの姿。持ち合わせる情報からこれに近いものを挙げるとすると――
「……花?」
小さな、赤い花。もっと言うと、雛菊のようだ。あまり花のことは詳しくないけれど、市販の豪華な弁当にそれらしい花が入っているのを何度か見てきたので、これはまだ馴染みがある方だ。しかし、俺の知りうる範囲の雛菊は、ほとんどが黄色い。赤い花は初めてお目にかかる。それこそ本当にいつの間にか雛菊を飲み込んでいて、何処かで血に染まって出てきたのかも知れないが、もしそうならば花云々以前の問題だろう。
とにかく、俺はそのとき、自分の口から吐き出された小さな花から目が離せなくて。「気味が悪い」と吐き捨ててレバーを捻ることさえも忘れて、場違いなところでゆらゆら踊るそれを眺めるだけで放課後の長い時間を潰してしまっていた。
* * *
「……よし。異常無し、っと」
この時間のガーデンテラスは、お洒落なカフェメニューでゆったりとブレイクタイムを過ごす生徒で賑わっている。お昼時ほど混雑はしていないので生徒同士のトラブルもあまり起きないが、犬や猫、果ては蛇まで、野良や野生の動物が迷い込んでいるとの報告を時折受ける。扱いに慣れている者が世話をしていることもあるが、やはり生徒に危害があってはまずいので、最近は特に念入りにチェックするようにしていた。
「あっ。えっと……衣更先輩、ですよね?」
「ん?」
見回りを終えて出て行こうとすると、不意に近くの席から声を掛けられる。髪の長い、見覚えのある一年生だ。
「確か、紫之……だっけ? スバルがよく世話になってる」
「そ、そんな! むしろぼくの方がお世話になりっぱなしですよ~……! じゃなくて、えっと……こんにちは。先輩も、ガーデンテラスで休憩ですか?」
「いや、俺は生徒会の仕事で様子を見に来ただけだ。見た感じ変なことは起きてないみたいだし、そろそろ戻ろうかな~、なんて」
「そ、そうですよね。お邪魔しちゃってすみません。ぼく、紅茶部の活動の準備をしていたんですけど、もし先輩がお暇ならご一緒したいと思っただけなので」
よく見ると、紫之がとっている席のテーブルには、高そうなティーセットやらお茶菓子やらが丁寧に並べられている。花壇に近いせいか、花々の甘い香りが程よく漂っていて、ここでティータイムを過ごすのはさぞかし贅沢なひとときなのだろう、と、紅茶の世界とは縁遠い庶民なりに想像を巡らせてみた。
「……綺麗だな」
「あっ、はい! こないだ凛月先輩にお花を戴いちゃったので、折角だから植えてみたんです。良い匂いですよね……♪」
「あぁ。確かにここで飲む紅茶は美味そうだな~。生徒会室にも少し貰えないかな? なんちゃって」
「ま~くんが欲しいなら、いくらでもあげる~……♪」
「おっ、マジ? 言ってみるものだな――ん?」
ここにはいないはずの人物の声。テーブルの下で、何かが蠢く。
「んひぃっ!?」
「ひゃあぁっ!?」
塊は大きく伸びをして、ずるずると外へ這い出てきた。
「おい~っす、ま~くん。ようこそ、紅茶部へ~」
「り、凛月先輩!? いつからそこに……!」
「ずっといたんだけど。は~くんが気付いてくれないから、出るタイミング掴めなくてさ~……?」
地中から復活したゾンビのように緩慢な動作で立ち上がると、凛月は花壇に植えられた花を一本摘み取る。名前は知らないけれど、とても上品な甘い香りが魅力的な花だった。
「はい、ま~くん」
「え……本当にいいのか?」
「俺が寄付した花なんだし、どうしようと俺の勝手だもん。は~くんもいいよね?」
「はい。お花はまだたくさんありますし、こんなに良いお花、ぼくたちだけで楽しんじゃうのも勿体無いので」
「だってさ。ほら」
「お、おう……さんきゅ……」
スイセンくらいの、片手で持つのに丁度良い大きさの花。長い茎に触れた瞬間、香りがより近くなる。思わずそれをそのまま鼻まで持っていって、体中を満たすつもりで何度も深呼吸した。
「気に入った?」
「そう、かもな……」
「ふふっ。『大事に』してね」
「……?」
『大事』が妙に引っかかる言い回しだったけれど、そこまで深く考えている暇も無く。あまり帰りが遅くなって副会長に説教を食らうのだけはごめんだったので、俺は挨拶もそこそこに足早にその場をあとにした。
雛菊を吐いたのは、それから数十分ほど経ってからのことだ。
★ ★ ★
「……ねぇ、は~くん」
「? はい、何でしょうか凛月先輩」
「風邪ってさぁ、うつせば治るっていうじゃん?」
「えっと……それがどうかしましたか?」
花壇に新しく増えた花を指先で弄りながら、セイロンティーを一口。蒸らしすぎたのか、いつもより渋味が強い。
「いや……恋煩いも、うつせば治るのかなぁ、と思って」
「こ、恋……ですか!? そ、そそそれって、まさか凛月先輩が……!?」
「声が大きいよ、落ち着いて……。まぁ、似たようなものかなぁ。世の中にはさ、あんまり知られてないけど、人を好きになると発症する病があるの」
「恋の病、って感じのやつですか? ちょっとロマンチックですね~♪」
「うん。そして、愛が伝われば綺麗に治る。切ない片思いを象徴する、悲しい病だ」
花から漂う甘い香りが心地良い。少し変わった形だが、薔薇の一品種だったはずだ。活力を戴くには丁度良い。
「でも、恋ってそもそも伝染するものなんですか? ぼくにはそういうのよく分かりませんけど……」
「幸福も鬱も伝染するなら、愛も恋も伝染するよ。それがきっちり実を結ぶかは置いといて」
そのための『寄付』だ。近頃、ガーデンテラスの見回りをま~くんがしているのはよく見かける。今日、図らずもこちらまで彼を誘導してくれたは~くんにはいつか恩返しをせねばなるまい。
多くの病気は、『外に出たもの』から伝染する。この認識は基本中の基本だ。咳に含まれる病原菌、言葉やオーラに込められた感情、そして吐瀉物に混じったウイルス。
「ごめん、ちょっとトイレ」
「は~い」
もしも好きな人に、自分と同じ気持ちがあったら。そして、その気持ちを自覚させることが出来たら。
同じ恋の病を患い、それを通じて、互いの思いに気付き合えたら。
「うっ……ぇ……」
アネモネの紫色の花びら――正確には萼片らしい――は、『信じて待つ』意思の表れ。両想いには程遠いメッセージ。
噂によれば、最後は銀色の百合を吐くらしい。それまでに、一体何度お前を愛し、何輪の花を生めば良い。きっとあのガーデンテラスは、いつか俺の空回りした愛の欠片で埋め尽くされて、触れればうつるその感染力で、学院中を巻き込むことだろう。
その前に、どうか。愛を知れ。
【終?】
「え……?」
小さな、赤い塊。少し気分が優れなくて便所に駆け込んだ自分自身が、つい先程それを吐き出したとは俄に信じ難くて。消化液で溶けたドロドロの吐瀉物とは明らかに違う、整った形状のそれが水溜まりに浮かぶのををじっと眺める。
知らない形ではなかった。平たい米粒が無数に集まり、円形を成すこの姿。持ち合わせる情報からこれに近いものを挙げるとすると――
「……花?」
小さな、赤い花。もっと言うと、雛菊のようだ。あまり花のことは詳しくないけれど、市販の豪華な弁当にそれらしい花が入っているのを何度か見てきたので、これはまだ馴染みがある方だ。しかし、俺の知りうる範囲の雛菊は、ほとんどが黄色い。赤い花は初めてお目にかかる。それこそ本当にいつの間にか雛菊を飲み込んでいて、何処かで血に染まって出てきたのかも知れないが、もしそうならば花云々以前の問題だろう。
とにかく、俺はそのとき、自分の口から吐き出された小さな花から目が離せなくて。「気味が悪い」と吐き捨ててレバーを捻ることさえも忘れて、場違いなところでゆらゆら踊るそれを眺めるだけで放課後の長い時間を潰してしまっていた。
* * *
「……よし。異常無し、っと」
この時間のガーデンテラスは、お洒落なカフェメニューでゆったりとブレイクタイムを過ごす生徒で賑わっている。お昼時ほど混雑はしていないので生徒同士のトラブルもあまり起きないが、犬や猫、果ては蛇まで、野良や野生の動物が迷い込んでいるとの報告を時折受ける。扱いに慣れている者が世話をしていることもあるが、やはり生徒に危害があってはまずいので、最近は特に念入りにチェックするようにしていた。
「あっ。えっと……衣更先輩、ですよね?」
「ん?」
見回りを終えて出て行こうとすると、不意に近くの席から声を掛けられる。髪の長い、見覚えのある一年生だ。
「確か、紫之……だっけ? スバルがよく世話になってる」
「そ、そんな! むしろぼくの方がお世話になりっぱなしですよ~……! じゃなくて、えっと……こんにちは。先輩も、ガーデンテラスで休憩ですか?」
「いや、俺は生徒会の仕事で様子を見に来ただけだ。見た感じ変なことは起きてないみたいだし、そろそろ戻ろうかな~、なんて」
「そ、そうですよね。お邪魔しちゃってすみません。ぼく、紅茶部の活動の準備をしていたんですけど、もし先輩がお暇ならご一緒したいと思っただけなので」
よく見ると、紫之がとっている席のテーブルには、高そうなティーセットやらお茶菓子やらが丁寧に並べられている。花壇に近いせいか、花々の甘い香りが程よく漂っていて、ここでティータイムを過ごすのはさぞかし贅沢なひとときなのだろう、と、紅茶の世界とは縁遠い庶民なりに想像を巡らせてみた。
「……綺麗だな」
「あっ、はい! こないだ凛月先輩にお花を戴いちゃったので、折角だから植えてみたんです。良い匂いですよね……♪」
「あぁ。確かにここで飲む紅茶は美味そうだな~。生徒会室にも少し貰えないかな? なんちゃって」
「ま~くんが欲しいなら、いくらでもあげる~……♪」
「おっ、マジ? 言ってみるものだな――ん?」
ここにはいないはずの人物の声。テーブルの下で、何かが蠢く。
「んひぃっ!?」
「ひゃあぁっ!?」
塊は大きく伸びをして、ずるずると外へ這い出てきた。
「おい~っす、ま~くん。ようこそ、紅茶部へ~」
「り、凛月先輩!? いつからそこに……!」
「ずっといたんだけど。は~くんが気付いてくれないから、出るタイミング掴めなくてさ~……?」
地中から復活したゾンビのように緩慢な動作で立ち上がると、凛月は花壇に植えられた花を一本摘み取る。名前は知らないけれど、とても上品な甘い香りが魅力的な花だった。
「はい、ま~くん」
「え……本当にいいのか?」
「俺が寄付した花なんだし、どうしようと俺の勝手だもん。は~くんもいいよね?」
「はい。お花はまだたくさんありますし、こんなに良いお花、ぼくたちだけで楽しんじゃうのも勿体無いので」
「だってさ。ほら」
「お、おう……さんきゅ……」
スイセンくらいの、片手で持つのに丁度良い大きさの花。長い茎に触れた瞬間、香りがより近くなる。思わずそれをそのまま鼻まで持っていって、体中を満たすつもりで何度も深呼吸した。
「気に入った?」
「そう、かもな……」
「ふふっ。『大事に』してね」
「……?」
『大事』が妙に引っかかる言い回しだったけれど、そこまで深く考えている暇も無く。あまり帰りが遅くなって副会長に説教を食らうのだけはごめんだったので、俺は挨拶もそこそこに足早にその場をあとにした。
雛菊を吐いたのは、それから数十分ほど経ってからのことだ。
★ ★ ★
「……ねぇ、は~くん」
「? はい、何でしょうか凛月先輩」
「風邪ってさぁ、うつせば治るっていうじゃん?」
「えっと……それがどうかしましたか?」
花壇に新しく増えた花を指先で弄りながら、セイロンティーを一口。蒸らしすぎたのか、いつもより渋味が強い。
「いや……恋煩いも、うつせば治るのかなぁ、と思って」
「こ、恋……ですか!? そ、そそそれって、まさか凛月先輩が……!?」
「声が大きいよ、落ち着いて……。まぁ、似たようなものかなぁ。世の中にはさ、あんまり知られてないけど、人を好きになると発症する病があるの」
「恋の病、って感じのやつですか? ちょっとロマンチックですね~♪」
「うん。そして、愛が伝われば綺麗に治る。切ない片思いを象徴する、悲しい病だ」
花から漂う甘い香りが心地良い。少し変わった形だが、薔薇の一品種だったはずだ。活力を戴くには丁度良い。
「でも、恋ってそもそも伝染するものなんですか? ぼくにはそういうのよく分かりませんけど……」
「幸福も鬱も伝染するなら、愛も恋も伝染するよ。それがきっちり実を結ぶかは置いといて」
そのための『寄付』だ。近頃、ガーデンテラスの見回りをま~くんがしているのはよく見かける。今日、図らずもこちらまで彼を誘導してくれたは~くんにはいつか恩返しをせねばなるまい。
多くの病気は、『外に出たもの』から伝染する。この認識は基本中の基本だ。咳に含まれる病原菌、言葉やオーラに込められた感情、そして吐瀉物に混じったウイルス。
「ごめん、ちょっとトイレ」
「は~い」
もしも好きな人に、自分と同じ気持ちがあったら。そして、その気持ちを自覚させることが出来たら。
同じ恋の病を患い、それを通じて、互いの思いに気付き合えたら。
「うっ……ぇ……」
アネモネの紫色の花びら――正確には萼片らしい――は、『信じて待つ』意思の表れ。両想いには程遠いメッセージ。
噂によれば、最後は銀色の百合を吐くらしい。それまでに、一体何度お前を愛し、何輪の花を生めば良い。きっとあのガーデンテラスは、いつか俺の空回りした愛の欠片で埋め尽くされて、触れればうつるその感染力で、学院中を巻き込むことだろう。
その前に、どうか。愛を知れ。
【終?】
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