【web再録】こんにちはで離別
『風邪を治す薬』も、『風邪の治療法』も、本当の意味では存在しないらしい。
実際、病院で処方される薬も、菌やウイルスを殺す特効薬ではなく、咳止めや解熱剤などがほとんど。つまり、風邪そのものに直接攻撃を仕掛けるのではなく、出ている症状一つ一つを潰していく対症療法が広義の『治療法』という訳だ。つまり、最終的に頼れるものは、患者自身の自然治癒力。そういう意味では、最も身近で、誰もが一度はかかるはずの風邪こそが世界一の難病なのかも知れない――というのは、少し大袈裟だろう。
俺もそう思っていた。つい、昨日の昼までは。
* * *
『ちょっとトイレ』
《また?》
『すぐ戻る』
《ま~くん、その歳で頻尿?》
『お待たせ』
『そんな訳あるか』
『ただの腹痛』
《胃痛の間違いじゃない?》
『スタンプを送信しました』
『お前俺をなんだと思ってるの』
《心配してるのに》
『はいはい』
《もう遅いし具合悪いなら寝た方が良いんじゃない?》
『そうする』
『念のため薬飲んど置くわ』
『飲んでおく』
《Ritsuがスタンプを送信しました》
寝起きのせいか軽く痛む頭を押さえながら、昨晩交わしたメッセージのやり取りを遡る。二つのスタンプ――俺が送った、「ふざけんなよ!」と怒鳴る漫画のキャラクターと、相手から送られてきた、腹を抱えて笑っている雑なデザインの熊――を除いて、一行の短文を収めた細い吹き出しが並ぶ画面。いちばん最後の投稿は、日付を越える十五分ほど前のものだった。
「ふあぁ……ん~」
一つ前の俺の発言はその二分前。送信してすぐにキッチンへ胃薬を取りに行き、それを飲んだらすぐに寝たので、最後のスタンプに既読を付けたのはたった今ということになる。あいつはあの後どうしたのだろう。未読スルーだ何だと騒ぐような柄でもないし、察して一人で夜更かしでも始めたのかも知れない。ピアノを弾いたり、本を読んだり。あいつの夜もあいつらしく粛々と過ぎたことだろう。
しかし、朝は少なくとも一般的な学生にとっては平等だ。皆同じように通学路を進み、朝の挨拶を交わし、教室へ向かう。そして、そんな一日の始まりをあいつに告げるのは俺の仕事。だからこそ、尚更布団に閉じこもっている場合ではないのだ。
「……早く、しねぇとな……」
未だに鈍い痛みを訴える頭をボリボリ掻きながら、着古した部屋着をゆっくり脱いでいく。ぐるる、と腹が唸り声を上げると同時に、階下からカチャカチャと食器がぶつかる音が聞こえてきた。
――そうだ、朝食もとってから行かなければ。
折角用意してもらったものを残すのは申し訳ないし、十分に栄養を摂取しないと何故かあいつがうるさいのだ。自分はほとんどまともに食事をしない癖に、周囲の人間が不摂生をすると「血が不味くなる」とか何とか言って。遠回しの気遣いのつもりなのか、からかっているだけなのか。
いつも通りに着崩した制服姿で、脱いだ夜の抜け殻を拾い集める。相変わらず頭痛は収まらないし、唸る腹は限界を超えたのか痛みさえ訴え始めた。腹が減っては何とやら――血の味を憂えるあいつの真意が前者ならば、そういうことを言いたいのかも知れない。
胃腸を満たせば済む話。書類の山を崩すより余程簡単だ。
抱えたものをそのままに、部屋のドアを開け放つ。ちょうど鉢合わせた妹と軽く挨拶を交わして、そいつの後に続く形で階段を
「……………………っ!!!」
ジャー、ゴボゴボ――。
「……ぁ、うぅ、はぁ……っ」
脂汗がこめかみを伝い、今度は喉から漏れる呻き声。
先程まで抱えていた部屋着は再び床に散らばり、空いてしまった両手は今や激痛を抱える腹部を押さえている。ちょうど、最後にあいつが送ってきた熊のスタンプと同じように。しかし、決して面白いことがあって笑い疲れた訳ではない。腹筋よりもっと奥、体の内側から激しくノックされるような不愉快な痛みだった。
――大丈夫、大丈夫だ。急に起きたから体調が上手く整わないだけ。
何度目かの流水音を耳にする頃、ようやく落ち着いたことを確認してから立ち上がる。念のため、ベルトをいつもより緩めに締め直してから、部屋着を拾ってその場をあとにした。
* * *
「……お兄ちゃん、大丈夫なの?」
「何がだね、妹よ」
「何そのキャラ……たまにおじさんみたいなノリで喋るのやめてくれる?」
俺の調子が戻るよりずっと前から食卓に着いていたはずの妹は、未だに茶碗八分目まで盛られた白米を経由させてから、昨日の夕飯の余りらしき野菜炒めを咀嚼する。
「だからぁ、さっき急にダッシュでトイレ行ったと思ったら結構長い時間こもってたじゃん。様子見に行ったら何かハァハァ言ってるしさぁ。朝からどうしたの? いやらしいことでもしてた?」
「そ、そんな訳ね~だろ! するにしたってTPOは弁えるよ! お前が寝静まったのを確認してから、部屋に鍵をかけて声は抑えめに――」
「……ごめん、本当に大丈夫?」
返す言葉も御座いません。
「あ~……とにかく、もう平気だから。起きるタイミングが悪くて調子が出ないだけ。飯食って凛月起こしに行く頃には元通りだよ」
「ふぅん……まぁ、あんまり無理はしないでね。それで倒れられても迷惑だから」
「何だよ、つれないなぁ」
「……」
それ以上何も言わなくなった妹を横目に、温め直した味噌汁を豆腐ごと飲み干す。また内蔵の奥に違和感が蘇った気がしたけれど、熱くなった液体の温度が胃に染みているだけだろう。さぁ、この緩やかで確かな刺激を受け止めろ。そして内臓も目を覚ますがいい。不調なんて気のせいだ。完全に活動モードに入ればそれが嫌でも分かる。
「ごっそさん」
「え、もう?」
「凛月、昨日は遅かったみたいだからな。起こすのに時間が掛かりそうだから早めに行ってやらんと」
食器を洗い桶に浸けて、その足で洗面所へ。顔を洗って歯を磨いて、いつもより無造作に掻き上げた前髪をバレッタで留めたら、必殺のやる気モード。
「行ってきま~す」
部屋まで荷物を取りに行く過程は当然かつ面倒なので省略。漫画ならそういうことはコマとコマの間でやるほどの末梢的なものだ。勿論、そういった細かい日常動作の描写を売りにする作家も少なくはないが、俺はそんなにちまちました性格でもないので、適度に気を抜いていた方が語り手としての特色が――って、さっきから何の話だ。
玄関を抜け、数十メートルの距離をダッシュ。食事の直後だからか再び腹痛がぶり返してきたけれど、構ってもいられない。少し重い戸を開き、我が家のように慣れた動作でその小洒落た民家に上がり込んだら、わざと大きめの足音を立てながらある一室までまっしぐら。
「凛月! 起きろ! 出る時間だぞ!」
「んん~……?」
海外製のベッドの上で柔らかい布団の丘がもぞもぞと蠢く。やがてにょっきり生えてきた腕は、誕生日に俺がくれてやった目覚まし時計を乱暴に掴んだ。
「…………まだ、十五分は余裕あるんだけど……」
「お前に準備させたらその余裕はいつもパァだろ。昨日帰りが遅かった分、今日は早めに来てやったんだよ」
「そこはいつもよりゆっくり寝かせてくれるところじゃないの~……? 疲れてるんだからさぁ、少しは労わってよ……」
「これでもかというほど労わってやってるだろ、それも毎日。ほら、着替えさせるから万歳しろ」
以降、何だかんだ素直に手を挙げたり立ち上がったりする凛月の服を手早く着せ替え、脱がせた寝巻きはまとめて寄せておく。最後の仕上げ、上着を着せようと指示を出したところで、ローテンションな操り人形は手を挙げながら呟いた。
「……ねぇ、ま~くん」
「何だよ、凛月」
「何か……変な匂いする」
「は? 何処から?」
「ま~くんから」
「……仮にもアイドル相手に失礼な嘘言ってんじゃないよ」
「本当だもん……」
そう言われても、思い当たる要素が何も思いつかない。どんなに疲れていても風呂には入るし、食後に歯も磨いてきた。ハンドクリームやシャンプーはあまり香りの強いものを選ばないし、あとは、あとは――
「……胃酸」
「え?」
「匂いの正体。間違いないよ」
上着を通していない、白いシャツが剥き出しの手でそっと腹を押される。
「来る前に戻しちゃった? それとも出そうなのを我慢してる? どっちか分かんないけど、ま~くんのここは今の俺とおんなじ」
「なに、言って……」
ずっと無視していた痛みが、異物感が、鼓動に合わせてせり上がる感覚。思わず口を押さえると、舌の付け根から不快な酸味が広がってくる。
「いいから早くトイレ行って。ここで吐かれても、迷惑」
「……――――!!」
その言葉が起爆スイッチだった。
ドアを抜け、数メートルの距離をダッシュ。消化液を纏った養分のなり損ないが更に押し戻されてきたけれど、まだ我慢だ。緩い引き戸を開き、我が家のように慣れた動作でその狭い小部屋に滑り込んだら、大きめの音を立ててふわふわのカバーが付いた蓋を乱暴に開けて――
「ぇ、ぅおぉ……ぁ、がはっ、は……」
とても人には聞かせられない呻き声も、気心の知れたあいつになら許せる。そして、あいつもまた許してくれると信じていた。全て出し切っても苦痛は止まず、わざとらしくも見えるほど激しい呼吸で肩を揺らす。口の端から垂れた薄黄色の唾液が、涙で霞んだ便器の水溜まりに糸を引いて落ちていった。
「ぅ、ぐっ……」
コンコン。
『……大丈夫?』
「…………っ、あ……」
『うん、落ち着いてからで良いから。どうせ俺しか聞いてないし、ゆっくりゲロっちゃって』
何だよそれ、と言ったつもりだったが、べとつく口から漏れたのは絞り出すような吐息ばかり。代わりに側のトイレットペーパーを千切り、舌先に残った粘液を吐き出しながら口元を拭う。
「ん、悪い……もう話せる」
『そう。それで……どういうつもり?』
「どういうつもりって……」
何となく、今は凛月の声を聞きたくない。耳を塞ぐ代わりに貯水タンクのレバーを押して、胃腸にも拒絶された朝食の残骸を見送った。
『気付いてないとでも? 俺を誰だと思ってるの。わざわざま~くんが具合悪そうな素振りを見せなくても、匂いとか顔色とかで分かるんだから』
「そうかよ……でも、もう大丈夫だから」
『言うと思った……どうせ家でも吐いたんでしょ? そんな気がする。だって、様子がおかしいのは今に始まったことじゃないもんねぇ?』
「あ……」
そうだ。寝る直前のバーチャルな会話。離れていても、誰の近況でも知ることが出来る画期的な発明品。何気ないやりとりでも全て記録に残るツールに、隠し事は通用しない。それが親しい間柄ならば尚更だろう。まして、相手は往々にして常識の通じない妖怪のような幼馴染。電子のやり取りや優れた知覚を介さずとも、凡人たる俺の知り得ない手段はきっと他に幾らでも持っているはずだ。
「はは……俺はお前が恐ろしいよ」
『何の話~? とにかく、早く行くよ』
「そ、そうだな。遅刻はまずいし――」
『何言ってるの? 学校ならさっき欠席の連絡入れといたから。ついでに俺の分もね』
「はぁっ!?」
相変わらずこういうときは驚くほど手際が良いのだから困る。たまに凛月が俺を世話する側に回ると、拒否する前に退路を断たれ、気付けば盤の隅っこでチェックメイト。どんな立場でもこの策士には敵わない、頭では分かっているつもりなのだが……。
「つ~か、何でちゃっかりお前まで……!」
「付き添いだよ、付き添い。病院から帰ったら、俺が広辞苑もびっくりの手厚~い看病をしてあげるからねぇ……♪」
「『厚い』違いだし、そんな余計に頭が痛くなりそうな看病要らんよ……」
「えっ、頭痛も? ……なるほど、やっぱりね」
* * *
その『やっぱり』が何を指していたのかは知る由も無いが、こいつのことだ。とっくに目星をつけて、そしてたった今的中したと見て間違いないだろう。いやに上機嫌で用意されたお粥をゆっくり咀嚼しながら、にやにやと薄気味悪いその笑顔を睨む。
「他の科でも流行ってるらしいからね~、ナントカ胃腸炎。インフルエンザの陰に隠れて忘れられがちだけど」
かかりつけの内科医が口にしたのは、最近聞き覚えのある病名だった。そういえば、インフルエンザによる出席停止期間を終えて間もない会長が、今度は一昨日からそれを患ってダウンしているなどということを副会長に聞かされたような気がする。間の数日、生徒会室で何度か会っていたし、ウイルスを貰ってしまったのかも知れない。
「エッちゃんめ……紅茶部の活動があったら俺とは~くんまで危なかったんだけど」
「まぁ、これくらいならすぐ直るから大丈夫だよ。インフルエンザじゃなかっただけましだって」
「甘いなぁ、ま~くんは。あの病原菌スプリンクラー、今度やったら治療費請求しても文句言われないよねぇ?」
「変なあだ名付けるなよ、いじめだぞそれ……お前こそ、いつまでも感染症患者の側でうろうろしていて良いのか? これ、結構感染力強いらしいじゃないか」
「ん~……」
ゆっくりと凛月の手が伸びてきて、お粥を掬っていたレンゲをおもむろに奪われる。「あ~ん」でもしたいのかと思い少し口を開けて待っていると、たっぷりの水気を含んだ白米はそのまま本人の口の中へと――
「って、こらこら! 待て! 何やってんだ凛月!」
「ん~……? そういえば味見を忘れていたな、と……」
「人の話聞いてたか!? うつったらどうするんだよ! ぺっしなさい、ぺっ!」
「聞いてたってば……ぺっも何も、もう口に入れちゃったんだからとっくに手遅れなんだけど」
「だから、何でそんなこと……」
「そりゃまぁ、『吸血鬼』なりの治療法、みたいな?」
「は……?」
そっと土鍋に戻されたレンゲを、再び使う気にはなれなかった。形が崩れないまま中央に残っていた梅干しだけをつまんで、残りはベッドサイドへ。
「俺も不本意なことに兄者の血族だからねぇ。接触して生気を吸い取るタイプという点では共通なの。でもさぁ、やっぱりプラスなものばっかり受け取り続けるのは申し訳ないよ。だからせめて……能力としてじゃなくても、『悪いもの』を肩代わり出来るくらいにはなりたいかなって」
ま~くん限定で、と微笑むと、凛月は残ったお粥を丁寧に集めて、一粒残らず平らげる。もう叱る元気も尽きていたが、不思議と不愉快な気分でもなかった。
「それに、俺にうつっちゃえば今度はま~くんが看病してくれるでしょ? それで貸し借り無しってことで」
「結局それが目的か」
「いいじゃん、治りたてなら抗体も働いてくれるし。それに治療費はエッちゃんからきっちり貰うつもりだからね。ま~くんのウイルスはエッちゃんのもの、エッちゃんのものはエッちゃんの責任~♪」
「またそんな謎理論を……」
「だからさ」
ふ、と視界が少し暗くなる。ぱちん、という音と共に前髪が重力に従ったかと思うと、
「……~♪」
しっとりとした、柔らかなハミング。いつの間に知っていたのか、こいつと出会うずっと前、ほんの小さな頃に大好きだった子守唄。
「ん……りっちゃん、それ……」
「~♪~♪」
「やめて……眠く、なるから……」
「はいはい、病人と赤ちゃんは寝るのが仕事。ねんねんころり~、あなたはだんだん眠くなる~……♪」
ぽんぽん、と優しく規則的に頭を叩かれ、その度に視界がぼやけていく。どうにかしがみつこうと保っていた意識も次第に切れ切れになり、最後に残ったのは聞き慣れた歌声。昔はとても聞けなかった、つい最近ようやく出会えた安らぎ。
――――。
――。
数日後の朝。自宅を飛び出して向かった先で、蝋のような顔色で口元を拭う凛月と、バケツを抱えて涙目でおろおろするばかりの朔間先輩を見たのはまた別の話。
【終】
実際、病院で処方される薬も、菌やウイルスを殺す特効薬ではなく、咳止めや解熱剤などがほとんど。つまり、風邪そのものに直接攻撃を仕掛けるのではなく、出ている症状一つ一つを潰していく対症療法が広義の『治療法』という訳だ。つまり、最終的に頼れるものは、患者自身の自然治癒力。そういう意味では、最も身近で、誰もが一度はかかるはずの風邪こそが世界一の難病なのかも知れない――というのは、少し大袈裟だろう。
俺もそう思っていた。つい、昨日の昼までは。
* * *
『ちょっとトイレ』
《また?》
『すぐ戻る』
《ま~くん、その歳で頻尿?》
『お待たせ』
『そんな訳あるか』
『ただの腹痛』
《胃痛の間違いじゃない?》
『スタンプを送信しました』
『お前俺をなんだと思ってるの』
《心配してるのに》
『はいはい』
《もう遅いし具合悪いなら寝た方が良いんじゃない?》
『そうする』
『念のため薬飲んど置くわ』
『飲んでおく』
《Ritsuがスタンプを送信しました》
寝起きのせいか軽く痛む頭を押さえながら、昨晩交わしたメッセージのやり取りを遡る。二つのスタンプ――俺が送った、「ふざけんなよ!」と怒鳴る漫画のキャラクターと、相手から送られてきた、腹を抱えて笑っている雑なデザインの熊――を除いて、一行の短文を収めた細い吹き出しが並ぶ画面。いちばん最後の投稿は、日付を越える十五分ほど前のものだった。
「ふあぁ……ん~」
一つ前の俺の発言はその二分前。送信してすぐにキッチンへ胃薬を取りに行き、それを飲んだらすぐに寝たので、最後のスタンプに既読を付けたのはたった今ということになる。あいつはあの後どうしたのだろう。未読スルーだ何だと騒ぐような柄でもないし、察して一人で夜更かしでも始めたのかも知れない。ピアノを弾いたり、本を読んだり。あいつの夜もあいつらしく粛々と過ぎたことだろう。
しかし、朝は少なくとも一般的な学生にとっては平等だ。皆同じように通学路を進み、朝の挨拶を交わし、教室へ向かう。そして、そんな一日の始まりをあいつに告げるのは俺の仕事。だからこそ、尚更布団に閉じこもっている場合ではないのだ。
「……早く、しねぇとな……」
未だに鈍い痛みを訴える頭をボリボリ掻きながら、着古した部屋着をゆっくり脱いでいく。ぐるる、と腹が唸り声を上げると同時に、階下からカチャカチャと食器がぶつかる音が聞こえてきた。
――そうだ、朝食もとってから行かなければ。
折角用意してもらったものを残すのは申し訳ないし、十分に栄養を摂取しないと何故かあいつがうるさいのだ。自分はほとんどまともに食事をしない癖に、周囲の人間が不摂生をすると「血が不味くなる」とか何とか言って。遠回しの気遣いのつもりなのか、からかっているだけなのか。
いつも通りに着崩した制服姿で、脱いだ夜の抜け殻を拾い集める。相変わらず頭痛は収まらないし、唸る腹は限界を超えたのか痛みさえ訴え始めた。腹が減っては何とやら――血の味を憂えるあいつの真意が前者ならば、そういうことを言いたいのかも知れない。
胃腸を満たせば済む話。書類の山を崩すより余程簡単だ。
抱えたものをそのままに、部屋のドアを開け放つ。ちょうど鉢合わせた妹と軽く挨拶を交わして、そいつの後に続く形で階段を
「……………………っ!!!」
ジャー、ゴボゴボ――。
「……ぁ、うぅ、はぁ……っ」
脂汗がこめかみを伝い、今度は喉から漏れる呻き声。
先程まで抱えていた部屋着は再び床に散らばり、空いてしまった両手は今や激痛を抱える腹部を押さえている。ちょうど、最後にあいつが送ってきた熊のスタンプと同じように。しかし、決して面白いことがあって笑い疲れた訳ではない。腹筋よりもっと奥、体の内側から激しくノックされるような不愉快な痛みだった。
――大丈夫、大丈夫だ。急に起きたから体調が上手く整わないだけ。
何度目かの流水音を耳にする頃、ようやく落ち着いたことを確認してから立ち上がる。念のため、ベルトをいつもより緩めに締め直してから、部屋着を拾ってその場をあとにした。
* * *
「……お兄ちゃん、大丈夫なの?」
「何がだね、妹よ」
「何そのキャラ……たまにおじさんみたいなノリで喋るのやめてくれる?」
俺の調子が戻るよりずっと前から食卓に着いていたはずの妹は、未だに茶碗八分目まで盛られた白米を経由させてから、昨日の夕飯の余りらしき野菜炒めを咀嚼する。
「だからぁ、さっき急にダッシュでトイレ行ったと思ったら結構長い時間こもってたじゃん。様子見に行ったら何かハァハァ言ってるしさぁ。朝からどうしたの? いやらしいことでもしてた?」
「そ、そんな訳ね~だろ! するにしたってTPOは弁えるよ! お前が寝静まったのを確認してから、部屋に鍵をかけて声は抑えめに――」
「……ごめん、本当に大丈夫?」
返す言葉も御座いません。
「あ~……とにかく、もう平気だから。起きるタイミングが悪くて調子が出ないだけ。飯食って凛月起こしに行く頃には元通りだよ」
「ふぅん……まぁ、あんまり無理はしないでね。それで倒れられても迷惑だから」
「何だよ、つれないなぁ」
「……」
それ以上何も言わなくなった妹を横目に、温め直した味噌汁を豆腐ごと飲み干す。また内蔵の奥に違和感が蘇った気がしたけれど、熱くなった液体の温度が胃に染みているだけだろう。さぁ、この緩やかで確かな刺激を受け止めろ。そして内臓も目を覚ますがいい。不調なんて気のせいだ。完全に活動モードに入ればそれが嫌でも分かる。
「ごっそさん」
「え、もう?」
「凛月、昨日は遅かったみたいだからな。起こすのに時間が掛かりそうだから早めに行ってやらんと」
食器を洗い桶に浸けて、その足で洗面所へ。顔を洗って歯を磨いて、いつもより無造作に掻き上げた前髪をバレッタで留めたら、必殺のやる気モード。
「行ってきま~す」
部屋まで荷物を取りに行く過程は当然かつ面倒なので省略。漫画ならそういうことはコマとコマの間でやるほどの末梢的なものだ。勿論、そういった細かい日常動作の描写を売りにする作家も少なくはないが、俺はそんなにちまちました性格でもないので、適度に気を抜いていた方が語り手としての特色が――って、さっきから何の話だ。
玄関を抜け、数十メートルの距離をダッシュ。食事の直後だからか再び腹痛がぶり返してきたけれど、構ってもいられない。少し重い戸を開き、我が家のように慣れた動作でその小洒落た民家に上がり込んだら、わざと大きめの足音を立てながらある一室までまっしぐら。
「凛月! 起きろ! 出る時間だぞ!」
「んん~……?」
海外製のベッドの上で柔らかい布団の丘がもぞもぞと蠢く。やがてにょっきり生えてきた腕は、誕生日に俺がくれてやった目覚まし時計を乱暴に掴んだ。
「…………まだ、十五分は余裕あるんだけど……」
「お前に準備させたらその余裕はいつもパァだろ。昨日帰りが遅かった分、今日は早めに来てやったんだよ」
「そこはいつもよりゆっくり寝かせてくれるところじゃないの~……? 疲れてるんだからさぁ、少しは労わってよ……」
「これでもかというほど労わってやってるだろ、それも毎日。ほら、着替えさせるから万歳しろ」
以降、何だかんだ素直に手を挙げたり立ち上がったりする凛月の服を手早く着せ替え、脱がせた寝巻きはまとめて寄せておく。最後の仕上げ、上着を着せようと指示を出したところで、ローテンションな操り人形は手を挙げながら呟いた。
「……ねぇ、ま~くん」
「何だよ、凛月」
「何か……変な匂いする」
「は? 何処から?」
「ま~くんから」
「……仮にもアイドル相手に失礼な嘘言ってんじゃないよ」
「本当だもん……」
そう言われても、思い当たる要素が何も思いつかない。どんなに疲れていても風呂には入るし、食後に歯も磨いてきた。ハンドクリームやシャンプーはあまり香りの強いものを選ばないし、あとは、あとは――
「……胃酸」
「え?」
「匂いの正体。間違いないよ」
上着を通していない、白いシャツが剥き出しの手でそっと腹を押される。
「来る前に戻しちゃった? それとも出そうなのを我慢してる? どっちか分かんないけど、ま~くんのここは今の俺とおんなじ」
「なに、言って……」
ずっと無視していた痛みが、異物感が、鼓動に合わせてせり上がる感覚。思わず口を押さえると、舌の付け根から不快な酸味が広がってくる。
「いいから早くトイレ行って。ここで吐かれても、迷惑」
「……――――!!」
その言葉が起爆スイッチだった。
ドアを抜け、数メートルの距離をダッシュ。消化液を纏った養分のなり損ないが更に押し戻されてきたけれど、まだ我慢だ。緩い引き戸を開き、我が家のように慣れた動作でその狭い小部屋に滑り込んだら、大きめの音を立ててふわふわのカバーが付いた蓋を乱暴に開けて――
「ぇ、ぅおぉ……ぁ、がはっ、は……」
とても人には聞かせられない呻き声も、気心の知れたあいつになら許せる。そして、あいつもまた許してくれると信じていた。全て出し切っても苦痛は止まず、わざとらしくも見えるほど激しい呼吸で肩を揺らす。口の端から垂れた薄黄色の唾液が、涙で霞んだ便器の水溜まりに糸を引いて落ちていった。
「ぅ、ぐっ……」
コンコン。
『……大丈夫?』
「…………っ、あ……」
『うん、落ち着いてからで良いから。どうせ俺しか聞いてないし、ゆっくりゲロっちゃって』
何だよそれ、と言ったつもりだったが、べとつく口から漏れたのは絞り出すような吐息ばかり。代わりに側のトイレットペーパーを千切り、舌先に残った粘液を吐き出しながら口元を拭う。
「ん、悪い……もう話せる」
『そう。それで……どういうつもり?』
「どういうつもりって……」
何となく、今は凛月の声を聞きたくない。耳を塞ぐ代わりに貯水タンクのレバーを押して、胃腸にも拒絶された朝食の残骸を見送った。
『気付いてないとでも? 俺を誰だと思ってるの。わざわざま~くんが具合悪そうな素振りを見せなくても、匂いとか顔色とかで分かるんだから』
「そうかよ……でも、もう大丈夫だから」
『言うと思った……どうせ家でも吐いたんでしょ? そんな気がする。だって、様子がおかしいのは今に始まったことじゃないもんねぇ?』
「あ……」
そうだ。寝る直前のバーチャルな会話。離れていても、誰の近況でも知ることが出来る画期的な発明品。何気ないやりとりでも全て記録に残るツールに、隠し事は通用しない。それが親しい間柄ならば尚更だろう。まして、相手は往々にして常識の通じない妖怪のような幼馴染。電子のやり取りや優れた知覚を介さずとも、凡人たる俺の知り得ない手段はきっと他に幾らでも持っているはずだ。
「はは……俺はお前が恐ろしいよ」
『何の話~? とにかく、早く行くよ』
「そ、そうだな。遅刻はまずいし――」
『何言ってるの? 学校ならさっき欠席の連絡入れといたから。ついでに俺の分もね』
「はぁっ!?」
相変わらずこういうときは驚くほど手際が良いのだから困る。たまに凛月が俺を世話する側に回ると、拒否する前に退路を断たれ、気付けば盤の隅っこでチェックメイト。どんな立場でもこの策士には敵わない、頭では分かっているつもりなのだが……。
「つ~か、何でちゃっかりお前まで……!」
「付き添いだよ、付き添い。病院から帰ったら、俺が広辞苑もびっくりの手厚~い看病をしてあげるからねぇ……♪」
「『厚い』違いだし、そんな余計に頭が痛くなりそうな看病要らんよ……」
「えっ、頭痛も? ……なるほど、やっぱりね」
* * *
その『やっぱり』が何を指していたのかは知る由も無いが、こいつのことだ。とっくに目星をつけて、そしてたった今的中したと見て間違いないだろう。いやに上機嫌で用意されたお粥をゆっくり咀嚼しながら、にやにやと薄気味悪いその笑顔を睨む。
「他の科でも流行ってるらしいからね~、ナントカ胃腸炎。インフルエンザの陰に隠れて忘れられがちだけど」
かかりつけの内科医が口にしたのは、最近聞き覚えのある病名だった。そういえば、インフルエンザによる出席停止期間を終えて間もない会長が、今度は一昨日からそれを患ってダウンしているなどということを副会長に聞かされたような気がする。間の数日、生徒会室で何度か会っていたし、ウイルスを貰ってしまったのかも知れない。
「エッちゃんめ……紅茶部の活動があったら俺とは~くんまで危なかったんだけど」
「まぁ、これくらいならすぐ直るから大丈夫だよ。インフルエンザじゃなかっただけましだって」
「甘いなぁ、ま~くんは。あの病原菌スプリンクラー、今度やったら治療費請求しても文句言われないよねぇ?」
「変なあだ名付けるなよ、いじめだぞそれ……お前こそ、いつまでも感染症患者の側でうろうろしていて良いのか? これ、結構感染力強いらしいじゃないか」
「ん~……」
ゆっくりと凛月の手が伸びてきて、お粥を掬っていたレンゲをおもむろに奪われる。「あ~ん」でもしたいのかと思い少し口を開けて待っていると、たっぷりの水気を含んだ白米はそのまま本人の口の中へと――
「って、こらこら! 待て! 何やってんだ凛月!」
「ん~……? そういえば味見を忘れていたな、と……」
「人の話聞いてたか!? うつったらどうするんだよ! ぺっしなさい、ぺっ!」
「聞いてたってば……ぺっも何も、もう口に入れちゃったんだからとっくに手遅れなんだけど」
「だから、何でそんなこと……」
「そりゃまぁ、『吸血鬼』なりの治療法、みたいな?」
「は……?」
そっと土鍋に戻されたレンゲを、再び使う気にはなれなかった。形が崩れないまま中央に残っていた梅干しだけをつまんで、残りはベッドサイドへ。
「俺も不本意なことに兄者の血族だからねぇ。接触して生気を吸い取るタイプという点では共通なの。でもさぁ、やっぱりプラスなものばっかり受け取り続けるのは申し訳ないよ。だからせめて……能力としてじゃなくても、『悪いもの』を肩代わり出来るくらいにはなりたいかなって」
ま~くん限定で、と微笑むと、凛月は残ったお粥を丁寧に集めて、一粒残らず平らげる。もう叱る元気も尽きていたが、不思議と不愉快な気分でもなかった。
「それに、俺にうつっちゃえば今度はま~くんが看病してくれるでしょ? それで貸し借り無しってことで」
「結局それが目的か」
「いいじゃん、治りたてなら抗体も働いてくれるし。それに治療費はエッちゃんからきっちり貰うつもりだからね。ま~くんのウイルスはエッちゃんのもの、エッちゃんのものはエッちゃんの責任~♪」
「またそんな謎理論を……」
「だからさ」
ふ、と視界が少し暗くなる。ぱちん、という音と共に前髪が重力に従ったかと思うと、
「……~♪」
しっとりとした、柔らかなハミング。いつの間に知っていたのか、こいつと出会うずっと前、ほんの小さな頃に大好きだった子守唄。
「ん……りっちゃん、それ……」
「~♪~♪」
「やめて……眠く、なるから……」
「はいはい、病人と赤ちゃんは寝るのが仕事。ねんねんころり~、あなたはだんだん眠くなる~……♪」
ぽんぽん、と優しく規則的に頭を叩かれ、その度に視界がぼやけていく。どうにかしがみつこうと保っていた意識も次第に切れ切れになり、最後に残ったのは聞き慣れた歌声。昔はとても聞けなかった、つい最近ようやく出会えた安らぎ。
――――。
――。
数日後の朝。自宅を飛び出して向かった先で、蝋のような顔色で口元を拭う凛月と、バケツを抱えて涙目でおろおろするばかりの朔間先輩を見たのはまた別の話。
【終】
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