りつまおワンライアーカイブ
二礼、二拍手、一礼。
別に御社に奉納された嘘っぱちの神にお参りするわけでもないのに、染みついた慣習は御神木の傷のように癒えにくい。これをやらずに背を向けるのも落ち着かないし、かといって振り切れたとしても、そんなところを村の子供たちに見られでもしたら示しがつかないだろう。還ってきてしまった俺は、この村の本物の『春告の皇子』になってしまったのだから。
神様、ごめんなさい。残念ながら、そこに置いた油揚げも、ひょうたんの中の口噛み酒も、あなたのものではありません。この村をぐるりと囲む、どれかの山の、ずっと奥。あなたが見張っているはずの、鬼の寝床へ捧げ物。
知っているはず。あなたはずっと見ているのだから。だって、あれからとうに三年目。一度も姿を見ないまま、俺はこの前、梅の花を肴に改めて酒の味を知った。
* * *
「おいしい?」
微睡むような、優しい声。
「あれから、ちょっと配合を変えてみたんだぁ。ま〜くんも大人になったみたいだし、お酒の楽しみ方はちゃんと覚えておくべきかなって」
ふと、手元を見る。
漆塗りの杯を持っていたはずの右手には、大振りの、しかし片手でも持ちやすいひょうたんが握られていて。その口に残っているのは白濁の雫かと思いきや、夜空のような黒に変色していた。
「大丈夫。たくさん飲んでも死にはしないから。俺の……強くは、ないけど……魔力に誓って、保証するよ」
顔を上げると、楽しげに――しかし、寂しさを覆う蓑のようにも見える――細められた赤い目と視線が交わる。
「凛、月……?」
「ん? なぁに、ま〜くん」
「どうして、ここに……?」
普段着の黒衣。月光のような肌。記憶の中の弟鬼と全く同じ姿形をした少年が、座敷わらしのように小さく縮こまって座っていた。
「どうして、って……いちゃ、いけない?」
「だって、ここ……――!」
辺りを見回して、俺はそれ以上の驚愕を全身に感じた。
酒と同じ色の空の頂点に、星々を見渡すように浮かぶ満月。鳥の姿もなく、虫の鳴く声も聞こえず。ただ、道の向こうから吹いてくる風が、背後で大きく口を開けた洞窟の暗闇に吸い込まれて、ごうごう音を立てるばかりだった。
「どうしたの?」
「あ、いや……ここ、まさか……」
「まさかって何。いつもと何も変わらないじゃん」
いつも。
その一言に、何故か頭の中がぐらぐら揺れる。こんなときに酒が回ってきたのだろうか。ならばこの違和感は酒のせいか、それとも。
「……こういう結末も、あったのかも知れないよねぇ。ま〜くんが大人になった今なら、あるいは最初から……」
ぼんやりした意識が、思考する気力を奪っていく。嗚呼、久しぶりだな、この感じ。酒が回ったときの微睡みは近頃も何度か味わったけれど、それの比ではない、妖術にかけられたような、夢心地。
「……俺、また怒られちゃうな……今まで、ごめんね……たまには……また……」
* * *
「――そのせいか、また近頃南の山を鬼がうろつくようになりよった。皆、くれぐれも山に行くときは独りで――」
長老の話も、上手く聞き流さなければならない。子供たちは真剣だ。いくら聞き飽きていても、大人が気を抜くさまを真似されては困る。
しかし、欠伸を噛み殺すのも楽ではない。ここ数ヶ月、妙な夢を見るせいでろくに眠れていないせいだろうか。内容をすぐ忘れてしまうところが余計に腹立たしい。お告げの類ではないけれど、何か大切な誰かと楽しく過ごしているはずの夢なのに。
「ねぇ、長老。その鬼って、どんな格好してるの?」
「うむ。鬼はふたりいるそうでな。ひとりは髪も服も真黒い痩せた鬼で――」
「もうひとりは、髪も服も、果ては角まで火のように赤い……そう、ちょうどおぬしと瓜二つの鬼だったそうじゃよ、真緒」
別に御社に奉納された嘘っぱちの神にお参りするわけでもないのに、染みついた慣習は御神木の傷のように癒えにくい。これをやらずに背を向けるのも落ち着かないし、かといって振り切れたとしても、そんなところを村の子供たちに見られでもしたら示しがつかないだろう。還ってきてしまった俺は、この村の本物の『春告の皇子』になってしまったのだから。
神様、ごめんなさい。残念ながら、そこに置いた油揚げも、ひょうたんの中の口噛み酒も、あなたのものではありません。この村をぐるりと囲む、どれかの山の、ずっと奥。あなたが見張っているはずの、鬼の寝床へ捧げ物。
知っているはず。あなたはずっと見ているのだから。だって、あれからとうに三年目。一度も姿を見ないまま、俺はこの前、梅の花を肴に改めて酒の味を知った。
* * *
「おいしい?」
微睡むような、優しい声。
「あれから、ちょっと配合を変えてみたんだぁ。ま〜くんも大人になったみたいだし、お酒の楽しみ方はちゃんと覚えておくべきかなって」
ふと、手元を見る。
漆塗りの杯を持っていたはずの右手には、大振りの、しかし片手でも持ちやすいひょうたんが握られていて。その口に残っているのは白濁の雫かと思いきや、夜空のような黒に変色していた。
「大丈夫。たくさん飲んでも死にはしないから。俺の……強くは、ないけど……魔力に誓って、保証するよ」
顔を上げると、楽しげに――しかし、寂しさを覆う蓑のようにも見える――細められた赤い目と視線が交わる。
「凛、月……?」
「ん? なぁに、ま〜くん」
「どうして、ここに……?」
普段着の黒衣。月光のような肌。記憶の中の弟鬼と全く同じ姿形をした少年が、座敷わらしのように小さく縮こまって座っていた。
「どうして、って……いちゃ、いけない?」
「だって、ここ……――!」
辺りを見回して、俺はそれ以上の驚愕を全身に感じた。
酒と同じ色の空の頂点に、星々を見渡すように浮かぶ満月。鳥の姿もなく、虫の鳴く声も聞こえず。ただ、道の向こうから吹いてくる風が、背後で大きく口を開けた洞窟の暗闇に吸い込まれて、ごうごう音を立てるばかりだった。
「どうしたの?」
「あ、いや……ここ、まさか……」
「まさかって何。いつもと何も変わらないじゃん」
いつも。
その一言に、何故か頭の中がぐらぐら揺れる。こんなときに酒が回ってきたのだろうか。ならばこの違和感は酒のせいか、それとも。
「……こういう結末も、あったのかも知れないよねぇ。ま〜くんが大人になった今なら、あるいは最初から……」
ぼんやりした意識が、思考する気力を奪っていく。嗚呼、久しぶりだな、この感じ。酒が回ったときの微睡みは近頃も何度か味わったけれど、それの比ではない、妖術にかけられたような、夢心地。
「……俺、また怒られちゃうな……今まで、ごめんね……たまには……また……」
* * *
「――そのせいか、また近頃南の山を鬼がうろつくようになりよった。皆、くれぐれも山に行くときは独りで――」
長老の話も、上手く聞き流さなければならない。子供たちは真剣だ。いくら聞き飽きていても、大人が気を抜くさまを真似されては困る。
しかし、欠伸を噛み殺すのも楽ではない。ここ数ヶ月、妙な夢を見るせいでろくに眠れていないせいだろうか。内容をすぐ忘れてしまうところが余計に腹立たしい。お告げの類ではないけれど、何か大切な誰かと楽しく過ごしているはずの夢なのに。
「ねぇ、長老。その鬼って、どんな格好してるの?」
「うむ。鬼はふたりいるそうでな。ひとりは髪も服も真黒い痩せた鬼で――」
「もうひとりは、髪も服も、果ては角まで火のように赤い……そう、ちょうどおぬしと瓜二つの鬼だったそうじゃよ、真緒」