りつまおワンライアーカイブ

 気まぐれに童心に返ってみたくなることは、誰しもままあることだろう。自分の場合、気分がそっち方面に向かったときには、それはもう十分すぎるほど最適な環境が両手を広げて温かく出迎えてくれるのだ。
 自分が世界を知るよりずっと前から整えられていたらしいその環境、我が家では書斎と呼んでいるその薄暗い空間には、古今東西の学術書、既に亡き者となった文豪の著書の初版、何代か前の先祖が書き溜めた落書きだらけのスケッチブック、そういったものが背の高い箱に何段にも分けられて毎日飽きもせずおしくらまんじゅうをしている。押されても泣かない物言わぬ書物たち、その輪の中には当然子供向けの絵本も何食わぬ顔で入っていて、幼い頃の自分や兄などはそれを眺めているだけで丸一日過ごしていたものだった。
 当時はただ純粋に楽しんでいたものの、成長して改めて大きな表紙を一つずつ見ていくと、ある一つの共通点をその浅い奥行の中から発掘出来うる。当然両親が買い与えてくれていた、薄くて硬い、石板のような初歩的な書物。単純にこちらの名前から連想していたのか、それとも――ほとんど、本能に近い何かか。

* * *

「へぇ、本当に『月』ばっかなのな」
 そのような話を幼馴染に振って、自分の部屋の中でいくつか絵本を並べる。ほとんどの表紙に、黄色、あるいは白い大きな丸。タイトルも、これまた角の丸いひらがなで『おつきさま』と付くものばかりで、単純な上っ面だけ見ていると全て同じに見えてきそうだ。
「やっぱり『凛月』だからか? お前、小さい頃は月とか好きだったの?」
「知らなぁい。自分で選んで買ってもらったことなんて一度も無いし」
「ふぅん。お前、夜になると元気になるから、てっきりそうなのかと思ってた。夜な夜な暗い空を見上げてさ、月の満ち欠けなんか気にしてみたりして」
「なぁに、そんなロマンチストに見えるって?」
「いや、何て言うか――おっ、これうちにもあるぜ」
 懐かしい、とま~くんが掲げる一冊の絵本。大きな白い丸がでかでかと描かれた、月の絵本の一つ。作者は海外の有名な絵本作家で、代表作は複数の言語で翻訳され、世界中で読まれているほどだ。
「どんな話だっけ。確か、女の子が父親に『おつきさまとって!』って言うやつ」
「タイトル通りじゃん」
「まぁ、そうだけど……」
 ま~くんはぱらぱらとページを捲っては、「あ~、そうそう」やら「うわっ、ここ好きだった!」やら独り言を漏らしている。小さな子供も似たようなものだ。同じ絵本を何十回と読み聞かせてもらっても飽きる様子を見せず、むしろ自分の好きなシーンに入ると『もう一回』を繰り返す。絵本には、そんな魔法があるのだ。読まれさえすれば誰でも良い。大きな絵と、ひらがなだらけの短い文章。メドゥーサが一目見た者を石に変えるならば、絵本は一目見た者をたちまち子供に変える。
「あ~、読んだ読んだ。懐かしいな~、俺も昔はこれ読んだ後に空を見てさ。どうにか月を取れないかな~、なんて、妹と一緒に月に向かって手を伸ばしてみたことあったんだよ」
「ふふっ。可愛かったんだねぇ、昔のま~くんは」
「今は可愛げが無いみたいな言い方やめろよ」
「ん~……」
 ふと、カーテンを開けたままの窓を見やる。大きな、白い丸。絵本の表紙と同じ形の、しかしそれよりもずっと輝きの強い満月がそこにはあった。
「生意気、かも」
「え? ちょ、おい! 何処行くんだよ!」
 思い立ったら即行動。元気な夜のうちに、あいつが朝に逃げてしまわないうちに。
 キッチンの戸棚からグラスを引っ張り出して、そこに水をたっぷり注ぐ。それを部屋に持って行けば、準備完了。
「何やってんだ?」
「ふふっ……俺はねぇ、月を取りたいからって自分から手を差し伸べてやるほど落ちぶれちゃいないの」
 窓を開け放ち、下に取り付けられた木の板にグラスを置く。
「むしろ、そっちから来てもらわないとねぇ。高みの見物なんて、相手にやられちゃ面白くないんだけど」
 水面に揺れる、歪んだ白い満月。水の檻に浮かぶ光は、見下ろせば容易く目に入る。
 『月』を名に持つ俺よりも早くま~くんに出会い、ま~くんを夢中にさせておいて、我が物顔で俺の夜を照らすお前に、少しくらい嫉妬しても構うまい。本当の意味で捕まえたわけでもない、幼稚な手でその光を閉じ込めても許されるだろう。
 少しの間だけで良い。愛しい人の『月』になるために、絵本の魔法にかかっていさせておくれ。
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