独白

「ったく、相変わらず油断も隙もあったもんやない……」
 何重にも追加の口止め料を要求してくる魔璃亜さんから逃げるようにライブハウスを出る頃には、いつもの歓楽街はより一層低俗な賑わいを見せていた。
 お気に入りの白いブーツを汚さないよう、アスファルトにこびりついた煙草の吸い殻を避けながら歩く。
 一部が壊れた眩しいネオン看板は、もう何年も直されていないような年季を感じる。遠くの空で、歌とも悲鳴ともつかない誰かの大声が溶けていく――マルチェルの情報を求めていつもひとりで足を運んできたこの場所も、今後は通う頻度が減るのかと思えば、それなりの寂しさが込み上げてきた。
 とはいえ元々警察という立場でありながら、見回りでもなく裏取引のためにご厄介になっていたのだ。これ以上やらかせば、また仮眠室送りにされてしまいかねない。毎晩来なくてもよくなるのは、喜ばしいことではあるのだけれど。
 ふと、頭の中に顔が浮かぶ。
 にやにやと、チェシャ猫のように笑いながら、こちらをからかう言葉を次々吐き出す憎たらしい顔。
 ――あいつは、こういうところも好きなんやろうか。
 真面目な第一課のふたりを、遊びでこんなところに呼び出すのは気が咎める。しかし、自分と同じように警察のはみ出し者の代名詞ともいえるあいつならば、欲と出会いと嘘と打算と……そういうものが渦巻く世界のことも、少しは気に入るのではなかろうか。どうやら味覚も正常になったようだし、もし酒にも興味を持ったならば、田中と魔璃亜さん以外の飲み友達が増えてちょうどいい。
 血によく似た赤ワインから始めて、カシス系カクテルにサングリア、ペアリング用のローストビーフ……そういえばウォッカとトマトジュースを合わせたカクテルのことを「ブラッディ・メアリー」と呼ぶのだったか。名高き悪女、血まみれメアリー。名前から気に入ってもらうのも悪くない。
 そんなことを考えながら角を曲がり、表通りに出る。秩序と混沌のパワーバランスがひっくり返るこの瞬間、視界の端でひらひら揺れるワンピースの裾がいつもやけに気になってしまう。女装も奇抜なコスプレも、押しつけられるでもなく自分の意思でやるようになってから長いこと経つというのに。
 ともあれ、清潔なオフィスビル付近のコンビニのトイレでも借りて、早いところいつもの自分に戻ってしまおう――そう考えて小洒落たタイルが敷かれた歩道に左足を載せた途端、私用のスマートフォンに設定されている着信音が小さく主張してくる。
 相手を確認すれば、予想通りの表示。こんな夜更けに、しかもこちらの端末にかけてくる人物など、世界広しと言えどそういたものではない。
「もしもし?」
『Buonasera,Marino.仕事はもう終わりましたか?』
 聞き慣れた堪能なイタリア語を、無駄に流暢かつ丁寧な、しかし関西訛りの抜けきらない日本語が追いかける。こんばんは、マリーノ――これくらいの簡単な挨拶ならば、脳内で同時に翻訳するのもそう難しくない。
「……こっちの台詞なんやけど、お父ちゃん。こんな時間に起きとるっちゅうことは、また連載の納期ギリギリになってから書き始めとるやろ」
『担当していた事件が解決したと聞いたので、今日は早めに帰ってくるかと思ったのですが。随分遅いので心配になってしまいまして。どこかへ飲みにでも行っていたのですか?』
「聞けや、こっちの話を。……まぁ、そんなところや。夕飯要らんって送っといたの、見とらんかった? もし用意してあるんやったら、代わりに明日の朝にでも食べるさかい、もうテーブルなおしといてもええで」
『いえ、それは見たので大丈夫です。もし今から帰るなら、気を付けてくださいね。この前の怪我のこともありますし……キミまでいなくなってしまっては、PapàもMammaも悲しいですから』
「――――」
 少し悩んで、口を開く。
「お父ちゃん」
『はい、お父ちゃんですよ』
 どうせ、いずれは話さなければならなかったことだ。
「マルチェルの、ことなんやけど……」
『……はい』
 電話口の声のトーンが、いくらか下がる。
「わしな、この前……あいつに、会ったんよ」
『……Marcellに?』
「……おう」
『……そうですか』
 思いのほかあっさりとした返事に、少し面食らう。そんなことあるわけがない、夢の話と混同しているだけでは――そう返される覚悟はあったのに。
「信じてくれるんか、わしの言うこと」
『自分の息子のことを信じない親がいるならば、今すぐ地獄に落ちるべきですね』
「……ははっ、それは言いすぎな気もするけど。そう、久しぶりに会ったんよ。すっかり背も伸びて、変わり果てた姿になって――」
 そこまで話して、口を噤む。自分から持ちかけたとはいえ、マルチェルの末路についてどのように説明すればいいのか分からなかった。「あいつが『四肢漁り』の正体だった」なんて口が裂けても言えないし、かと言って「『四肢漁り』に殺されて死んだ」なんて辛気臭い誤魔化し方も性に合わない。
『それは、よかったですね。あの子とは、何か話せましたか?』
 それならいっそのこと、笑えるくらい突飛な法螺話でもどうだろう。そもそも十五年前にいなくなって、とっくに失踪届を出してしまった奴に今さら再会できたという出来事自体がフィクションじみているのだから。
「……まぁ、それなりにな」
 それに、相手は人を楽しませる物語を紡ぐことを生業とする人物だ。どうせ嘘なら、エンディングは『めでたしめでたし』で締める方がいい。少なくとも、自分はその方が肌に合う。
「あいつ、ようやく今までのしがらみから解放されたみたいでなぁ。これからは自由を楽しみつつ、見識を広げるために旅に出る〜、とか言うとったわ。世界を何周しても足らんくらい、やりたいことがぎょうさん残っとるさかい、もうお父ちゃんとお母ちゃんが生きとる間に家に帰るんは難しいかも知れへんのやて。めちゃくちゃやろ?」
『ふふ……あぁ、そうですか。確かに、家族に心配をかけるのはあまり感心しませんが……故郷を捨てて日本に永住を決めた私がとやかく言えることでもありませんからね。自由で気まぐれなところは、ふたりとも私に似たのかも知れません』
「はぁっ? 何を言うとんねん、わしはそうでもないやろ? これでも長いこと公僕やっとるし、今も昔も萬家でお母ちゃんの次にしっかりしとります」
『キミこそ、仕事でもないのに現在進行形で夜中に出歩いていながら何を言いますか。十年くらい前からそんなことを何度も続けて、高校生の頃はその度に補導されかけたこと、忘れたわけではないでしょうに』
「ぐっ……せやから、あれは……」
 ぴしゃりと飛んできた真っ直ぐな説教に言い淀んでいると、相手はすぐに柔らかな語調に戻って続ける。
『えぇ、分かっていますよ。本当は私たちもキミの気持ちを汲んであげたかった。でも、法律とか規則とか、何かと厄介な壁で社会が正しく区切られているのは、この国も同じですからね。どこかで心の整理をしなければいけなかった。まだ子供だったキミには、それが難しかったのかも知れませんが』
「……今さら、そんなこと言われても。わしに黙って手続きしたんは、これからも一生許さへんからな」
『えぇ。してしまったものは仕方ありませんし、許してもらおうとも思っていません。親とはそういうものです。親の心子知らず、でしたか? この国にはそういう言葉がありますからね』
「そうや。そういう言葉があるからこそ、マルチェルも勝手にまたどっか行きよったわけやし? 残念やったなぁ、お父ちゃん。わしそっくりの男前に育ったあいつの顔を二度と見られんくなってしもて」
『わざわざ見ずとも分かりますよ。私と茉莉子さんの間に生まれておいて、そうならないわけがないでしょう? 便りがないのは元気な証拠、どこかにいるならそれで十分です』
 もうとっくに明日に備えて寝てしまっているであろうお母ちゃんの名前を出して、少し枯れた声は薄くへらへらと笑う。それに混じって、少し遠くから「みゃー」と可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。
『おぉ、よしよし。Mareも夜更かしさんですね〜?』
「この時間やと、マーレも運動会開きたくなっとるやろなぁ。お父ちゃんがまだ起きとるから文句でも言いに来たんとちゃう?」
『膝の上で寝始めましたよ。今日はそういう気分ではないみたいですね』
「そうか。そういえばマーレも、マルチェルがいない間に増えた家族やからなぁ……あいつ、公園に野良猫が入ってきたらよう遊びたがっとったし、きっと見せたら喜んでくれたやろうに」
『世界を旅するのでしょう? 私の故郷なんて、三歩歩けば必ず猫に出会うような街でしたから。彼女を知らなくとも、これから嫌というほど出会うことになりますよ』
「ははっ、それもそうやな。やっと自由になれたんやから……」
 すっかり往来も少なくなった車道を見つめながら、マルチェルの最期の言葉を思い出す。
 ――兄ちゃん、大好きやで。心だけは……ちゃんとここに、置いていけるからなぁ――――
 テセウスの船よろしく、本当の身体の原型も留めないほど何度も四肢を入れ替えられていたマルチェルだったが、あの片目と――心の片隅に残っていた人格だけは、確かにそこにあった。全身が灰になって、今度こそ影も形もなくなって……風に運ばれた灰の中に、あいつの魂はあったのだろうか。
 バラバラに、散り散りに。土に混ざって、海に流されて。近くへ、遠くへ、世界中に。それならあながち、この法螺話も間違いではなかったと言えるのではないだろうか。
 そう信じたいだけ、ではあるのだけれど。
『とにもかくにも』
 耳元に受けた声で我に返る。
『キミたちがまた会えたようで何よりです。心なしか、Marinoの声も以前より明るくなっていますし』
「そうかぁ? 別にわしは常にいつも通りやけど」
『意外と他者には分かるものですよ。Marcellが行方不明になってしまってからというもの、懐かない野良猫のようにピリピリしていましたからね。今は……そうですね、たまたま機嫌が悪いときに構ってほしくなってしまった家猫のような……』
「息子を猫で喩えるなや。猫の話書きすぎて、周りの生き物全てが猫に見える病気にでもかかったんか?」
『素晴らしい、そんな病気があるのならば是非ともかかってみたいものです。そうだ、次巻のネタはそれにしましょう。犬も鳥も虫も全て猫に見える呪いが蔓延する島に辿り着いた一行は、唯一それに耐性を持つ変わり者の白猫に――』
 電話口の向こうの声はぶつぶつと小さく、早口になっていき、紙を捲る音やらペンを走らせる音やらキーボードの打鍵音やらにかき消されて最早何を言っているのか分からない。担当編集にどやされるまでろくに仕事もしないひょうろく玉の癖に、一度こうなると本人が満足するまで止まらないのだ。この背中をずっと見ていたからこそ、人間性がどうであっても仕事人に経緯を払う精神が自分にも自然と身についたのかも知れない。
「お父ちゃん。そのまま仕事戻るんやったら、わしもう切るで? マルチェルについてはそういうことやから、明日の朝にでも改めてお母ちゃんにも話すからな」
『えぇ、お気を付けて』
 聞いているのか否か曖昧な生返事を聞き届けて、通話終了ボタンをタップする。見上げた空、ビルに埋もれた小さな夜空は、ネオン街より幾分かは星が見やすい。
 全円スカートのポケットにスマートフォンをしまうついでに、もう片方のポケットにも手を入れる。大きく広がったシルエットに上手く隠れた、固くて弾力のあるゴムの感触。ざらざらしていて、それでいてあのときよりひと回りは大きくなった手にはよく馴染む。
 ――燿くんなら、キャッチボールのコツにも詳しいやろか。
 あのときは結局どちらも上手く投げられなかったから、せめて相手にまっすぐ届けられるレベルにはなりたいものだ。マルチェルが大事にしていたこれに他所で傷をつけるわけにはいかないので、今度改めてスポーツ用品店で似たようなものを買い直して。
「何はともあれ、はよ日常に戻らんとな」
 小脇に抱えたサイズの合わない服を持ち直して、通りの先で眩しく輝くコンビニを目指す。場所を借りるついでに軽食と飲み物でも調達して、食べながらゆっくり帰ればいい。GPS追跡も身柄拘束もなくなった今、どうせ第三課の落ちこぼれ刑事の退勤後の素行など、監察官連中を除けば誰も気に留めることなどないのだから。
 イタリアの童謡を鼻歌で奏でながら、規則正しく並んだタイルの上を歩く。柔らかな秋風が、その隙間に挟まった砂利を小刻みに揺らしていた。
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