白仮面は虚ろを歌う

 何も考えず、同じリズムで、目についた適当な鍵盤を強く叩く。ポーン、ポーン。まるで時報の鐘のように物悲しい響きを持って、誰もいないボーカルルーム――いや、これは構想当時の呼び方か。今は確か、そう――『読譜の間』と呼ばれている部屋の壁に吸い込まれていく。
 壁といっても、楽譜やら音楽理論の資料やらがぎっしり詰まった背の高い本棚が埋め込まれた、さしずめ西洋の国立図書館といった具合の佇まいなので、音の反響はいまいち物足りない。まぁ、いくら防音設備が整っていても、あの『悪魔サタン』たちがどこまで嗅ぎつけてこられるか分かったものではない以上、ある程度の我慢は必要だろう。
 今はこうして楽器に触れて、音のひとつでも奏でられるだけでも十分すぎるほどの贅沢だ。これは俺だけでなく、全人類に課せられた神の試練。報酬は悠久の平和と、思いのままに地上を音楽で満たす自由。
 何小節分かも分からない四分音符をもう一度叩こうとしたそのとき、硬質なノックの音に遮られた。
「はい、何でしょう?」
『その声は……巽先輩? よかった、やっぱりここにいたんだね』
 聞き慣れた快活なテノールに誘われて、内装に取り残された手つかずのドアを開ける。遮るものがなくなってようやく対面した精悍な顔は、どこか不安げに揺れていた。
「一彩さん、どうされましたか? 出撃命令……という感じでもなさそうですが」
「ウム。今日は今のところ任務は入っていないから安心してほしいよ。そうではなくて、天祥院先輩から僕たちに招集がかかっていてね。藍良には先に行ってもらったから、巽先輩もスタプロの管制室まですぐに来てほしい」
「英智さんから? まさか……」
「……恐らくだけど、巽先輩も同じことを予想しているようだね。捜索活動の期限は今日までと言われていたし、僕もそのことだと考えている」
 一彩さんの瞳は、それでもこちらを真っ直ぐ見据えていた。表情全体を見るとやや落ち着かない様子であることは確かなのに、澄んだ空色の光彩にはまだ希望の光が見える。まだ仲間を失ったと決まったわけではない。もしかしたら無事に帰還したことを知らせるための招集かも知れない。彼と視線を合わせると、不思議とそんな気持ちで焦燥感が上塗りされていくような感覚に陥った。
「分かりました。まずは話を聞きに行きましょう。ピアノの片付けをしてきますので、少しだけ待っていてください」
「ピアノ? 巽先輩、何か弾いていたのかい?」
「いいえ、特にこれといって。手慰みに鍵盤を叩いていただけです。『彼女』のことを思うと、どうも落ち着いて曲を奏でる気にはならないもので」
「そうか。……」
 一彩さんは、それ以上何も言わなかった。言いたいことらしきものは目で強く語ってはいるものの、改めて口にするのも野暮だと思ったのだろうか。
 言葉には責任が伴う。不確かなことを口にすれば、途端に軽い言葉に聞こえてしまう。彼も出会った頃に比べると、状況に応じた慎重な発言を心がけているように感じる。あるいは、長く一緒に過ごすうちに心が通じ合ってきたのかも知れない。波長を擦り合わせて、やがてひとつの音にチューニングしていくように。
 丁寧にクロスをかけて、鍵盤の蓋を閉める。ゴトン、と重々しい音を立てて、漆黒の表面が蛍光灯を反射する。捲っていた防塵カバーを元に戻したら、グランドピアノは再びしばしの眠りにつく。圧迫感のある部屋の中で、ひと際存在感を放つ黒い塊。音楽を知らない子供たちが増えつつある昨今、もはや国内でもほとんど生産されていない大型の鍵盤楽器。この要塞で何十年も守られてきたその佇まいは、どこか切ない郷愁さえ感じさせていた。



 まだ真新しいパネルにIDカードをかざして、仰々しい自動ドアを開ける。
 ただ彩りを添えるためだけに存在する作り物の観葉植物に、淡い色の木製の調度品が並ぶ部屋。奥に窓らしきガラス製の壁が見えるが、鈍色の様々な機械に埋もれてしまって、設計者の意図していたであろう『開放感』の演出としてはほとんど機能していない。元々別の目的で使われる予定だった場所を突貫工事で改装したような異様な雰囲気。こればかりは、いつ何度来ても慣れそうになかった。
「やぁ、待っていたよ。これで全員揃ったみたいだね」
 談話スペースとして使われている一角に辿り着くと、相変わらず穏やかな微笑を浮かべた管理官──英智さんに出迎えられる。その背後には、大きなテーブルの前にひとりで取り残され、こちらに捨て犬のような目を向けながら手招きする藍良さんの姿があった。
「ヒロくん! タッツン先ぱァ〜い! うぅっ、やっと来てくれた! おれ、これから何言われるんだろうってずっと気が気じゃなくて……というか、トラウマが蘇りそうで今も心臓が限界まで縮んでる感じがする!」
「ふむ。確かに白鳥くんの言う通り、こうしてこの四人で顔を突き合わせると最初の頃を思い出すね。あぁ、安心して。また『君たちはクビだよ』なんて言いたくて呼び出したわけじゃないから。急拵えの『ESシンフォニカ』は、敵の数に対してまだまだ全然戦力が足りていない。正直なところ、明確に実力不足と言わざるを得ない職員も少なくはないけれど、呑気に人件費を惜しんでいる暇はないしね」
 とりあえず座って、と促されるままに空いた席に腰かける。窓と機械を背にした英智さんから見て左から順に、藍良さん、一彩さん、そして俺。テーブルを挟んで向かい合う俺たちの間に流れる沈黙は、そう長く続くはずもなく。
「さて。早速だけれど……いい話と悪い話、どちらから聞きたい?」
「え、えぇ?」
「ふふ、ごめんごめん。これ、こういうシチュエーションになるとつい言いたくなるよね。とはいえ、僕もふざけているわけではないよ。君たちに用意している知らせがふたつあることは事実だからね」
「フム。その知らせというのは、やはりどちらかはマヨイ先輩の件かな?」
「そう急かさないの。話が早いのは助かるけど、物事には順序というものがある。特に、こうしてわざわざひとつのチームの健在なメンバーを全員呼び出す必要があるほどの大切な話をするときには、ね」
 それで、どっちがいい? そう改めて尋ねる英智さんに、「後味を良くしたい」という理由で『悪い話』と即答したのは藍良さんだった。一彩さんと俺は特に希望はなかったので、その意見に従って英智さんの発表を待つ。
「そうだね……前にも伝えていたことだし、重ねてのお知らせにはなってしまうけれど。かねてより捜索を続けていたチーム『ALKALOID』所属コンダクター、礼瀬マヨイの所在は、通信途絶から一ヶ月経過した現在も不明のままだ。よって、本日をもって該当職員の捜索打ち切り、及び『ESシンフォニカ』からの除名処分の手続きを進めさせてもらう。ここまでで何か質問は?」
 沈黙。総意とはいえ消去法で選択した話題だ、強い抗議行動や反論を用意してこの面談に臨んでいる者が誰一人としているはずもなく。
「分かっているだろうけれど」まして、相手はこの戦時下で人類の防衛組織のいち支部を束ねる人物だ。「『そんなはずない』『もう少し捜せば見つかる』なんて安っぽい反論は無しだよ」その場しのぎの感情的な議論を持ちかけたところで、勝てる見込みなどとてもあるとは思えない。
「捜索班にはもう十分最善を尽くしてもらった。これ以上君たちばかりが僕の組織の貴重な資源を食い潰すことは許されない。草野球で遠くに飛ばしすぎたボールだって、誰かの家から予備のボールを持ってきたり、その辺の店で買ってきたりした方が遥かに早いし安全だ。知らない家屋の屋根の上や深い川の中へまで、わざわざ危険を冒して拾いに行くよりね」
「……ウム、悔しいけどそれが正しいよ。対D2戦の武器である僕たちは、重宝されこそすれ重用はされない。されるべきでない」
「ヒロくん!」
「普通の狩りと同じ、相手は対話の通じない獣だよ。得物を無くしたり壊したりしたからといって襲撃を待ってくれはしない。勿論、効率よく狩りを行うために道具にこだわるのは大事なことだけど、犠牲を惜しんでばかりいては被害をより大きくするだけだ――藍良も、それを理解したうえで指揮者コンダクターになったんだよね?」
「そ、それは……」
 再びの沈黙。藍良さんは口を小さく開いたり閉じたりするだけで、一彩さんの問いかけに対してそれ以上は何も答えなかった。否定したら使い捨ての戦力としての自分を、肯定したら仲間の犠牲を受け入れることになってしまう。所有物ひとつひとつに思い入れのあるらしいコレクター気質の彼にとって、この状況が如何に酷であるかはきっと計り知れないだろう。
 ここはひとつ、年長者としてさりげなく助け舟を出してあげねば。そう考えて、正面に向き直る。
「なるほど、分かりました。英智さん、話が大きく逸れる前に、もうひとつの『いい話』とやらを聞かせていただいても?」
「そうだね。ここで口喧嘩をしていても、見るに見かねた『礼瀬さん』が天井から落ちてきて仲裁してくれるわけでもなし、早く次に進めようか――おっと。白鳥くん、そんなにすごい顔で睨むと目玉が落ちてしまうよ。というのも、もうひとつの話も先の『悪い話』と全く無関係というわけでもなくてね」
「と、言いますと?」
「まぁ、それは実際に見てもらった方が早いかも知れない。本当は僕の隣にでも控えさせておいて、君たちが全員揃ってから紹介する流れでいきたかったのだけれど。これはこれで、原典通りのドラマチックな展開かもね」
 お決まりの勿体ぶった言い回しで口上を述べながら、英智さんは足を組み替えて天井を見上げる。
 ――嫌な予感がした。
 そこを意識した途端、一瞬前まで息を潜めていた『何か』の気配が蠢き出す。決して負のエネルギーや悪しきオーラなどではない、しかし慣れ親しんだものとも少し違う、これまで味わったことのない感覚が肌を撫でた気がして。
 逃れるように右へ目を逸らすと、隣に座っている一彩さんと目が合った。何かに気付いたような、そしてそれを言いたげな、槍のように鋭い確信めいた眼差し。しかし言葉が続けられるより先に、彼の視線は再び真上に向けられることになる。
 ゴト。ズル、ズル――
「管理官。私、そろそろ下りた方がいいですかぁ? 知らない人が三人もご挨拶に来ると聞いてから、心の準備を整えるのに時間がかかってしまって……あの、できればあと五分、いや十五分だけ――」
「そんなことを言っている場合ではないだろう。三人とも、これから君と戦場を共にする仲間となる指揮者コンダクターたちだ。味方の前で緊張しているようでは、D2を相手に命懸けの戦闘は務まらないよ」
「は、はい……分かりました。では少し失礼します」
 天井の点検口から声だけを覗かせていたその人は、身体を引きずって足先だけを下の空間に落とす。普通ならばそんなところから人間が出てこようものなら驚くものだが、俺たちはそのシチュエーションにあまりにも慣れすぎてしまっていた。
 だからこそ。とっくに気付いていたのに、認めたくはなかった。聴き馴染みのある声色は記憶より少し明るくて、穴から落ちてきた紫色のサイハイブーツはかつてのお披露目会からほとんど色褪せていなくて。
 軽い身のこなしで、降り立ったその姿。
 紫と黒を基調としたゴシックなドレス。
 薔薇のフェイスペイントが施された端正な顔立ち。
 緩く三つ編みに結われた艶やかな長髪。
 右目の周辺を覆う、純白の歪な仮面。
「さて諸君。これが『いい知らせ』だよ。本日付で、君たちのチームに新しいムジカートが着任することになった」
 彼女の瞼と口元が弧を描き、妖艶な微笑みの形になる。まるで深淵へといざなう魔物のように、その表情は見る者の視線を逃さない。

「皆さん、お初にお目にかかります・・・・・・・・・・・。私は『オペラ座の怪人』――今日からESシンフォニカ、及びチーム『ALKALOID』に配属されたムジカートです。どうぞよろしくお願い致します……♪」

 これが、彼女――『礼瀬マヨイ』さんとのあまりにもあっけない別れ。
 そして、彼女――『オペラ座の怪人』さんとの唐突な出会いの日の記録である。
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