巽マヨワンライアーカイブ

「タッツン先輩、遅いねェ」
「ウム。先ほど連絡があったけれど、それにしては時間がかかりすぎているような……」
 『実家の用事が押してしまって数分遅れる』という旨のようやく文章らしくなってきたメッセージが届いてからもうニ十分が経過している。文脈からして、これを送ってきたのは用事が済んでからのことであろうし、いま現在の遅刻の原因は別にあると見ていいだろう。とはいえ、あのお方に限って無断欠席などあり得ないので、こうなってくると己のネガティブ思考はよくない憶測ばかりを並べ立ててしまう。
 途中で足を痛めたのだろうか。妙なファンのかたやよくない輩に絡まれているのだろうか。それとも、まさか、また何らかの事故に――
 がちゃ。
「すみません、遅くなりましたな」
 しかし、ようやく開かれたドアのひと突きでそんな妄想はがらがらと崩れ去っていく。ほっと胸を撫で下ろすも束の間、ドアの向こうから現れたのは、あたかも何事もなかったかのように微笑む巽さんのあられもない姿。
「ちょっ!? タッツン先輩、どうしたのその恰好!?」
「はは。まぁ、いろいろありまして」
 巽さんは首筋に貼りつく襟足を軽く整えながら、湿って変色した練習着を脱ぎ始める。全身に服がぴったり密着していながらも床に雫が滴っていないということは、雨に軽く降られた程度の濡れ鼠だろう。しかし、今日は一日中晴れ模様で、閉めきった遮光カーテンの隙間からも僅かに日光が漏れている。とはいえ、雨でないとしても、『彼』という人間がびしょ濡れになる理由の推測は、それなりの時を過ごすことで相当絞られていた。
「いろいろって? 『ガーデニア』の菜園の水やり中に間違えて自分にかけちゃったとか?」
「いえ、途中の河川敷で泣いている子供を見かけまして。いつも持ち歩いている玩具を川に落としてしまったとかで、探すお手伝いをしていたらこんな時間に」
 肌の露出をあまり好まない巽さんは、着替えるときも一度全て脱いで下着一枚になるようなことはない。上を脱いだらすぐに清潔なTシャツを被り、下を脱いだら下をはき替える。その手際は鮮やかなものだ。
「どうせ着替えるなら、と横着して礼拝服から私服を着なかったのがいけませんでしたな。幸いなことにこうして着替えを持ってきていますが、上はTシャツしかありませんし、仕方がないのでこれでいきます」
 此度の罰も甘んじて受け入れましょう、とにこやかに笑い、巽さんは濡れた練習着をレッスンルームの手すりに干してこちらに合流してきた。
 今日の私とのマンツーマンレッスンは巽さんから、他の二人は少し離れたところで歌を合わせている。それですぐ近くにいられたおかげだろうか。彼の半袖から覗く腕はすっかり鳥肌が立っており、身震いのせいで一瞬だけ肩がひくりと上がったのを私は見逃さなかった。
「……あの。巽さん、これを」
 すかさず自分の上着のパーカーを脱ぎ、その広い背中に回り込んで肩にかける。
「もう冷えてくる季節ですし、そのままでは風邪をひいてしまいます。私の貧相な身体に合わせて作られたものですので、少し小さいかも知れませんが……」
 無理矢理羽織らされたパーカーをぼうっと見つめる巽さんの反応を見て、じわじわと後悔がこみ上げてくる。余計なお節介だっただろうか。私の体臭が染みていて不快だっただろうか。何かひと言でも返事がないと不安になってしまう。
「あ、あの、ご迷惑でしたよね!? 今すぐ脱いで私の顔面に投げつけてくれて構いませんので!」
「そんな無体なことしませんよ。ただ、少し心地良いなと思っていまして」
「は、はぁ……?」
 パーカーに袖を通しながら、襟元を顔に寄せる。
「マヨイさんの匂いがします。花の香りの洗剤と、マヨイさん自身の甘い香り。まるで背後から抱きしめられているようで、むしろとても落ち着きますな」
「そ、それはそれで恥ずかしいですぅうう! ひとっ走りして寮まで取りに行ってあげますから、やっぱり返してくださぁああいっ!」
「ふふ、お断りします♪」
「あぁっ、いい笑顔!? 悪さが滲み出ていますぅうっ!?」
 「そこ、うるさい!」と藍良さんが怒鳴るまであと五秒。彼のたっぷりの優しさと小さな不運、そして僅かな悪戯心に翻弄されるのはあと何度になることやら。
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