20220821
「……おや」
日課の礼拝を終え、開け放たれた扉から聖堂に戻ると、ベンチに黒い人影を認めた。今日はミサの日でもないし、そもそもこんな朝早くから教会を訪れる物好きな人物もこの町ではあまり見かけない。何より、背もたれの隙間から覗く特徴的な色の長髪こそ、正体を特定する最大の判断材料だろう。付き添いで車椅子を引いてくれていた助手も同じ結論に至ったのか、俺が次の言葉を紡ぐより先に口を開いた。
「『氷結さん』、そんなところで何をしているのかな?」
返事はない。眠っているのか、聞こえていないのか。
「朝とはいえ夏だから、吹きさらしで寝ていても風邪はひかないだろうけど、木製のベンチの上で長時間過ごしていると身体を痛めてしまうよ。折角先生が君にも寝室をあてがってくれたのだから、寝るならそっちのベッドに移動することをおすすめしたいな」
返事はない。よく通る声を持つ助手は、俺を乗せた車椅子を引いたまま人影に近付いていく。
「何も返ってこないと寂しいよ、『氷結さん』。聞こえているならひと言でも――」
「静かにしてください……はい、これでいいですかぁ?」
ようやく返ってきたのは、解けて角が丸くなった氷のように覇気のない返答。平生ならば彼が怒りや文句を向けるとき、氷柱のようにぴしゃりと鋭い語気で言葉を投げかけてくるものなのだが、ベンチに寝そべったままぐったりと項垂れてこちらを向こうともしないその姿からは、面影が欠片ほども感じられなかった。
「はぁ……この感覚自体久しぶりすぎて、今までどう対処していたのかさえ思い出せませんねぇ……? 雪解けどころか、その先の季節なんか『黒い雪』とは全く無縁でしたし……」
「ウム。よく分からないけど、要するに暑くて部屋を出てきたのかな? 確かに、ここなら風通しがいいぶんいくらか涼しいしね」
「まったく、人間も気が利きませんねぇ? より自分たちに都合よく、より生きやすい世界を作るために無様に足掻いているのなら、いい加減屋内だけでも季節を反転させる技術くらい開発していてもいいと思うのですがぁ……?」
「無茶なこと言わないでよォ、適温に保つくらいで十分だって」
聖堂の奥から現れたもうひとりの助手が、溜息をつきながら廊下に続く戸を閉める。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるその手には、綺麗に磨かれた盆が握られていた。
「おぉ、おはよう我が友! それは何を運んでいるのかな?」
「ん、ちょっとね。前に市場で青果店のおじさんに聞いたんだけど、暑いときは果物を冷凍して食べるといいんだってさ。試しに作ってみたから、礼拝帰りのクールダウンにどうかなと思って」
はい先生、と差し出された盆には、早生のぶどうがひと房と四等分に切られた桃が乗っている。どちらもうっすら付着した結露で表面が白く濁っており、立ち上る煙のような水蒸気が果実の纏う冷気を物語っていた。
『氷結の死神』さんも、流石に『冷凍』という単語を無視するわけにはいかなかったのだろう。四肢を投げ出して臥せた体勢から、緩慢な動作で上体を起こして助手の持つ盆を覗き込んできた。
「それを食べるんですかぁ? 凍らせたままずっと保存するのでなく? 随分とまぁ、勿体ないことを提案されたものですねぇ?」
「永久保存してどうするのさ、食べ物は食べるためにあるのに。そこまで言うなら、『氷結さん』も試食してみなよ」
助手はぶどうを房からひと粒もぎ取ると、『氷結の死神』さんの口元に差し出す。彼は異国の奇祭を目の当たりにしたかのような怪訝な顔をしつつも、渋々といった感じで自身の髪と同じ色の粒を口に入れた。
咀嚼。驚きに見開かれた瞳に輝きが宿る。
嚥下。物欲しげな顔で残りのぶどうを凝視する。
すぐに我に返り「味は大して変わりませんねぇ」と発言しながらも、焦って連発する甘噛みとそわそわした態度はどうにも誤魔化しようがなく。
「まだ冷凍庫に少しあるし、気に入ったならもっと食べていいよ。ただし、先生と半分こだからねェ?」
そう言い残し、小さな助手は相棒を引き連れて朝食の支度へ向かっていった。「あくまで試食なので」と漏らしながら二粒目に手を伸ばす友達に笑いかけながら、俺もよく熟れた桃の欠片をひとつ手に取った。
日課の礼拝を終え、開け放たれた扉から聖堂に戻ると、ベンチに黒い人影を認めた。今日はミサの日でもないし、そもそもこんな朝早くから教会を訪れる物好きな人物もこの町ではあまり見かけない。何より、背もたれの隙間から覗く特徴的な色の長髪こそ、正体を特定する最大の判断材料だろう。付き添いで車椅子を引いてくれていた助手も同じ結論に至ったのか、俺が次の言葉を紡ぐより先に口を開いた。
「『氷結さん』、そんなところで何をしているのかな?」
返事はない。眠っているのか、聞こえていないのか。
「朝とはいえ夏だから、吹きさらしで寝ていても風邪はひかないだろうけど、木製のベンチの上で長時間過ごしていると身体を痛めてしまうよ。折角先生が君にも寝室をあてがってくれたのだから、寝るならそっちのベッドに移動することをおすすめしたいな」
返事はない。よく通る声を持つ助手は、俺を乗せた車椅子を引いたまま人影に近付いていく。
「何も返ってこないと寂しいよ、『氷結さん』。聞こえているならひと言でも――」
「静かにしてください……はい、これでいいですかぁ?」
ようやく返ってきたのは、解けて角が丸くなった氷のように覇気のない返答。平生ならば彼が怒りや文句を向けるとき、氷柱のようにぴしゃりと鋭い語気で言葉を投げかけてくるものなのだが、ベンチに寝そべったままぐったりと項垂れてこちらを向こうともしないその姿からは、面影が欠片ほども感じられなかった。
「はぁ……この感覚自体久しぶりすぎて、今までどう対処していたのかさえ思い出せませんねぇ……? 雪解けどころか、その先の季節なんか『黒い雪』とは全く無縁でしたし……」
「ウム。よく分からないけど、要するに暑くて部屋を出てきたのかな? 確かに、ここなら風通しがいいぶんいくらか涼しいしね」
「まったく、人間も気が利きませんねぇ? より自分たちに都合よく、より生きやすい世界を作るために無様に足掻いているのなら、いい加減屋内だけでも季節を反転させる技術くらい開発していてもいいと思うのですがぁ……?」
「無茶なこと言わないでよォ、適温に保つくらいで十分だって」
聖堂の奥から現れたもうひとりの助手が、溜息をつきながら廊下に続く戸を閉める。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるその手には、綺麗に磨かれた盆が握られていた。
「おぉ、おはよう我が友! それは何を運んでいるのかな?」
「ん、ちょっとね。前に市場で青果店のおじさんに聞いたんだけど、暑いときは果物を冷凍して食べるといいんだってさ。試しに作ってみたから、礼拝帰りのクールダウンにどうかなと思って」
はい先生、と差し出された盆には、早生のぶどうがひと房と四等分に切られた桃が乗っている。どちらもうっすら付着した結露で表面が白く濁っており、立ち上る煙のような水蒸気が果実の纏う冷気を物語っていた。
『氷結の死神』さんも、流石に『冷凍』という単語を無視するわけにはいかなかったのだろう。四肢を投げ出して臥せた体勢から、緩慢な動作で上体を起こして助手の持つ盆を覗き込んできた。
「それを食べるんですかぁ? 凍らせたままずっと保存するのでなく? 随分とまぁ、勿体ないことを提案されたものですねぇ?」
「永久保存してどうするのさ、食べ物は食べるためにあるのに。そこまで言うなら、『氷結さん』も試食してみなよ」
助手はぶどうを房からひと粒もぎ取ると、『氷結の死神』さんの口元に差し出す。彼は異国の奇祭を目の当たりにしたかのような怪訝な顔をしつつも、渋々といった感じで自身の髪と同じ色の粒を口に入れた。
咀嚼。驚きに見開かれた瞳に輝きが宿る。
嚥下。物欲しげな顔で残りのぶどうを凝視する。
すぐに我に返り「味は大して変わりませんねぇ」と発言しながらも、焦って連発する甘噛みとそわそわした態度はどうにも誤魔化しようがなく。
「まだ冷凍庫に少しあるし、気に入ったならもっと食べていいよ。ただし、先生と半分こだからねェ?」
そう言い残し、小さな助手は相棒を引き連れて朝食の支度へ向かっていった。「あくまで試食なので」と漏らしながら二粒目に手を伸ばす友達に笑いかけながら、俺もよく熟れた桃の欠片をひとつ手に取った。
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