【web再録】たまごサンドの隠し味

『――それでは、週末の天気のポイントを見ていきましょう。明日の関東、明け方はまだ少し雨が残りそうですが、お昼頃には次第に高気圧に覆われ、晴れの予報となっております。日曜日は一日すっきりとした青空が広がり、高い秋空を感じられるでしょう。上から羽織れるもので調節しながら、お出掛けしてみるのもいいかも知れません。続いて、全国の予報です。――』
 誰が真剣に見ているわけでもない、BGM代わりにつきっぱなしのテレビを横目に共有リビングをあとにする。手元のマグカップと紅茶入りのガラスポットをうっかり落とさないように、そして道中に同じく前方不注意な誰かに出くわさないように祈りながら、透明な容器の中でちゃぷちゃぷ揺れる赤褐色の水面を注視しながら歩を進めていった。
 右手に持っていたカップを左腕で胸元に抱え直し、空いた手でしっかりとドアレバーを握って押す。身体を滑り込ませ、ドアを閉めてからも油断は禁物。いちばん隅っこの特等席にティーセットを置き、腰を落ち着けるまでが安らぎのひとときの準備なのだから。
「……はふぅ」
 幸い、今はこのブックルームには誰もいないようだ。窓から差し込む月明かりは、どっしりと聳え立つ本棚と大小様々な観葉植物の長い影を落としている。ちょうどそれらに遮られる居心地の良い席に浅く腰かけた私は、まずひと息入れようとテーブルに置いたばかりのガラスポットを手に取った。
 ぱち。
「ヒィッ!」
「おや?」
 突然、部屋いっぱいに光が満ちて、ちょうど持ち上げたポットを取り落としてしまう。幸いそこまでの高さではなかったので中身は零れなかったものの、「ゴトンッ!」と相当大きな音が出てしまい、咄嗟に潜むこともできず聞き慣れた足音をこちらに引きつけてしまう結果となった。
「大丈夫ですか? すごい音が聞こえましたが……」
「は、はいぃ……お騒がせしてすみません、少しびっくりしただけですのでえぇ……!」
「いえいえ。あなたに怪我がなくてよかった」
 雑誌のような厚めの中綴じ本を小脇に抱え、彼――巽さんは私の席へ歩み寄ってくる。パタン、トン、パタン、トン、とスリッパの底の弾ける音が、段差を下りる度に人口密度の低い空間をのびのび飛び回った。
「しかし、月が綺麗な時間帯とはいえ、薄暗いところで何かをするのは感心しませんな。手元が狂いやすくなりますし、何より目を悪くしてしまいます。せめて卓上ランプくらいはつけるようにしてください」
「お、お気遣いなく! あの、私、夜目はきく方なので! むしろ他に誰もいないのに明るくしておく方が落ち着かないといいますか……!」
「…………」
「ヒィッ! ぴくりとも変わらない笑顔が逆に怖いっ!」
 宗派的に不適切な喩えかも知れないけれど、菩薩のようなアルカイックスマイルの裏に不動明王の強面がくっついているような無言の圧。その笑顔をこちらに向けたまま卓上ランプの電源も入れてくださっている間、私は『すみません』を何回言ったことだろう。
「ふふ。ともあれ、お楽しみのようだったところお邪魔してすみません。俺の用事はすぐに終わりますので、いないものだと思ってどうぞおくつろぎください」
「そ、そんな! 私なんかが巽さんを無視するなんてできません! あの、本をお探しでしたら手伝いましょうか……?」
「いいえ、場所は覚えているので大丈夫です。ふむ、しかし……そうですな、このタイミングでマヨイさんに会ったのも神のお導きかも知れません。ここはひとつ、俺の特訓に付き合ってはくれませんか?」
「特訓?」
 巽さんが近くの棚に雑誌を戻しに行く様子を注視していると、その表紙が目に留まる。動物の形のケチャップライスの写真が大きく載っているそれは一見グルメ情報誌のようにも思えたが、いちばん大きな見出しに『レシピ』という単語が見えたことからして恐らく料理雑誌だろう。物色している本も椎名さんがキャンプに持ち込んだことのある私物と同じものばかりだし、巽さんの言う『特訓』とは料理の特訓のことと見て間違いはなさそうだ。
「あのぅ、何故お料理の特訓を? 巽さん、今でも十分お料理は上手だと思いますけど……」
「はは、少しワケありでしてな。女子中高生向けのファッション誌で、アイドルとの疑似デート企画を連載しているところ、あるでしょう?」
「あぁ、あれですか」
 聞くに、巽さんがお呼ばれした回は大型連休のある行楽シーズンの発売になるそうで、それに合わせて外でお弁当を食べるシーンがあるようだ。読者の女の子たちに『アイドルとデートする』という夢を与えることが主旨となるこの企画は、シチュエーションの細部をある程度アイドルの裁量に任せることになっており、巽さんの場合はそこで出すお弁当の中身を決めて作ることが宿題になっているらしい。
「『ALKALOID』の皆さんに作るのと、デートに持っていくのでは勝手が違うでしょうからな。お肉やおにぎりなど、食べ盛りの一彩さんも食べるお弁当と同じボリュームを想定してしまっては、小食の子ならきっと半分も食べられません」
「確かに、女子中高生なら体型を気にする子も多いでしょうし、栄養バランスや彩りも気にしなくてはなりませんね」
「ちなみに、レシピも掲載するらしいので、真似して作れるようなものがいい、という指示も来ています。こういうものは相手がいた方が作り甲斐がありますし、その辺りの判断もしていただけるのでより捗るでしょう?」
「なるほど。そういうことでしたら引き受けます。私などの意見が参考になるかは分かりませんが、巽さんのお仕事の成功のためならば全力を尽くしますよぉ……♪」
「ありがとうございます、マヨイさん。ところで……」
 抜き取った何冊かの本を抱えて、さも当然のようにテーブルを挟んで私の向かいに座る巽さん。
「今週末、この辺りはよく晴れるそうですよ」
「え?」
「発売日だけでなく今も十分過ごしやすい行楽シーズンですし、ESビル前の緑地などはさぞ風が気持ち良く――」
「あ……あの……?」
「……ねぇ、マヨイさん」
「え、えぇ……?」
 笑顔を浮かべる彼の背後に、越えることも避けることも決して許されぬ大きな壁が見えたような気がして。
 縋るように行き場のない両手をポットに添えると、すっかり体温を下回る室温に染まった温もりに素っ気なく突き放されてしまった。
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