朝の天恵

 日の出とともに活動を開始することこそが理想だが、四季の移ろいが明確な我が国ではそれもなかなか難しい。現にこうして寮の玄関を抜けたところで見上げた空は既に青白く、ツクツクボウシの鳴き声が蒸した空気を震わせていた。
しかし、夏至も立秋も過ぎた今、この残滓のようなひとときも乙なものだ。昂った精神を秋に向けて少しずつ冷やしていくために、神が与え給うた慈悲――そう考えれば、この時間にそれを感じることで、額に滲んだ汗も心地良い。拭うついでに前髪を軽く払い、最近お気に入りの定位置に向かって歩を進めた。
 ――おや。
 見慣れた景色に僅かな違和感。どうやら先客がいるようだ。礼拝の定位置にしている庭の池周辺では、よくスズメやハトが活発に歩き回っている姿を見かける。勿論、彼らは今日も俺の来訪を待たずして地面を必死につつき回していたけれど、控えめな色合いの羽毛よりもっと鮮烈に朝日を反射する存在がそこにはあった。
「♪~♪~……♪」
 よく通る、聞き慣れた歌声。鉄枠のついた木製のベンチに腰掛けて、ラテン語の宗教曲を丁寧に紡いでいる形の良い唇。瑞々しい艶を湛えた髪は朝露に濡れる葡萄の皮のようで、その奥に隠された果肉によく似た色をした瞳は、足元を歩き回るハトを慈しむように伏せられていた。
 まるで繊細な油彩画のようなその光景に目を奪われていると、ふと上げられた視線がこちらに真っ直ぐ向けられる。
「あっ」
「え……ひ、ヒィッ!? わ、わわ……!」
 驚いた拍子にベンチから落ちそうになった身体へと咄嗟に駆け寄り、すんでのところで抱き留める。
「マヨイさん、お怪我は?」
「は、はひぃ……大丈夫です、なんとか……お、おはようございます、巽さん」
「それは重畳。おはようございます、マヨイさん」
 どちらのものか分からない大きな心音を感じながら、傾いた身体をゆっくりと起こして差し上げる。流れのままに隣に座ってみるも、先ほど落ちかけたばかりだからか、拳ひとつ分くらいまで近付いても故意に距離を置かれることはなかった。
「珍しいですな。まさかこのような時間にここでお会いできるとは」
「は、はい……その、今日は少し早く目が覚めたので、たまにはお散歩でもしてみようかな、なんて……す、すみません、世界一朝日の似合わない生物がこんなことを」
「いえいえ。部屋が変わってからは顔を合わせる機会も減ってしまいましたし、こうして偶然お顔が見られただけでも俺は幸せですよ。これもきっと――」
「神様のお導き、ですか?」
「……ふふっ、その通りです」
 少し緊張が解れてきたのか、マヨイさんは優しく微笑んで俺の口癖を楽しげに真似る。『あまり見ないでほしい』と常日頃から敬遠するような態度をとりながらも、彼に信仰心があることはよく感じ取っているつもりだ。そうでもなければ、あのようなことをするはずもない。
「ところで、先ほどの……」
「あっ、や、やっぱり聞こえてましたよねぇえええ!? すみません、私ときたら本職の方の前でお聞き苦しいものを!」
「まさか。うちの少年聖歌隊の指導役としても雇いたいくらいの歌声でしたよ」
「あぁっ、それはそれで魅力的なお誘いではありますけど! じゃなくて! えっと、そのぉ……」
 聞くに、先ほど歌っていたのは一年生の声楽の授業の課題曲らしい。朝食後、登校する時間になるまで藍良さんに指導を頼まれており、散歩のついでに個人的な練習をしていた、とのこと。
「宗教曲もまた、ほとんどが『ALKALOID』の持ち歌と同じく合唱曲です。藍良さんが以前それで躓いていらっしゃるところを見ているので、今度は別パートとの和音の響きも意識しながら取り組んでいただこうかと思いまして」
「なるほど、流石はマヨイさん」
「ヒィッ! いえ、私もプロの声楽家ではありませんので! 天井裏で覗き見していたものの見よう見まねしかできませんけど……でも――」
「あの子のお役に立てるなら、ですな?」
「……は、はい…………」
 お返しに、マヨイさんが口にしそうな言葉を真似てみると、両手の指先を合わせて落ち着きなく動かし始める。その仕草がどうしようもなくいじらしく、愛おしい。その手を自分のそれでそっと包んで、伏せられた葡萄の果実を覗き込んで、あの美しい歌を生み出していた唇に口づけることができたなら。
「マヨイさん」
「……はい。何でしょう、巽さん」
 同意もなしに、そんな無体なことはできない。色欲は罪だ。穢れた一方的な感情を、この晩熟な方に押しつけてはならない。
「折角ですし、共に礼拝などいかがでしょう? 今日という一日の平穏と、藍良さんの課題の達成を願って」
「い……いいんですかぁ? そういうの、作法があるでしょう? 私みたいなのが軽率に猿真似したら罰が当たりませんか?」
「俺が手ほどきしますよ。信じる者全てに、神は平等です」
 さぁ、と差し出した手に、少し冷たいマヨイさんの指先がそっと乗せられた。
飛び立つスズメのスタッカートが蝉のロングトーンに重なり、蒸し暑い晩夏の朝を告げるファンファーレを奏でる。主よ、俺に少し特別な一日の始まりを与えてくださったことを感謝致します。Amen。
1/1ページ
    スキ