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「ホッケ~、読み合わせ付き合って!」
「飛びつくな、髪を乾かすのが先だ」
「ちぇ~」
「…………(百円玉を取り出す)」
「!」
「いいか、よく聞け明星。こいつの製造年は……二年前だ」
 ピィン――
「「わんわんっ!」」
 ベッドに弾き飛ばした餌に明星――と、いつの間にか部屋に来ていた大吉くん――が夢中になっている隙にドライヤーを取り出す。個人的なルーティンの間に待たせるにはこれがいちばん有効なのだが、そのうち目的がすり替わって小銭の要求がメインになることも懸念される。そうなる前に他の方法も試さねばなるまい。
「待たせたな。これは返してもらうぞ」
「ごろごろ♪ ……はっ! 大吉、俺は一体何を……!?」
「さぁな。それで、どこを読みたいんだ?」
「あっ、そうだった! 一緒にお風呂入ってるシーン!」
「よし」
 台本の該当箇所を開き、シーン冒頭のト書きを読み上げる。目で合図をすれば、あとはそこに役者が二人。観客は一匹だが、それだけで事足りる。

睦月『何をしてたのかと思えば……トラオがそんなに心配だったの?』
七星『昨日、あそこで三年がたむろしてたから。あいつらの噂聞いたことないのか? 教室で飼ってたハムスターをストレスで殺したって』
睦月『知ってるよ、あいつら前会長のクラスメイトだもん。何にせよ、喧嘩してたんじゃなくてよかった。ナナにもしものことがあったらおばさんたちに申し訳ないよ』
七星『知るか、あとナナって呼ぶな』

 このやりとりをしながら、明星演じる睦月は俺演じる七星の頭を洗っている。それを再現しているつもりなのか、明星は台本片手にベッドに乗り上げ、ベッドにもたれた俺の髪を指で好き勝手に梳いていた。俺の膝に前足を置いてくつろいでいる大吉くんを視界に入れたままそうされていると、シャンプーというよりノミ取りをされている気分だ。
「わぁ、いつも冷たいホッケ~の頭があったかい☆」
「まだドライヤーの熱が残っているのだろうな」
「いいねいいね、お風呂上がりって感じ! でもホッケ~はなかなか一緒にお風呂入ってくれないからな~、寂しい!」
「フィクションと一緒にするな。一般家庭の狭い風呂に男子高校生が二人も入れるわけがないだろう」
「何だよ、遠征とか修学旅行のときは一緒に背中流した仲じゃんか! 反抗期かっ!? お父さんは悲しいです!」
「お前は俺の父親じゃないし、これ以上面倒なのは要らん。いいから早く続きを読め」
「もう、ホッケ~もナナも照れ屋さんだなぁ、このこの♪」
「……そこをどけ、明星。お前は大吉くんと一緒に床で寝るがいい」
「分かったよ、読むから! っていうか、ホッケ~は部屋の主に対して何でそんなに偉そうなの」

睦月『最初に言ったのはそっちじゃん、ナナって呼んでって。ママがそう呼んでるから、むっちゃんもいいよって』
七星『……覚えてねぇよ』

睦月、シャワーを手に取り、七星の頭を洗い流す。

睦月『ふふっ。それにしても、こうしてると昔のことを思い出すよねぇ。ナナ、あのときも迷子の猫を探して植え込みの間に頭突っ込んでたじゃん?』
七星『だから、あのときっていつの話だよ』
睦月『二人して泥だらけで帰って、俺ん家の風呂に放り込まれて。それでこうやって、一緒に洗いっこして……』

睦月、七星の首に手を回し、いつの間にか泡立てていたボディーソープまみれの手で七星の身体を撫でる。

「こう? それ~っ☆」
「うおっ、だからいきなり飛びついてくるな。七星の次の反応からしてそれは――」

七星『っ!』
睦月『ナナはいっつもくすぐったがってケラケラ笑ってた』
七星『おい、睦月……! やめろ、触んな!』
睦月『……俺たちは何も変わってないって、そう思うのは俺だけ?』

身体を洗う手には徐々に慈しみのような、愛情のようなものが滲み出てくる。どうにか逃げようとする七星だが、睦月の力が思いのほか強くて身をよじることが精一杯。

七星『く……そっ、しつけぇぞ!』

七星、一瞬の隙をついて睦月の手の甲に爪を立てる。怯んだ睦月が手を離した瞬間にシャワーヘッドを掴み、全身の泡を自分で洗い流す。

睦月『いったぁ~。ちょっとナナ、急に何……(冷水をかけられる)』
七星『……お前だけだよ。ひとりで頭冷やしてろ』

七星、風呂場をあとにする。

「…………」
「お~い、ホッケ~? 反応からしてそれは、何なの?」
 普段の明星とはかけ離れた役柄で、尚且つ恋愛ドラマの主人公である睦月だ。ここまでの話し方からしても、犬のように高いテンションで七星に密着するのは不自然だということは誰の目にも明らかだろう。しかし、この行動の意図もまた俺には理解しかねる。二人の恋心は終盤にかけて強くなっていくものだとばかり思っていたが、睦月は違うのだろうか。この時点で既に、あるいは作中の描写範囲からずれるほど昔から、七星へ寄せる想いはゼロではなかったのだろうか。もしそうだとしても、この場で一方的なアプローチをかけて一体何になる?
「ねぇ、ホッケ~ってば!」
「……あぁ、すまない。大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ! さてはまたひとりで考え込んでたな? ずるいぞ、俺にも聞かせろ~っ☆」
「そうだな……あまり気は乗らんが、この生活そのものが強化合宿のようなものだ。不安は共有して、常に万全の状態で撮影に臨むべきだろう」
 明星に話を持ちかけてみると、「ふぅん」と短く返事があった後、こともなげにすぐ次の言葉が紡がれる。「よく分かんないけど、やってみればいいんじゃない?」
「どういうことだ」
「だって、この本読みだって雰囲気を掴むためにやってることでしょ? ライブと一緒だよ! どうなるかなんていつまでも頭で考えるばっかりじゃなくて、実際に動いてみてから考えること!」
 ぱさり、とそれなりの量の紙束が投げ出される音。台本は丁重に扱えと注意しようとした瞬間、背後から頭部をがっちりと強く掴まれた。
「同じユニットで何度も身をもって教えてるのに、応用のきかないやつめ! そんな頭ガチガチホッケ~には頭皮マッサージの刑だ! 喰らえ~っ☆」
「ちょっ、おいこら! 明星!?」
 「ふっふっふ、ここがええんか~?」などと意味不明なことを呟きながら、掴んだ部分からおもむろに俺の頭を揉み始める明星。こいつはものの扱いがあまり丁寧とは言えない方だと思っていたが、その手つきは意外に心地よく、俺もすぐに抵抗をやめてつい夢中になってしまった。
「おっ、大吉が物欲しそうにこっちを見てる! お前はこの前お風呂に入れたばっかりだろ~?」
「なるほど。大吉くんで慣れているということか」
「まぁね! たまに母さんの肩揉みもしてるし、マッサージならお任せあれ~♪」
 こちらがしばらく身を委ねているうちに興が乗ってきたのか、明星の手はうなじを通り、肩から背中へ、そして鼻歌交じりに腰にまで手をかけてきた。
「ふむふむ。凝ってますね~、お客さん♪ クランクインから少し経ったけど、やっぱり映像と舞台って勝手が違うもんね~?」
「あぁ。撮影はやり直しがきく分、納得がいくまで何度も本番を繰り返さなければならない。失敗をカバーした結果、逆にいい画が撮れることもあるが、そんなものは稀で……基本的に、稽古と本番を同時進行しているようなものだ」
「演劇科の人たちもホッケ~たちも、こんなことをいつもやってるんだからすごいよ! よ~し、明日からも頑張れるように、念入りに身体をほぐしてあげるからね! そこへ直れ! 俺は手加減しないぞ~っ☆」
 最早読み合わせなどそっちのけで、言われるがままにベッドへ仰向けになる。明星の指圧を感じる度、自分の身体から時折「ゴリッ」だの「グリッ」だの不穏な悲鳴があがった。
 あまり認めたくはないが、正直言ってかなり気持ちがいい。同時に、何故か少しくすぐったくもある。先ほどまで読んでいたシーンが後を引いているのだろうか。それで、自分が行う演技のイメージを思い描いているうち、役と感覚が連動してしまっているのかも知れない。
 そうだ、そうに決まっている。たかが明星のマッサージだ、凝りの解消以外に何を感じる必要がある。
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