【web再録】鎖に一滴
今は、何の花の季節だったか。
換気のために開け放した窓の外では、中庭の広葉樹が青々と茂っている。あれらの木々と桜の木の見分けすらつかない自分にとって、金木犀以外の花の香りで季節を知ることなど土台無理な話だが、芳香の出処を知らずにはいられない。ここのところ時折鼻腔を撫でていく、甘く爽やかな蘭麝の正体を。
「会長」
「ん? 何だい」
「その……今の季節って、どんな花が見頃なんですかね?」
「どうしたんだい、藪から棒に。誰かに花を贈る予定でも? ふふっ、初心そうな顔しておきながら隅に置けないねぇ」
「あぁ、いや! そういうのじゃなくて……! せ、生徒会室に花なんて置いたらどうかなって、ふと思ったんすけど!」
「なるほど、なかなか良いアイデアだ。うん……どうせなら香りの良いものを選ぶと、アロマセラピーの効果もあって一石二鳥だね」
敬人も少しは和やかになってくれるかも知れないしね、と目配せする碧眼は、どこか鋭く。毎度のことながら、この人は何処までこちらの心を読んでいるのか分かったものではない。
「確か、この時期の花でアロマに使われるものといったら……ジャスミンやベルガモット、あとラベンダーあたりがメジャーかな。どれもハーブティーや紅茶の香り付けにも活躍するものだし、今度探しておくよ」
「あはは、どうも……」
「それで、どんな香りだい?」
「ん?」
ルネサンス期の絵画のような神秘を纏う目が細められ、そこに反射していた蛍光灯の光が瞼の奥に消える。一点の曇りなき快晴。抗い難い引力がそこに生じた。
「いや、特に深い意味は。何か希望はあるのかなと思って」
「希望って言われても……」
ふわ。
嗚呼、まただ。ほんの一瞬、悩みの種が植え付けられた頭を下げたその瞬間だけ。出処不明の芳香が撫でていく。舌に乗せたラムネ菓子のように。掴みどころもなく、溶けていく。
「……甘い、寄り?」
「ふぅん」
鎌をかけられた気はしないでもなかった。しかし、好奇心はプライドを押しのけて、一縷の望みを掴んで登る。特徴を言えば答えを教えてくれるなんて、何処ぞの人工知能のようだけど。
「でも、甘ったるすぎない」
「うん」
「……ううん、何て言うか……そう、」
「「薔薇に近い」」
具体的な形容に成功した瞬間、爪を綺麗に切り揃えられた白い手が首に巻き付く。
「ひっ!?」
「ふふっ、落ち着く香り~♪ エッちゃん、また新しい茶葉でも仕入れたの? 今度紅茶部にも同じの持ってきてよ」
「いや、お前何処見てるんだ? 今は茶なんて誰も――」
「それはそうと、ま~くん借りていい? 今日のお手入れの時間だから」
「お手入れ?」
「えっと……あはは。すんません、いろいろ事情がありまして」
俺の了承を待たずに、そいつ――凛月の手は俺のうなじに回る。
「……ふふ、なるほど。それではごゆっくり」
ふわ。
耳を掠めた凛月の髪。それはまさしく、例の謎の花の香りによく似ていた。
***
凛月が唐突に何かを寄越してくるのは、よくあることだった。それは純粋なプレゼントだったり、捨てに行くのが面倒なゴミだったり。それがどんな意図で俺の手に渡されようとも、そこには明確な感情があった。
「……♪」
それは、ときに気怠く。
「あと、これをこうして……」
それは、ときに慈愛を帯びて。
「うん、かんせ~い♪」
それは、ときに無邪気に。
「はい、着けていいよ」
「あのさぁ、俺ってこの場に必要かな?」
「必要に決まってるでしょ。お手入れが終わったら、真っ先に持ち主に返してあげないとねぇ」
「はぁ……左様ですか」
「左様ですよ。何事も鮮度が命……♪」
凛月は自分の席に広げていた物品をいそいそと片付けると、代わりに自分の肘を置く。その様子を見ながら、俺も返ってきた『それ』――『期末テスト終了祝い』とかいうわけの分からない名目でもらったペンダントを首にかけた。
「まぁ、そこまで忙しくもなかったし……お前に拉致されるくらいなら別にいいんだけどさ。これ、本当に毎日お前が診なきゃいけないの?」
「そうだよ。言ったじゃん、結構大変だったって」
「ふぅん……」
どことなくエスニックな紋章を象ったペンダントのチャームを指先で軽くいじってみる。曰く、『コンマミリ単位で調整した繊細な構造だから、毎日メンテナンスさせてほしい』とのことで、こうして凛月はここ最近、毎日決まった時間に俺を連れ出しては、謎の小瓶やスポイトを取り出してメンテナンスとやらに勤しむのである。俺としても折角の貰い物が壊れてしまっては申し訳ないので願ったり叶ったりだが、それにしてもよく飽きないものだ。これをくれたきっかけの期末テストは、もう二ヶ月ほど前に過ぎたはずなのだが。
「それ、仕様からおかしくないか? プレゼントを贈り主に毎日返すなんて、聞いたことないんだけど」
「じゃ、俺が初めてってことだねぇ。ま~くんの初めて、また俺が奪っちゃった♪」
「はいはい……」
とはいえ、これを毎日シャツの下に隠して、凛月のメンテナンスに応じているあたり、何だかんだ結構気に入ってしまっているのだと思う。以前凛月にもらったネックレスに比べるとかなり趣向の変わった代物だが、着けていると何となく落ち着くのだ。手入れをする凛月の姿を思い出すのか、この紋章におまじないでもかけられているのか。
「ふあぁ……目と指を酷使したからかなぁ、ちょっと疲れたかも。俺はちょっと寝てくるから、ま~くんも仕事があるなら戻っていいよ」
「あっ……」
ふらふらと教室を出て行くその背中に「次の授業までには帰って来いよ~!」と一声かけておく。こくりと動いたその頭は、果たしてどちらの意味なのか。
「ん?」
ふと凛月の机に視線を戻すと、小指の先くらいの大きさの茶色い瓶が放置されているのが見えた。手入れ道具を片付けるときに見落としていたのだろうか。あんなに小さいものならば、忘れるのも無理はない。
「まったく、しょうがないなぁ」
あいつが道具を詰め込んでいたポーチを机の中から引っ張り出して、小瓶をそっと中に入れてやる。よく見るとその濃いピンク色のラベルには、『Rose Oil』と小さく書かれていた。
ふわ。
瞬間、主張するあの芳香。あいつが纏う幽香によく似た。
いつも撫でるように消えていくのに、今は何故か鎖のようにまとわりついて、ポーチのファスナーを閉じてもしばらく鼻先から離れることはなかった。
換気のために開け放した窓の外では、中庭の広葉樹が青々と茂っている。あれらの木々と桜の木の見分けすらつかない自分にとって、金木犀以外の花の香りで季節を知ることなど土台無理な話だが、芳香の出処を知らずにはいられない。ここのところ時折鼻腔を撫でていく、甘く爽やかな蘭麝の正体を。
「会長」
「ん? 何だい」
「その……今の季節って、どんな花が見頃なんですかね?」
「どうしたんだい、藪から棒に。誰かに花を贈る予定でも? ふふっ、初心そうな顔しておきながら隅に置けないねぇ」
「あぁ、いや! そういうのじゃなくて……! せ、生徒会室に花なんて置いたらどうかなって、ふと思ったんすけど!」
「なるほど、なかなか良いアイデアだ。うん……どうせなら香りの良いものを選ぶと、アロマセラピーの効果もあって一石二鳥だね」
敬人も少しは和やかになってくれるかも知れないしね、と目配せする碧眼は、どこか鋭く。毎度のことながら、この人は何処までこちらの心を読んでいるのか分かったものではない。
「確か、この時期の花でアロマに使われるものといったら……ジャスミンやベルガモット、あとラベンダーあたりがメジャーかな。どれもハーブティーや紅茶の香り付けにも活躍するものだし、今度探しておくよ」
「あはは、どうも……」
「それで、どんな香りだい?」
「ん?」
ルネサンス期の絵画のような神秘を纏う目が細められ、そこに反射していた蛍光灯の光が瞼の奥に消える。一点の曇りなき快晴。抗い難い引力がそこに生じた。
「いや、特に深い意味は。何か希望はあるのかなと思って」
「希望って言われても……」
ふわ。
嗚呼、まただ。ほんの一瞬、悩みの種が植え付けられた頭を下げたその瞬間だけ。出処不明の芳香が撫でていく。舌に乗せたラムネ菓子のように。掴みどころもなく、溶けていく。
「……甘い、寄り?」
「ふぅん」
鎌をかけられた気はしないでもなかった。しかし、好奇心はプライドを押しのけて、一縷の望みを掴んで登る。特徴を言えば答えを教えてくれるなんて、何処ぞの人工知能のようだけど。
「でも、甘ったるすぎない」
「うん」
「……ううん、何て言うか……そう、」
「「薔薇に近い」」
具体的な形容に成功した瞬間、爪を綺麗に切り揃えられた白い手が首に巻き付く。
「ひっ!?」
「ふふっ、落ち着く香り~♪ エッちゃん、また新しい茶葉でも仕入れたの? 今度紅茶部にも同じの持ってきてよ」
「いや、お前何処見てるんだ? 今は茶なんて誰も――」
「それはそうと、ま~くん借りていい? 今日のお手入れの時間だから」
「お手入れ?」
「えっと……あはは。すんません、いろいろ事情がありまして」
俺の了承を待たずに、そいつ――凛月の手は俺のうなじに回る。
「……ふふ、なるほど。それではごゆっくり」
ふわ。
耳を掠めた凛月の髪。それはまさしく、例の謎の花の香りによく似ていた。
***
凛月が唐突に何かを寄越してくるのは、よくあることだった。それは純粋なプレゼントだったり、捨てに行くのが面倒なゴミだったり。それがどんな意図で俺の手に渡されようとも、そこには明確な感情があった。
「……♪」
それは、ときに気怠く。
「あと、これをこうして……」
それは、ときに慈愛を帯びて。
「うん、かんせ~い♪」
それは、ときに無邪気に。
「はい、着けていいよ」
「あのさぁ、俺ってこの場に必要かな?」
「必要に決まってるでしょ。お手入れが終わったら、真っ先に持ち主に返してあげないとねぇ」
「はぁ……左様ですか」
「左様ですよ。何事も鮮度が命……♪」
凛月は自分の席に広げていた物品をいそいそと片付けると、代わりに自分の肘を置く。その様子を見ながら、俺も返ってきた『それ』――『期末テスト終了祝い』とかいうわけの分からない名目でもらったペンダントを首にかけた。
「まぁ、そこまで忙しくもなかったし……お前に拉致されるくらいなら別にいいんだけどさ。これ、本当に毎日お前が診なきゃいけないの?」
「そうだよ。言ったじゃん、結構大変だったって」
「ふぅん……」
どことなくエスニックな紋章を象ったペンダントのチャームを指先で軽くいじってみる。曰く、『コンマミリ単位で調整した繊細な構造だから、毎日メンテナンスさせてほしい』とのことで、こうして凛月はここ最近、毎日決まった時間に俺を連れ出しては、謎の小瓶やスポイトを取り出してメンテナンスとやらに勤しむのである。俺としても折角の貰い物が壊れてしまっては申し訳ないので願ったり叶ったりだが、それにしてもよく飽きないものだ。これをくれたきっかけの期末テストは、もう二ヶ月ほど前に過ぎたはずなのだが。
「それ、仕様からおかしくないか? プレゼントを贈り主に毎日返すなんて、聞いたことないんだけど」
「じゃ、俺が初めてってことだねぇ。ま~くんの初めて、また俺が奪っちゃった♪」
「はいはい……」
とはいえ、これを毎日シャツの下に隠して、凛月のメンテナンスに応じているあたり、何だかんだ結構気に入ってしまっているのだと思う。以前凛月にもらったネックレスに比べるとかなり趣向の変わった代物だが、着けていると何となく落ち着くのだ。手入れをする凛月の姿を思い出すのか、この紋章におまじないでもかけられているのか。
「ふあぁ……目と指を酷使したからかなぁ、ちょっと疲れたかも。俺はちょっと寝てくるから、ま~くんも仕事があるなら戻っていいよ」
「あっ……」
ふらふらと教室を出て行くその背中に「次の授業までには帰って来いよ~!」と一声かけておく。こくりと動いたその頭は、果たしてどちらの意味なのか。
「ん?」
ふと凛月の机に視線を戻すと、小指の先くらいの大きさの茶色い瓶が放置されているのが見えた。手入れ道具を片付けるときに見落としていたのだろうか。あんなに小さいものならば、忘れるのも無理はない。
「まったく、しょうがないなぁ」
あいつが道具を詰め込んでいたポーチを机の中から引っ張り出して、小瓶をそっと中に入れてやる。よく見るとその濃いピンク色のラベルには、『Rose Oil』と小さく書かれていた。
ふわ。
瞬間、主張するあの芳香。あいつが纏う幽香によく似た。
いつも撫でるように消えていくのに、今は何故か鎖のようにまとわりついて、ポーチのファスナーを閉じてもしばらく鼻先から離れることはなかった。
1/1ページ