魔の誕生会のお時間です

「おい〜っす。今日もおとなしくしてるか〜?」
 淡く蒼白の光を放つシャンデリアの下を緩くカーブして、少年は飛行箒から飛び降りる。慣性のままに空中で横滑りを続けるかのように思えた魔具は、見事にベッドの傍らの壁に凭れ掛かり、コトンと音を立てて動きを止めた。
「窓から入ってこないでよ、ま〜くんのえっち」
「何がだよ……まぁ多少の無礼は許してくれ。さっきまで隣村の討伐依頼をひとりでこなしてたから疲れてるんだよな」
「またぁ? 前線で戦うの苦手な癖に、どうしてそう無茶するかなぁ……?」
 上等なキングサイズベッドに腰掛けて、『それ』は熊のように大きな欠伸を漏らす。口元を押さえる細い指先は、水晶のシャンデリアに照らされて雪をも欺く妖しさを醸し出していた。
「経験は積極的に取りに行くタイプなんだよ、俺は。こうして協会に頼まれてお前の面倒見てるのも、ちょっとはそういう個人的な向上心もあってのことだし」
「酷いなぁ、てっきり俺はすっかり惚れられたものだと思ってるのに。この前の全力の求愛を無視するとは良い度胸をしている」
「はいはい。そういうのは検査終わらせてからな、観察対象者さん?」
 少年が手早く準備を進めていくさまを、『それ』は不服そうにじっと眺める。
「なんか、実験動物みたいだよね。勝手だなぁ、俺はま〜くんに監視されながら穏やかな余生を過ごすことにしか同意していないのに」
「……お前の余生ってあと何年だ?」
「さぁ。千年弱?」
「そんなに面倒見ていられません。ほら、こっち向け」
 二本指で瞼を広げたり、血の通いを感じない肌のあちこちに触れたり。口端を引いて牙を剥かせるときだけは恐々とした仕草で、少年は『それ』の躰をくまなく調べ、赤い表紙の手帳に記録していく。しばらくして、彼は『それ』から目を背け、これで終わりだと言わんばかりに手帳をパラパラと捲り始めた。
「うん、大体いつも通りかな。後で食事作って置いていくから、今回も毎食適量摂るように――みたいなこと言えって、協会の人が」
「もうペットじゃん、それ。なんか屈辱的〜、人権が無い魔物だからって舐めてかかったら皆殺しにするよ?」
「物騒だな、おい」
 手帳から顔を上げず、少年は呟く。その視線の先で開かれたページには、今の時期の暦を表にしたものが載っているようだった。
「何、それ」
「ん〜? カレンダーってやつ。こうやって毎日の予定を管理してるんだよ、人間は」
「ふぅん。有限の時を生きる者らしい行為だこと」
 その表にはところどころ文字が書き込まれており、近頃退魔師訓練学校にて多忙な日々を過ごしているらしい彼の日常が伺えた。ふと、『それ』はある日付のマスで視線の動きを止める。暦の概念が人間よりも薄い『それ』にも分かるそこは、今日の日付を表していた。
「ま〜くん、今日誕生日なの?」
「えっ、そうだけど……魔物でも誕生日とか知ってるんだな」
「当然。どうして言ってくれなかったの」
「いやぁ、この歳にもなって誕生日くらいではしゃがないよ。それとも、何か用意してくれるのか?」
「そこに座ってて。一歩でも動いたら血をもらう」
「だからいちいち物騒な――って、ちょ、おい!」
 少年が止めるより早く、血の色のマントの端が扉の向こうへ消えていく。取り残された少年は、手持ち無沙汰に上等なマットレスの角を揉んだり、座ったまま動ける範囲で軽いベッドメイキングをしたり。時計の無い部屋は、ひたすらに静寂が支配していた。

***

「お待たせ〜」
 ふわ、と、薄暗い冷えた空気に甘い香りが乗る。
「……わっ」
 少年が目を丸くしているうちに、白い腕がピアノ椅子を引き寄せ、その上に何かを置く。
 ――そう、それは『何か』としか形容しようがなかった。極彩色の液体が皿いっぱいに広がり、中央にはおよそ食品として相応しくない形態のどろどろに溶けたような『何か』の塊が鎮座している。少年はそれを見て必死に喩えを探したが、数日前に討伐依頼をこなしたばかりの魔物の名前を挙げるだけで精一杯だった。
「惜しい、その亜種だよ」
「いや、もうこの際テーマはどうでもいい。何だこれは」
「何って、見れば分かるでしょ」
「分かるけども!」
「……お誕生日」
 スプーンで崩された目玉のような部位が、少年の顔の前へ運ばれる。何故かぼこぼこと煮えたぎるように泡を吹いているそれを、彼は反射的に口に含んだ。
「この国の人間はこうやって祝うんでしょ? 昨日思いつきで作った試作品で悪いけど」
 一見どろどろしているように見えたそれはしっかりとした形を持っており、咀嚼すると酸味の強い果実の味が口いっぱいに広がる。しかし、外側のチョコレートのようなコーティングの仄かな甘さでそれが良い具合に緩和されていき、最後にはすっきりした後味を残して胃袋へ消えた。
「美味い!」
「ふふっ、当然。俺はできる魔物なので」
 渡されたスプーンと皿を受け取り、少年は得体の知れない菓子を次々と口に運ぶ。空いたピアノ椅子が元の位置に戻されると、そこに黒い影が覆いかぶさった。
「確か、誕生日を祝う歌もあるんだっけ? むかぁし、何処かで聞いたっきりでうろ覚えだけど。まぁそこはそれ、『ad-lib』で何とかするよ」
 言うが早く、軽快な和音が空気を震わせる。少年は菓子を運ぶ手を休め、少し膨らんだ頬を照れくさそうに指で掻く。
「♪〜♪〜♪」
やがて演奏が終わると、空間に同化しそうな黒い頭が恭しく下がり、少年もそれに合わせてパチパチと手を叩いた。
「サンキュー、凛月。思いがけず良いものもらったよ」
「どういたしまして〜。ねぇ、ところでこの後の予定は?」
「あとは、えっと……学校に戻ってお前のこと報告するだけだけど」
「それじゃ、もうちょっと付き合って。俺にでも分かる、こんな大切な日だもの。いつもすぐ帰っちゃう分、してあげたいことがまだたくさんあるんだよ」
 細い指が少年の手首を優しく掴み、ベッドから立ち上がらせる。本来は死体のように冷たいはずの体温が、不思議と今は常温程度に感じられた。
「まずは、その試作品をちゃんと作り直さないとね。ま〜くんも一緒にやろうか。使いたいポーションがあるから、お手並み拝見、ってね」
「……はいはい、了解。俺もいつまでも子どもじゃないことくらい、ここではっきりさせておきましょうかね〜?」
 くるくると杖を回す真似をしながら、少年は先導する『それ』に続く。いつもより遅くなりそうな帰還の言い訳も頭の片隅で考えながら、こちらを振り返る妖しい微笑みに困り笑いで応じた。
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