【web再録】蠍座の目玉

 川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていた、銀河に浮かぶぼんやりと白いもの。それを大きな良い望遠鏡で見ると、もうたくさんの小さな星に見えるらしい。
 昔、図書室の流行を作っていると言っても過言でないほど面白い本をたくさん知っている本の虫がクラスにいて、彼がいつぞや読んでいた本には、そんなことが書いてあった。『まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真』や、『黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところ』は、随分と簡略化して描かれていたけれど、本当の銀河はきっとこんなものではない。その綺麗な水は、ガラスよりも水素よりも透き通って――。

          * * *

「ほら、急げ!」
「う~……腕が千切れる〜……」
「文句言うな。早くしないと……!」
『ドアが閉まります。ご注意ください』
「あっ……!」
 見上げた高架の上で、ピンポン、ピンポン、と軽快な音が一緒になって扉が閉まる。
 ぷしゅー……きぃ……がた、がた……。
『ご乗車ありがとうございました。ただいまをもちまして、本日の○○線の営業は全て終了しました。ホーム変わりまして、四番線より――』
「……マジかよ…………」
「御愁傷様~」
「いやいや、お前もだからな?」
 今学期のことは今学期のうちに、と、期末試験が終わると同時に生徒会室でほぼ缶詰になった結果、真緒はこのごろ朝にも午後にも仕事がつらく、教室にいてももうみんなともはきはき遊ばず、凛月ともあんまり物を云わない有様だった。今日は追い上げとしていつも以上の量をこなしていたため、外履きを履いて表へ出て行く頃には、周りも空もあんまり暗く、点々と続く灯が木々の影を落としているばかり。
 その闇の中に、濡れたように真っ黒な頭の、自分と同じくらいの背の青年が横たわっているのを見つけた。そしてその青年の姿が、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰だか分かりたくて、たまらなくなったのだ。いきなり覗き込んで話しかけようとしたとき、俄かにその人が頭をもたげて、こっちを見た。
「大体、お前も何でこんな時間まで寝てたんだよ。夏休み入る前まで忙しいから、待っててくれなくても良いって言っただろ?」
「あ~……寝てたというか、気を失ってたというか……夏至は過ぎたけどまだまだ日は長いからねぇ。西日と草いきれに耐えてるうちに頭がぼーっとしてきちゃって、気付いたら夜までぐっすり~……♪」
「道理でいつも以上に生気が無かった訳だよ……大丈夫か? 熱中症ならあんまり無闇に動かない方がよくね?」
「その病人を無理矢理走らせてたのはどっちなのさ。責任取っておんぶして――と、言いたいところだけどねぇ」
 凛月は学院のある方角をじっと見つめたかと思うと、すぐにぱっと向き直り、肩を竦めた。
「あのセキュリティの固いところに戻れるとも思えないし、万に一つでも入ることが叶ったとしてもだよ、あれに絡まれたらたまったもんじゃない」
 『あれ』とは、ほぼ毎日学校に寝泊まりしている彼の実兄のことだろう。真緒に言わせれば、むしろあの人に会ってしまえば、上手い具合に匿ってくれそうな気がしていたが、それをここで口に出すと、凛月が酷く気を悪くすることも分かっていたので、ぐっと堪えた。
「それならどうする? いっそのこと警察のお世話になっちまうか?」
「それも面倒だなぁ……親とか学校に連絡行っちゃうし。今からでも泊まれるところ近くに無いの? 何でも良いよ、漫画喫茶でもラブホテルでも」
「馬鹿を言ってんじゃないよ」
「ちぇ~……ノリ悪いなぁ、ま~くんは。じゃあいいよ、そこの自販機でジュース買って」
「脈絡無いな⁉ 自分で買えよそれくらい!」
「財布忘れたの~……IC券のチャージも朝切れちゃったし……」
「どうやって帰る気だったんだお前は……ったく、しょうがねぇな。後で返せよ」
 この深夜には眩しすぎる自販機に近付き、鞄から取り出した財布を開く。すると真緒の顔色は少し青ざめて、どこかきまりが悪いという風だったが、それは目の前の青白く強い光のせいではなかった。
「……まずい」
「何?」
「ジュースは買える、けど……それ以上は何も出来ない」
「えぇ~……?」
 ころころと頼りなさげに転がる銀や銅の色をした硬貨と、捨て忘れたレシートが数枚。あとは未使用の図書券や雑貨屋のポイントカードなどで、役に立ちそうなものは見当たらない。勿論、紙幣は一枚たりとも残っていなかった。
 ひとまず錆びついた硬貨と毒々しい色の炭酸ジュースが入ったペットボトルを交換して、キャップを捻ってから凛月に渡す。
「ん、ありがと――ま~くん、定期券だったっけ? この時間じゃコンビニのATMも動いてないしねぇ。駄目元でお迎えでも呼んでみる?」
「……充電は?」
 互いにスマホを取り出し、電源ボタンを押す。画面の表示をしばらく見つめ、同時に言い放った。
「「切れてる」」
「駄目かあぁぁ~……」
「そんなに何に使ったのさ。ずっと仕事してたんでしょ?」
「その仕事だよ。連絡取ったり、調べ物したり。あとデータの共有とか」
「そんなものパソコンでやれば良いじゃん。俺が充電を面倒臭がって、電池切れのまま登校して来ても対応してくれてこそのま~くんでしょ」
「歩く公衆電話か俺は。スマホの方が慣れてるんだから、効率を考えたらそっちを使うだろ普通」
「嘆かわしいねぇ、最近の若者は」
「何だよ、結局全部俺が悪いの?」
 八方塞がりとは、まさしくこの状況のことを言うのだろう。真緒は駅の入口付近に座り込む凛月の隣に来て、腰を冷たい地面に投げた。
 日付も越えそうな深夜だというのに、町の灯は闇の中をまるで海の底のお宮の景色のように灯り、酔っ払いのものらしき歌う声や口笛、切れぎれの叫び声もかすかに聞えてくる。風が遠くで鳴り、離れたところに植えられた木の葉も静かにそよぎ、真緒の汗で濡れたシャツも冷たく冷やされた。
 キィ、と、また車輪がレールを擦る音が響く。その列車の窓の中にはたくさんの人々が、本を読んだり、眠ったり、いろいろな風にしていると考えると、もう何とも言えない気持ちになって、また眼を空に挙げた。
「ま~くん」
「何だよ」
「いっそのこと、旅にでも出ようか」
「え?」
 いつの間にか空になったペットボトルを持って、凛月が立ち上がる。
「どうせ電車なんか乗らなくても、道は分かるもん。星でも見ながら、夜のお散歩と洒落込もうじゃないの」
「どうした急に。今更目が覚めてきたのか?」
「むしろ俺の時間はこれからだよ。ジュース飲んだら元気出てきたし」
 ペットボトルをゴミ箱に放り込むと、今度は凛月が真緒の手を取って、一等星のようにその目を明るく輝かせながら、一歩ずつ駅から離れていく。
「携帯もお金も、水筒もスケッチ帳も持たないで、二人きりで何処までも。誰かに出会うのもまた物語の一節になるのかもねぇ。まぁ、厄介なのに鉢合わせたら逃げるしかないけど。ほら、ついておいで」
「はいはい、分かったよ」
 止まっていても先は見えない。あの白い空の帯がみんな星だというのなら、その目で一度見てみたいものだ。
「ふふっ。銀河ステーション、銀河ステーション……♪」
 人の営みを表す明かりは、億万の蛍烏賊や、金剛石のばらまきにはとても見えないけれど、元気な彼の背中は不思議と心強くて、本当の天上に至っても消えていなくなったりしないような、そんな気がした。

          * * *

「ねぇ、ま~くん」
「何だよ、凛月」
「薄々気になってはいたんだけどさ……こんなに遅くなって、家の人たち心配しない?」
「あ~、多分大丈夫。実は先週の金曜日、仕事してるうちに寝落ちしちゃってさ~? そのまま朝登校して来た副会長に叩き起されるまでぐっすりだよ。だからこの時間まで帰らなくても、また泊まり込みで仕事してるだけ程度にしか思わないって」
「またそうやって……そのうちま~くんが誘拐されたり通り魔に刺されたりしても心配しなくなりそう」
「そうそう無いだろ、そんな体験。お前こそ、おばさんたちが心配してるんじゃないのか?」
「ただでさえ上の息子が週に一度しか帰って来ないのに、今更俺の帰宅事情まで気にすると思う?」
「……同情するよ」
「どっちに?」
「さぁな」
 入り組んだ住宅地に足を踏み入れると、施設が立ち並ぶ区域に比べると街灯がぐっと減る。頼りになるのは、家々の部屋から漏れ出る僅かな照明と、塀に乗った人感センサー式のランプくらいだ。
「ま~くん、星が綺麗だねぇ」
「そこは『月』って言うところじゃないのか~?」
「一丁前に年上をからかわないで。本当だよ、地上が暗いとたくさん見える~♪」
 空を見上げやすいようにするためか、先を行く凛月の歩調が緩やかになったので、真緒もそれに合わせながら少し目線を上げる。
 小学校の林間学校で草原に寝そべって目にした光景のことを思えば、これでも天蓋の全てを見通したとは言えないことも分かっているけれど、学院からも駅からも、まして自分の家からも見えない、久しく触れていなかった違いのはっきりした煌めき。三等星、辛うじて四等星までか。小さく、橙や黄色ではっきりしたもの。大きく、青白く少し霞んで光っているもの。きっとそれぞれに神秘的な名前なんかも付けられていて、どれかと繋がって星座になるだろう。
 こんなとき、星に詳しければもう少し楽しめたかも知れない。真緒は少しだけそう思ったが、生憎持ち合わせている天文の知識は一般常識程度だ。ここから見える星座は、ほとんど名前だけで位置までは分からない。
「~♪」
「?」
 突然、凛月が鼻歌で何かを奏で始める。単純なメロディーだが、童謡にしてはあまり耳に馴染みが無い。
「あかいめだまの、さそり……♪」
「凛月」
「ひろげた鷲の、つばさ……♪」
「おい、凛月」
「……あれ、知らない? 『星めぐりの歌』」
 あをいめだまの、小いぬ。ひかりのへびの、とぐろ。「ま~くんが寂しくならないように」と言って、その歌の続きを口ずさむ凛月。曰く、昔とある文豪が作った曲で、彼の著作や派生作品にもしばしば登場しているらしい。
「見える? あれがそのさそり座」
 てっぺんより少しだけずれた西の空。『あかいめだま』を中心に、明るい星がS字を描く。
「あぁ、あれがそうか。あの位置なら『めだま』って言うより、心臓じゃないのか?」
「いいじゃん。そこは作者の感性だよ。少なくとも、俺は嫌いじゃないねぇ」
 赤い目玉を細めて笑う凛月を、真緒はじっと見つめてから、再び空の『あかいめだま』に視線を戻す。
 ――似ている。
 直感で、そう思った。
 ルビーよりも赤く透き通り、リチウムよりも美しく酔ったようになって燃えているその星の色を、真緒はよく知っていた。時折、その目玉が血液を吸い取って閉じ込めた硝子玉のように思えて、一刺しで生物を殺せる蠍のように非人間じみた雰囲気を纏う様が恐ろしく見えることもあるけれど、そう考えなければ、それはもう惚れ惚れするほどの存在感があるのだ。自ら赤い輝きを放つ宝石のように、一目見ただけで注意を引きつける蠍のように。
「なぁに、あれがそんなに気になる?」
「いや……凛月って、蠍みたいだよな、って」
「え?」
「! あ、あぁ! いや、何でもない! 忘れて良いから!」
「猫だの蠍だの、ま~くんは俺を何だと思ってるの……うん、そうだねぇ。どちらかというと、蠍はま~くんかな」
「はぁ?」
「ふふっ、何でもな~い」
 悪戯っぽく笑った凛月は真緒に背を向け、再び『星めぐりの歌』をハミングしながら歩き出す。赤い目玉を隠したその背中を見失わないように、真緒もその影を足早に追った。

          * * *

「案外ここまで近いもんだな」
「そぉ~……? ざっと二時間くらい歩いた気がするんだけど。もうへとへと、足が鉄棒になりそう……」
「お~い、さっきまでの威勢はどうした~?」
 適当な雑談をしているうちに、二人は公園の近くまで辿り着いていた。普段の通学路の途中にある、海の見える公園とは違う。二人の家の最寄り駅からさほど離れていない、遊具がいくつか並ぶごくありふれた小さな公園だ。
「夜でも疲れるものは疲れるの。何でその辺を察して途中でおんぶしてくれなかったのさ、ま~くんの鬼」
「無茶を言うな、エスパーじゃあるまいし。ずっとお前の後ろにいたし、お前も割と元気そうだったから、気付かなくても仕方ないだろ」
「う~……年寄りが無理するもんじゃないねぇ。せめて休憩させてよ、このペースなら家まであと三十分もかからないでしょ」
「まぁ、それくらいは良いけどな。俺も流石にきつい」
 腰の高さくらいの石の柱が立っているだけの簡単な門を潜り、二人して奥のベンチに腰掛ける。『あかいめだま』は、住宅地で見たときよりも更に西へ動き、今にも遠くの家の屋根に隠れてしまいそうだった。
「ま~くん」
「ん~……?」
「眠そう」
「ん~……」
 ちっちゃい子みたいだねぇ、と、凛月が手を伸ばして頭を撫でてみても、真緒は曖昧な唸り声を上げるばかり。やがて開いた脚の間にだらしなく手を垂れ、寝息しか返さなくなった彼の姿勢を整え、自分の肩に彼の頭を乗せてやると、凛月は様相を変えた星空を改めて見上げる。
 あの日もそうだった。転校生を背負って、公園の雑木林を通って帰った『前夜祭』のあの日。多忙を愛する真緒は、動いている間に本当の意味で疲れを自覚することはない。こうして静止の時を得て、初めて体が休息を欲する。本当に皆の幸いのために、体を焼いたって構わないと思っているのではないかと心配してしまうほど、この少年は危なっかしくて、愚かで、しかし愛おしい。
 今日だってそうだ。いつもより多量の仕事を片付けて、どうせ間に合わなかった終電まで走って、星を眺めながら数時間歩き続けて……。せめてこの星めぐりの旅のように帰路を辿った夜が、彼にとって僅かでも息抜きになったのならば僥倖なのだが。
 夏の天の川は冬より見つけやすいというけれど、街よりも住宅地よりも、公園はずっと明るくて、いくら見つめても『あかいめだま』ばかりが目に留まる。
「……一人は、寂しいよねぇ」
 大昔の蠍も、オリオンを刺したのは女神に命じられたからだ。オリオン座が反対側にあるのも、それ以来蠍が怖いから。
 蠍は常に何かを傷付けて、怖がられて、でもそうしないと生きていけないのだ。それを罪だと思って、身を焼いたところで償いにはならないことを、果たして分かっていたのだろうか。飢えて死ぬのはいたちだけではないということを。
 どうか心が飢え死にしたお前の姿だけは見せないでおくれ。どうか井戸に落ちたくらいで何もかも諦めないでおくれ。
「……帰ろうか、ま~くん。お家まで連れて行ってあげる」
 返事は無い。蒸し暑さで火照った顔が、明るすぎる電灯に照らされて、熟した苹果のあかしのように美しく輝いている。
 脱力した体を背負うと、ずっしりとした重みが凛月の背中や腰にかかる。
「ここで何回も転んで膝を擦りむいた泣き虫くんが、生意気に随分大きくなっちゃって……」
 美味しそうな汗の匂い。でも、お兄ちゃんらしく今は少しだけ我慢して。
「小熊のひたいのうへは、そらのめぐりのめあて……♪」
 旅の終わりは、いつだって家に帰るまで。またの続きは、望むならいつでも。
 幾度目かの夏は、まだ始まったばかり。
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