シャドウ側に光が灯る
はぁ、とかじかんだ手に吐き出した空気は、煙でも湯気でもないのに白くもやもやしていて。黄昏時を早々に攫った午後六時の夜闇は、まるで全てを手中に収めんとする魔王のように、そのぼんやりと浮かび上がった呼気を呑み込み、溶かしていく。
「……手、真っ赤」
黒い手袋をはめた手が隣から伸びてきて、彼が着ているコートのポケットへと右手が導かれる。同じく、真っ黒。等間隔に並んだ街灯さえ無ければ、彼もきっとこの魔王と同化していたことだろう。
ポケットに入った右手から、自分まで闇の中に消えてしまいそうな気がして。温もりから与えられる心地良さより、恐怖心が少しまさっていた。
「何で出しちゃうの? 寒いでしょ」
「あっ、えっと……」
歩道側を歩く凛月の背後で街灯が点滅しては、逆光と暗闇が交互に彼の顔を黒く染める。見慣れた眠たげな顔はそこには無くて、ぱっちりと開いた赤い瞳だけが辛うじて面影を残すばかり。
「ま〜くんが辛いときほど嬉しくなっちゃうド変態なのは知ってるけどさぁ。霜焼けにでもなったらお仕事に支障が出るでしょ」
「だ、大丈夫だって! 多少荒れても書類仕事くらい――」
「そっちじゃなくて、アイドルのお仕事の話。手袋がある衣装しか着ない訳でもなし、近くで見たファンに変な心配されたらどうするのさ」
「それは……」
再び息を吐いて、両手を擦り合わせる。刺すような冷たさに痛みすら感じるようになってきて、凛月の顔が直視出来ない。
冷気が針のように刺さる様子を連想しないよう、柔らかいマフラーに顔を埋める。ひりひりする鼻まで覆ってしまえば、防御力も少しは上がるはず。
「ま〜くん」
ぐい、と不意に歩道側へ引き寄せられて、肩同士が触れ合う。同時に背後でキィ、と摩擦音が鳴ったかと思えば、近所の女子校の制服を着た女の子が自転車を漕いで追い抜いていった。
「ふらふら歩かないでよ。危ないでしょ」
「わ、悪い。ちょっと考え事してて」
「ふぅん……」
未だに広がらないゼロセンチの距離。冷たい顔の内側からこみ上げる熱が、冷気を跳ね返すように耳まで伝わってくる。
「ま〜くんは、こっち」
「えっ?」
俺を歩道の内側へ押しながら、車道側へ回る凛月。そして今度は俺の左手を取って、再び闇色のコートのポケットへとそれを差し入れた。
「ちょっ、いいってば!」
「遠慮しなさんな。ほら、そっちはこれ使って」
黒い手袋の片方を、剥き出しの右手へと無理矢理付けられる。表面は皮製だが、内側のフリースが凛月の手から受け取った体温を程よく含んでいた。
「どう?」
「……そりゃ、あったかいけど……」
「うんうん。これで万事解決〜♪」
手袋を外しても、凛月の右手は俺の左手を暖かい闇の中から解放しようとはせず。指同士を絡めて、組むように手を握ったまま、街灯の照らす道を何食わぬ顔で行くばかりだ。
「せめて、手離してくれ……」
「いいじゃん。誰も見てないし、こんなに暗いもん」
無邪気に、しかし穏やかさも混じえて、凛月は微笑む。微笑んだのだ。車道側に回ったおかげで直接街灯に照らされたその顔は、最早夜闇という魔王の手先ではない。いつもの凛月、見慣れた安心感がそこにはあった。
「はいはい。ほら、またマフラー緩んでる」
「こういう巻き方だもん。セッちゃんに教わった」
「嘘つけ、取れそうだぞ。ここをこっちに流して……」
空いた右手で青いタータンチェックのマフラーを整えてやると、同じ手袋をはめた黒い左手にそっと頭を撫でられた。白い顔に綺麗なバランスで並んだ鼻や耳は真っ赤に染まっていて、唇も少しだけ紫色が混じっている。
光が灯ると、黒が印象深いように思われる凛月は、その実明るい色彩に溢れていて。キラキラした姿に見とれてしまうのは、ステージの上だけではないと改めて思い知らされた。
「ありがと。余は満足じゃ♪」
「はいはい、お褒めに与り光栄ですよっと」
気付けばすぐ数歩先に、茨の垣根と洒落た民家。飽きるほど目にして、しかし未だに不思議な存在感を放つ朔間家。
「あっ、これ……」
「いいよ。明日返して」
「いや、どうせ俺ん家ももうすぐだし」
「返しに来てよ。そうすれば明日もま〜くんに会えるもん」
コートのポケットから出て、凛月と離れた左手。再びそれを取られたかと思うと、流れるような動作で、さながら騎士の如く、凛月はその甲に口付けた。
「……!?」
「『約束』だからね?」
外したもう片方の手袋で証を覆われ、凛月の唇が触れた箇所をそっと撫でられる。頭がなかなか追いつかなくて、身に染みる寒さもとうに忘れてしまっていた。
「おやすみ、ま〜くん。また明日」
門を開き、玄関の戸の奥へと消えていく凛月を見送った後も、しばしその場から動けなくて。明日どんな顔をしてあいつに会うべきか、そればかりがショート寸前の熱い思考回路を駆け巡っていた。
嗚呼、夜よ。どうかあの気怠げな黒猫を、この手袋より早くこちらへ返しておくれ。
「……手、真っ赤」
黒い手袋をはめた手が隣から伸びてきて、彼が着ているコートのポケットへと右手が導かれる。同じく、真っ黒。等間隔に並んだ街灯さえ無ければ、彼もきっとこの魔王と同化していたことだろう。
ポケットに入った右手から、自分まで闇の中に消えてしまいそうな気がして。温もりから与えられる心地良さより、恐怖心が少しまさっていた。
「何で出しちゃうの? 寒いでしょ」
「あっ、えっと……」
歩道側を歩く凛月の背後で街灯が点滅しては、逆光と暗闇が交互に彼の顔を黒く染める。見慣れた眠たげな顔はそこには無くて、ぱっちりと開いた赤い瞳だけが辛うじて面影を残すばかり。
「ま〜くんが辛いときほど嬉しくなっちゃうド変態なのは知ってるけどさぁ。霜焼けにでもなったらお仕事に支障が出るでしょ」
「だ、大丈夫だって! 多少荒れても書類仕事くらい――」
「そっちじゃなくて、アイドルのお仕事の話。手袋がある衣装しか着ない訳でもなし、近くで見たファンに変な心配されたらどうするのさ」
「それは……」
再び息を吐いて、両手を擦り合わせる。刺すような冷たさに痛みすら感じるようになってきて、凛月の顔が直視出来ない。
冷気が針のように刺さる様子を連想しないよう、柔らかいマフラーに顔を埋める。ひりひりする鼻まで覆ってしまえば、防御力も少しは上がるはず。
「ま〜くん」
ぐい、と不意に歩道側へ引き寄せられて、肩同士が触れ合う。同時に背後でキィ、と摩擦音が鳴ったかと思えば、近所の女子校の制服を着た女の子が自転車を漕いで追い抜いていった。
「ふらふら歩かないでよ。危ないでしょ」
「わ、悪い。ちょっと考え事してて」
「ふぅん……」
未だに広がらないゼロセンチの距離。冷たい顔の内側からこみ上げる熱が、冷気を跳ね返すように耳まで伝わってくる。
「ま〜くんは、こっち」
「えっ?」
俺を歩道の内側へ押しながら、車道側へ回る凛月。そして今度は俺の左手を取って、再び闇色のコートのポケットへとそれを差し入れた。
「ちょっ、いいってば!」
「遠慮しなさんな。ほら、そっちはこれ使って」
黒い手袋の片方を、剥き出しの右手へと無理矢理付けられる。表面は皮製だが、内側のフリースが凛月の手から受け取った体温を程よく含んでいた。
「どう?」
「……そりゃ、あったかいけど……」
「うんうん。これで万事解決〜♪」
手袋を外しても、凛月の右手は俺の左手を暖かい闇の中から解放しようとはせず。指同士を絡めて、組むように手を握ったまま、街灯の照らす道を何食わぬ顔で行くばかりだ。
「せめて、手離してくれ……」
「いいじゃん。誰も見てないし、こんなに暗いもん」
無邪気に、しかし穏やかさも混じえて、凛月は微笑む。微笑んだのだ。車道側に回ったおかげで直接街灯に照らされたその顔は、最早夜闇という魔王の手先ではない。いつもの凛月、見慣れた安心感がそこにはあった。
「はいはい。ほら、またマフラー緩んでる」
「こういう巻き方だもん。セッちゃんに教わった」
「嘘つけ、取れそうだぞ。ここをこっちに流して……」
空いた右手で青いタータンチェックのマフラーを整えてやると、同じ手袋をはめた黒い左手にそっと頭を撫でられた。白い顔に綺麗なバランスで並んだ鼻や耳は真っ赤に染まっていて、唇も少しだけ紫色が混じっている。
光が灯ると、黒が印象深いように思われる凛月は、その実明るい色彩に溢れていて。キラキラした姿に見とれてしまうのは、ステージの上だけではないと改めて思い知らされた。
「ありがと。余は満足じゃ♪」
「はいはい、お褒めに与り光栄ですよっと」
気付けばすぐ数歩先に、茨の垣根と洒落た民家。飽きるほど目にして、しかし未だに不思議な存在感を放つ朔間家。
「あっ、これ……」
「いいよ。明日返して」
「いや、どうせ俺ん家ももうすぐだし」
「返しに来てよ。そうすれば明日もま〜くんに会えるもん」
コートのポケットから出て、凛月と離れた左手。再びそれを取られたかと思うと、流れるような動作で、さながら騎士の如く、凛月はその甲に口付けた。
「……!?」
「『約束』だからね?」
外したもう片方の手袋で証を覆われ、凛月の唇が触れた箇所をそっと撫でられる。頭がなかなか追いつかなくて、身に染みる寒さもとうに忘れてしまっていた。
「おやすみ、ま〜くん。また明日」
門を開き、玄関の戸の奥へと消えていく凛月を見送った後も、しばしその場から動けなくて。明日どんな顔をしてあいつに会うべきか、そればかりがショート寸前の熱い思考回路を駆け巡っていた。
嗚呼、夜よ。どうかあの気怠げな黒猫を、この手袋より早くこちらへ返しておくれ。
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