氷点下の贈り物

 陽射しの強い夏が嫌いだからと言って、その対極に位置する冬は好きなのかと聞かれると、別にそうでもないように思える。
 勿論、暖房のきいた室内で炬燵に潜ってだらだら過ごしたり、頭からすっぽり布団を被ってうたた寝するのは、この上ない至福のひとときだ。しかし、そこから一歩踏み出すとなると話は別で。やはり朝は、特にそれが顕著に表れる。
 例え頑張って布団から体を出すだけ出しても、人より低い自分の体温を更に下回る、長い夜の中で冷え切った空気に肌を刺されると、途端にそれ以上動く気が失せてしまうのだ。かと言って、その場から動かなくても冷気の集中攻撃が止むわけでもなし、結局ベッドまで戻って二度寝コースを辿り、幼馴染に引きずり出されるまで極楽行きがデフォルト。
「おい、凛月! 起きろって!」
 そう、まさに今その状態。
「う〜、やだぁ……あと五分……」
「そんなこと言ってそれの十倍は寝る気だろ! いいから早く!」
「うるさいなぁ……起きる、起きるから揺すらないで……」
 肩を手加減無しで掴む手を払い、たまたま目に入った携帯に手を伸ばす。
「……ま〜くん」
「ん?」
「今日、土曜日なんだけど……」
 ロック画面に浮かび上がる今日の日付らしき数列の横には、確かに『土』と小さく書いてある。昨日はここではない、もっと漫画やらぬいぐるみやらがごちゃごちゃした部屋で目を覚ました記憶があるから、昨日が金曜日、今日はその次で間違いない。
「分かってるよ、いつも寝惚けてるお前じゃあるまいし」
「失礼な。じゃあ何でわざわざ来たのさ」
「ほら、見てみろよ!」
「うっ……」
 真っ黒い遮光カーテンが突然捲られ、東の空から真っ直ぐこちらを見つめる太陽に顔を顰める。しかし、そんな俺の様子などお構い無しに、ま〜くんはやや興奮気味に続けた。
「雪だ! 雪積もってるぞ、りっちゃん!」
「ゆき……?」
 言われてみれば、いつもより外から注ぐ光が強いように感じる。太陽から目を逸らし、南へと視線を移すと、ようやっとその訳が呑み込めた。
 ベランダの手摺りに載った白い塊。夜空の星屑がそのまま落ちてきたかのように、朝日を反射してキラキラと輝くそれは、手摺りはおろか、ベランダ全体、果ては固い新芽を鳥肌のように出した、向かいの家の桜の木までも白銀に染め上げていた。
「あ〜、深夜に降ったんだねぇ。外、寒そう……」
「こらこら、そこで寝ようとするな。呼びに来た意味が無いだろうが」
「なぁに? ま〜くんはこの寒い中雪遊びでもしたいわけ? 若いのは元気だねぇ……」
「雪遊びは寒い中するもんだろ〜? その……ダメか?」
 この場合、『ダメか?』というのは、俺と一緒に雪遊びをすることだろう。眉尻を下げて、少し恥を滲ませながらお願いしてくるま〜くんも、まぁ悪くはない。
「ん〜。むかぁし、まだちっちゃかった頃なら良かったんだけどねぇ……」
「でも――」
「寒空の下に年寄りを放り投げるとか、何があるか分かったもんじゃないんだけど? 凍死でもしたらどう落とし前つけてくれるわけ?」
「……そっか、やっぱり覚えてないよな」
「ん?」
 この場合の『覚えてない』は、ちょっと意味が推測出来ない。昨日はすっきり晴れていたから、雪が降るなんてま〜くんとて予想していなかっただろう。雪遊びの約束などしたはずが無いことくらいは、記憶が無くともはっきりと分かる。
「ねぇ、ま〜くん。覚えてないって、何のこと?」
「いや、何でもない。恥ずかしいから、あんまり言いたくないし」
「そんな意味ありげに言われると気になるじゃん。ねぇ、笑わないから教えて」
「絶対?」
「絶対」
「……分かった」
 意を決したようにベッドの縁へと腰掛け、ま〜くんは次のように語った。

 ☆

 あれは確か、俺が小学校に上がりたての頃だったはず。あの日も確か雪が降っていて、妹が友達と雪遊びをしに公園に行ったのを、朝見送った後のことだ。
 お世辞にも雪国と呼べないこの地域では、一年のうちに雪が見られる回数なんてそう多くないから、見れば遊びたくなるのは本能みたいなもので。すぐに手袋とマフラー、それからニット帽とコートを出して、完全装備でいつもの場所へと向かったのである。
『あら真緒くん、いらっしゃい』
『おはようございます。りっちゃん、起きてますか?』
『まだ寝てると思うけど……いいわよ、お外寒いから上がっていって』
『お邪魔します』
 氷の塊がへばりついた長靴を脱いで、いつも学校へ行く前にも通るルートを迷わず辿る。赤い手書き文字で【りつ】と書かれた、黒い猫型のプレートの下がったドアを開けると、目の前にはやはりいつも通り、盛り上がった布団を載せたベッドが鎮座していた。
『りっちゃん、起きて〜』
『ん……なぁに、ま〜くん』
『遊ぼ? お外、雪降ってるよ』
『ゆきぃ……?』
『そう、雪』
『う〜……やだぁ、まだ眠い……』
 もぞもぞと、既に首から下を全て埋めていた布団で、更に顔の半分を隠す凛月。しかし、そう簡単に引き下がる程、俺も成熟してはいなかった。
『りっちゃ〜ん、あそぼ〜?』
『雪遊びなら他のお友達とでも出来るでしょ……』
『……おれは、りっちゃんと遊びたい』
『……』
 今思えば、どうせ次の日までに溶け切るような量でもあるまいし、そこまで必死にならなくても良かったのかも知れない。でも、多分俺は、このときのどうしようもない感動と興奮を、いちばん近くにいる人と共有したかったのだ。
『ねぇ、りっちゃん。今日、泊まりに来ても良いからさぁ』
『…………』
『夕ご飯、りっちゃんの好きなもの作って、ってお母さんに頼んであげるから』
『………………』
『ねぇってば〜! おれ、りっちゃんとじゃなきゃやだ〜!』
『……………………分かった』
『ふぇ?』
『ちょっとだけ、だからねぇ?』
『やったぁ! じゃあ行こ!』
『あうあう……分かったから引っ張らないで……』
 承諾してもどうせ自分で身支度をしそうにない凛月に代わって、パジャマ姿からてきぱきと自分と同じようなフル装備に着替えさせる。『行ってらっしゃい』と笑顔で見送る凛月の母親に手を振り返し、非日常的な銀世界への一歩を二人で同時に踏み込んだ。

 自分の家のものより広い、凛月の家の庭。ここには何々の花のプランターがある、だとか、あそこの何番目の石畳の真ん中に星模様がある、だとか、事細かに説明出来る程見慣れているというのに、この日ばかりはいつもの庭じゃない。プランターで育ちかけている花の芽も、いろんな模様を隠した石畳も、全て細かな氷の粒に覆われて、何もかも特徴が言えなくなっていた。
『で、何するの?』
『んっと……雪だるま作りたい!』
『雪だるまねぇ……じゃあ、顔にする石とか人参とか持ってくるから、ま〜くんが本体作っといて〜』
『何でだよ! りっちゃんもやるの!』
『えぇ〜……?』
『ほら、おれが胴体作るから頭作って! ちっちゃい方!』
『うぅ、分かったからそんなにおっきい声出さないで……』
 足下に落ちていた大きめの雪の塊を、凛月がしぶしぶ拾って、形を整え始めたのを確認すると、俺も自分の周りの雪をかき集めて、ぎゅっと両手で固めた。

『ねぇ、ま〜くん。これ見て』
『ん〜?』
 そこそこ大きくなってきた雪玉を転がしながらうろついていると、凛月が黒い手袋をはめた手を差し出してくる。
『わぁ、結晶だ!』
『ふふっ……お空でこんな綺麗な形になって降ってくるなんて、不思議だよねぇ』
 ほら、ま〜くんも、と指を差され、改めて自分の体を見回す。手袋も、コートも、長靴も。凛月の手に乗ったものと同じだったり、少し違っていたり。無地の防寒具たちは、儚く可愛らしい模様がついたようになっていた。
『お兄ちゃんに聞いたんだけどね。こういう結晶は、ゆっくり冷やしていかないと作れないんだって』
『急ぐと失敗する、ってこと?』
『そうだねぇ……お空の雲が一生懸命丁寧に作って、俺たちに届けてくれたと思うと、ちょっと面白い……♪』
 俺のニット帽についた雪を払うように数回頭を撫でると、『ま〜くん、そっち持って』と、凛月は自分が転がしていた雪玉の反対側を指差した。
『こんな感じ?』
『そう。行くよ? せーのっ』
 ふわり、と、腰くらいまでの大きさまで育った塊が宙に浮いて、そのままもう一回り大きい塊へと導かれる。再び凛月の掛け声でゆっくり下ろすと、まるでそこにあるのが当たり前であったかのように、雪だるまの頭は胴体の上でぴたりと安定した。
『出来たぁ……!』
『あ〜……長い道のりだったねぇ。もう疲れたんだけど』
『何言ってんだよ。ほら、顔付けようぜ』
『はいはい。じゃあ今度こそ人参とか持ってくるから、ま〜くんは見張ってて〜?』
『りっちゃん、そのまま家の中で寝たら怒るからな?』
『分かってる……それなりに頑張るから、あとで俺を褒めてね、ま〜くん』
 ふらふらと、今にも雪の上に顔面からダイブしたまま寝てしまいそうな足取りで玄関へと向かう凛月を見送って、俺も庭をきょろきょろと見渡す。警備員ごっこのつもりでもいたのかも知れないが、なにぶん当時からじっとしていられない性分だったものだから、俺も何か雪だるまの飾りつけに使えそうなものを探したい、という気持ちも少なからずあったのだろう。
 石ころ、葉っぱ、よく分からないプラスチックの破片……。目についたものを雪の中から掘り出すのは、ちょっとした宝探しをしている気分で。時折警備員に戻りながらも、小さなトレジャーハンターは仕事熱心だった。
 ふと、今まで拾い集めていた小さなお宝とは違う、しっかりと形の決まっている感じのものが目に入る。雪を払って出てきたそれは、プラスチック製の小さな赤いバケツだった。側面に象の絵が描いてあるそれは、見覚えがある。俺たちがもっと小さかった頃から、庭で泥団子を作るときも、凛月の母親の手伝いで草むしりをするときも、大活躍していた代物だった。
 持ち上げてみると、やけに重い。ひっくり返して出てきたのは、表面に溜まった雪と、大量の水。それから、水面に張っていたであろう厚い氷も、円形を保って柔らかい雪の上に落ちた。
 ――これ、使えるかも。
 よく絵本やテレビで見るように、このバケツを帽子代わりにしてみれば、もっと凄いものになるのではないか。凛月とは雪だるまに顔を付ける話しかしていなかったから、先に帽子を被せておけば、凛月も驚くかも知れない。
 先程形だけが出来上がったばかりの雪だるまは、俺よりも、凛月よりも大きくて。そう簡単に手が届くはずもないのに、幼い俺はそれしか考えられなかったものだから、必死に手を伸ばし、バケツを雪だるまの頭へと載せようとした。
 そのときである。胴体に載せてからずっと動かなかった頭が、ゆっくり、ぐらりと傾いたのは。
 自分では気付いていなかったが、恐らく何処かに腕か体が当たって、バランスを崩したのだろう。何が起こっているのかさえ把握出来ないでいるうちに、凛月が育てて、二人で持ち上げた頭は、スローモーションのように後ろへと落下して――
 ぐしゃり。
 そこは確か、星模様の石畳が敷かれた場所だった。
『あっ……う、嘘だ……』
 バケツを放り出して、石畳に乗った雪をすくってみても、現実は変わらない。
 雪だるまの頭だったものは、硬い石畳に当たってひしゃげて、最早ただの雪山に変わってしまっていた。今から作り直すのも時間がかかるし、出来たとしても一人で持ち上げるなんて出来っこない。
 どうしよう、どうしよう、とひたすら考えあぐねているうちに、くしゃり、と、背後から雪を踏み潰す音が聞こえた。
『ま〜く――』
『わぁ〜っ! りっちゃん、来ちゃダメ!』
 根本的な解決にすらならない。そんなこと分かっている癖に、凛月のもとへと駆け寄り、両手を広げて視界を塞ぐ。
『ちょっ、何? ま〜くん、どうしたの?』
『どうもしない!』
『じゃあ何でこんなことするの』
『何でもない!』
 凛月がしゃがんだら、俺もしゃがみ、凛月が背伸びをしたら、俺も背伸びをして。両手いっぱいに人参やら木の枝やらを抱えた凛月と、遊び心故に罪悪を抱えた俺の攻防はしばらく続くも、軍配は当然上がるべき方向に上がるのであった。
『あ、野良猫』
『え、何処!?』
『隙あり〜』
『あ……!』
 ――終わった。
振り返った先で首無し雪だるまを見つめる凛月の背中を見て、ただそれだけを思った。表情は見えないけれども、きっと怒っている。きっと悲しんでいる。凛月は、約束を破られることが何よりも嫌いだから。
『……ま〜くん』
 とても、とても静かな声。
『何があったのか、きちんと説明してもらえる?』
 途端に、俺は怖くなった。凛月に嫌われることが。その場の思いつきで、結果として凛月を傷つけてしまった自分自身が。
『うぅっ……うぁ〜ん!』
『えっ、ま〜くん?』
『えぐっ、うぇっ、りっちゃ……ごめ、ごめんなさい……』
『ちょっと、泣かないでよ。どうしたの? 怒らないから言ってみて』
『……ほんと?』
『俺がま〜くんに嘘つくわけないでしょ』
 指先でそっと俺の涙を拭う凛月の目は、たまに見せる、年上らしい慈しみを帯びていて。こういう目を見る度に、凛月も何だかんだお兄ちゃんなのだ、そう思い知らされてしまうのが、嬉しいような、悔しいような。
 とにかく、促されるまま、俺は全てを話した。探索中に見つけた宝物から、呆気なく崩れた雪だるままで。
『……そっか。ちゃんと話してくれてありがとね』
『りっちゃん、本当に怒ってない?』
『ま〜くんは俺のためにバケツを被せようとしてくれたんでしょ? わざと壊したわけじゃないんだから、そんなんで怒ったらま〜くんが可哀想』
『……ごめんなさい』
『いいって、もう一回新しいの作り直せば。ねぇ、ま〜くん』
 頭だった雪山から辛うじて残った塊を取り出し、少しずつ手で削りながら凛月は続けた。
『大きな雪だるまを作ろうなんて、まだ俺たちはそこまで背伸びしなくてもいいと思うんだよねぇ。まだちっちゃくてもいいよ。そのうち、さっきみたいな――ううん、あれよりも大きいヤツだって、作れるようになるはず』
 もうただの大玉にしか見えない胴体の横に、凛月が新しい雪玉を置く。子供の頭くらいの大きさのそれは、俺の胸くらいまでの高さの大玉に比べればかなり小さい。
『そのうち、って、いつのこと?』
『あ〜……十年くらい先じゃない? そのときにまたこうやって、ま〜くんと雪だるま作るのも悪くないかもねぇ……♪』
 俺も適当に集めた雪を固めて、その小さな雪玉の上に載せる。木の枝を折ったり、石を並べたりして、二人だけにしか作れない雪だるまを仕上げていく。
『約束だからな、りっちゃん』
『勿論。俺は適当な奴だけど、約束だけは死んでも守るから』
 小さな雪だるまの上に橋をかけるように、お互いに小指を差し出す。無邪気な指切りげんまんの歌を吸い込んでいく雪の中で、喜怒哀楽のどれともつかない、しかし満足げな顔をした雪だるまが静かに座っていた。

 ★

「はは〜ん。やっと思い出した」
「……もう忘れてくれ、恥ずかしいから」
「うんうん、ちゃぁんと覚えてる。ま〜くん、可愛かったなぁ。雪だるま壊したくらいでぴーぴー泣いちゃって……」
「も、もういいだろ! 全部昔の話だ!」
「――それで?」
「ん?」
「ま〜くんは、俺とこの雪の中何したいわけ?」
「あっ、えぇっと、その……」
 ここまでの流れで、本当は俺もま〜くんの目的をとっくに察している。でも、事情を話したことで余計に恥ずかしさが増して、なかなか切り出そうとしないま〜くんをからかうのも年寄りの楽しみだから、なんて。
「ほらほら、笑わないから言ってごらん」
「お前、絶対笑う気だろ」
「笑わないって。言ってくれなきゃ分かんないだけ」
「…………き……うろ……」
「ん?」
「……また、雪だるま作りに行きませんか!」
 半ばヤケクソといった感じで、顔を赤く染めながらそう叫ぶま〜くん。十年も前にした約束をまだ覚えていて、本気で実行に移そうとしていたらしいところを見ると、何だか滑稽で、だけどやっぱり嬉しくて。
「や、やっぱり笑ってんじゃねぇか!」
「ふふっ、ごめんごめん。そんな昔の約束を本気にしてたま〜くんが可愛くてつい……♪」
「何だよ。じゃあ行かないのか?」
「行くよ。あのときだって言ったでしょ? 俺は適当な奴だけど、約束だけは死んでも守る、って」
「……ははっ、分かってる。凛月はそういう奴だよ」
「さてと、そうと決まれば行こうかね。ま〜くん、着替え宜しく〜」
「まったく……いつまで経ってもしょうがねぇな、りっちゃんは」
 ぶつくさと文句を垂れながらも、ま〜くんはすぐさま箪笥から防寒具を取り出し、着ていたパジャマを脱がしにかかる。開け放たれたままの遮光カーテンの隙間からは、憎らしいくらい澄んだ青空が覗いていた。
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