狐の箱庭
空欄の場合はつゆになります
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真夜中をまわる前のこと。
風に煽られてはためく暖簾の前で腕を組み、峠を望む土方の姿があった。
脇道から正面口へ踏み出たつゆは夜闇に真っ直ぐ立つ若旦那を目に入れて言った。
「若旦さま」
顔を向けてつゆを見たあと、土方はゆっくりと歩を向けた。
冷静沈着で、元より表情さえあまり動く人間ではない。
しかし今の彼はどこか違った。
こちらが違和感を覚える何かを抱えて歩いてくる。
その姿は辺りを囲う山山の翠のように鮮烈で、不穏なほど暗く静かだった。
今日の終わりを伝えようとしていたつゆだったが、その前を下男が斜めに駆けてきた。
後からまたひとりと土方の元へ来て、彼は書類を受け取ったりする。
何か問題でも起きたかのような感じに眉をしかめた。
「どしたの」
と、隣に立った山崎を見て、つゆはまもなく首を横へ振った。
「そう。町まで行くけど何かいるかい」
「じゃあ、____タライを」
そう言うつゆに乾いた笑いを漏らし、山崎は言った。
「また失くしたの。____あんなでかいの」
困ったように頭をかきながら土方の方を見るので、つゆは慌てて声を潜めた。
「言わないで」
目睫をひらいて訴えるつゆの瞳には静かに緊張が漂っていた。
しかし土方は地獄耳だった。
「知ってるぜ」
従業員に囲まれて書類に目を通しながらこちらに目も当てず、しかしありありとこちらに気配を向けた土方の声が放たれた。
つゆと山崎は苦笑する。
「それにしても行水が好きだね。でかい風呂がタダであるってえのに」
土方をちらりと見てから山崎は声をひそめてこう言った。
「入って帰ればタライも無くならないかもよ」
それは出来ないとつゆは思う。
「ずっと此処にいたくなってしまうから」
「たまにはいいんじゃない? 帰らなくても」
つゆは困ったように笑う。
「他には?」
「今日はもうおしまいだから帰らせて頂くと伝えて」
その時だった。
「つゆ」
呼ばれて振り向くと、土方がこちらを見ている。
そしてつゆが伝える前に「終いか?」といった。
先程見えた陰りは消えている。
「はい。今日はこれで」
「そうか。御苦労だったな」
そう言ってこちらに向かって歩いてくる。
つゆは土方と一緒に帰路を歩きはじめた。
「ちょいと用を済ませに町まで行く。今日は何か足りねえものはあるか?」
今日は客入りが多くあったから、珍しく疲れが出ていたのかもしれない。
つゆは首を横に振った。
「何も」
と。
「若旦さまのご無事があれば充分に御座います」
影もない翠い暗闇の目の前を、微笑するその目でなぞりながらつゆは言った。
まもなく足音がひとつになったので、不思議に思って振り向いた。
するとそこに土方が立ち止まっていた。
瞳に力を灯して、何処なと焦点を合わせたまま黙止する土方の思うところ。
その余白は振り向いた一瞬でつゆに伝わった。
まただ。
何か可笑しいなという気持ちで捉えはじめたつゆへ彼の焦点が定まったのは今だった。
たちまち暗く歪めたその表情、そしてあからさまに舌を打つ嫌な音が響いた。
「____……」
ぎょっしたつゆは暗闇に足を突き刺したまま完全に静止していた。
まるで不穏そのもの。
表情を変えずその目をあててくる彼を見て、つゆは走る苦みと一緒に微かに笑みを灯した。
「若旦那……____」
どうしたのだろう。つゆはそう思い、そう聞いた。
「どうしたの」
「どうしたの____か。久しいな。そんな口をきくのは」
彼の険は薄くなっていた。
何か話す様子はなく、つゆは見返す他なかった。
すると一瞬、土方は口を引き結んだ。
「やめろ」
と、目を伏せる間にさえ険を深めた。
「若若言うな」
皆が彼をその呼び方で慕い始めたのはいつ頃だったか。
その名が相応しい。若旦那と。
「わたしは」
前に出る言葉を口にして、つゆは瞬きもしなかった。
「頼りにして申しております」
勿論、決めるのは土方自身だということもわかっている。
だからつゆの言葉には余分なものは少しもついていなかった。
「つゆ」
大事な事を言う時の生真面目な土方の口調。
「昔のようにトシでいい」
つゆは今ふわりと笑ってはい、と言った。
笑みを引きずりながら前を向いて歩き出したつゆの肩を土方が掴んだ。
「待たんかい」
つゆが振り向くと土方は口端をひきつらせながら笑った。
「何が、はい、だ。わかってねえな」
わかってると言おうとして、先に心がそう光った。
「まあいい。朝飯でもどうだ? 川まで行く」
「それならわたしが____」
眉をしかめる土方につゆは困ったように笑う。
「俺ァお前が好きなんだぜ」
突然の告白につゆは混乱する。
「ちょっと来い」
風に煽られてはためく暖簾の前で腕を組み、峠を望む土方の姿があった。
脇道から正面口へ踏み出たつゆは夜闇に真っ直ぐ立つ若旦那を目に入れて言った。
「若旦さま」
顔を向けてつゆを見たあと、土方はゆっくりと歩を向けた。
冷静沈着で、元より表情さえあまり動く人間ではない。
しかし今の彼はどこか違った。
こちらが違和感を覚える何かを抱えて歩いてくる。
その姿は辺りを囲う山山の翠のように鮮烈で、不穏なほど暗く静かだった。
今日の終わりを伝えようとしていたつゆだったが、その前を下男が斜めに駆けてきた。
後からまたひとりと土方の元へ来て、彼は書類を受け取ったりする。
何か問題でも起きたかのような感じに眉をしかめた。
「どしたの」
と、隣に立った山崎を見て、つゆはまもなく首を横へ振った。
「そう。町まで行くけど何かいるかい」
「じゃあ、____タライを」
そう言うつゆに乾いた笑いを漏らし、山崎は言った。
「また失くしたの。____あんなでかいの」
困ったように頭をかきながら土方の方を見るので、つゆは慌てて声を潜めた。
「言わないで」
目睫をひらいて訴えるつゆの瞳には静かに緊張が漂っていた。
しかし土方は地獄耳だった。
「知ってるぜ」
従業員に囲まれて書類に目を通しながらこちらに目も当てず、しかしありありとこちらに気配を向けた土方の声が放たれた。
つゆと山崎は苦笑する。
「それにしても行水が好きだね。でかい風呂がタダであるってえのに」
土方をちらりと見てから山崎は声をひそめてこう言った。
「入って帰ればタライも無くならないかもよ」
それは出来ないとつゆは思う。
「ずっと此処にいたくなってしまうから」
「たまにはいいんじゃない? 帰らなくても」
つゆは困ったように笑う。
「他には?」
「今日はもうおしまいだから帰らせて頂くと伝えて」
その時だった。
「つゆ」
呼ばれて振り向くと、土方がこちらを見ている。
そしてつゆが伝える前に「終いか?」といった。
先程見えた陰りは消えている。
「はい。今日はこれで」
「そうか。御苦労だったな」
そう言ってこちらに向かって歩いてくる。
つゆは土方と一緒に帰路を歩きはじめた。
「ちょいと用を済ませに町まで行く。今日は何か足りねえものはあるか?」
今日は客入りが多くあったから、珍しく疲れが出ていたのかもしれない。
つゆは首を横に振った。
「何も」
と。
「若旦さまのご無事があれば充分に御座います」
影もない翠い暗闇の目の前を、微笑するその目でなぞりながらつゆは言った。
まもなく足音がひとつになったので、不思議に思って振り向いた。
するとそこに土方が立ち止まっていた。
瞳に力を灯して、何処なと焦点を合わせたまま黙止する土方の思うところ。
その余白は振り向いた一瞬でつゆに伝わった。
まただ。
何か可笑しいなという気持ちで捉えはじめたつゆへ彼の焦点が定まったのは今だった。
たちまち暗く歪めたその表情、そしてあからさまに舌を打つ嫌な音が響いた。
「____……」
ぎょっしたつゆは暗闇に足を突き刺したまま完全に静止していた。
まるで不穏そのもの。
表情を変えずその目をあててくる彼を見て、つゆは走る苦みと一緒に微かに笑みを灯した。
「若旦那……____」
どうしたのだろう。つゆはそう思い、そう聞いた。
「どうしたの」
「どうしたの____か。久しいな。そんな口をきくのは」
彼の険は薄くなっていた。
何か話す様子はなく、つゆは見返す他なかった。
すると一瞬、土方は口を引き結んだ。
「やめろ」
と、目を伏せる間にさえ険を深めた。
「若若言うな」
皆が彼をその呼び方で慕い始めたのはいつ頃だったか。
その名が相応しい。若旦那と。
「わたしは」
前に出る言葉を口にして、つゆは瞬きもしなかった。
「頼りにして申しております」
勿論、決めるのは土方自身だということもわかっている。
だからつゆの言葉には余分なものは少しもついていなかった。
「つゆ」
大事な事を言う時の生真面目な土方の口調。
「昔のようにトシでいい」
つゆは今ふわりと笑ってはい、と言った。
笑みを引きずりながら前を向いて歩き出したつゆの肩を土方が掴んだ。
「待たんかい」
つゆが振り向くと土方は口端をひきつらせながら笑った。
「何が、はい、だ。わかってねえな」
わかってると言おうとして、先に心がそう光った。
「まあいい。朝飯でもどうだ? 川まで行く」
「それならわたしが____」
眉をしかめる土方につゆは困ったように笑う。
「俺ァお前が好きなんだぜ」
突然の告白につゆは混乱する。
「ちょっと来い」