Blooming 小話
十四輪後の話
傷跡
夜──
宿屋の部屋には、小さなランプの灯りだけが揺れていた。
双葉は寝間着の上から右の鎖骨から左胸の上へ斜めに残る傷跡へ、そっと指先を触れていた。
「まだ痛みますか?」
背後から聞こえた声に、双葉は振り返る。
「八戒…」
いつの間にか部屋に戻ってきていた八戒は、Tシャツの襟から少し見える傷跡にほんの僅かに目を伏せた。
「……少しだけ」
双葉が微笑みながらそう答えると、その隣に八戒は静かにベッドの脇へ腰を下ろした。
「気功で傷口は塞げましたが、深く入りすぎていました」
いつもより低い声で八戒の指先が、傷跡に触れないぎりぎりの場所で止まる。
「もっと早く……僕が気付いていれば」
「八戒」
双葉が呼ぶと、八戒は言葉を止めた。
「傷、残っちゃったけどね…」
「……はい」
「でも、私は嫌じゃないよ」
八戒の瞳が揺れる。
双葉は傷跡を見下ろしながら、小さく笑った。
「これがあると、姉さんが最後に私を見てくれたこと、ちゃんと思い出せるから」
「双葉」
「花南は、私を憎んでただけじゃなかった」
双葉はゆっくりと顔を上げる。
「最後はちゃんと、私の姉さんだった」
八戒はしばらく何も言わなかった。
やがて、双葉の手をそっと包み込む。
「……それでも」
穏やかな声の奥に、僅かな痛みが滲んでいた。
「僕にとっては、双葉が死にかけた傷です」
双葉の指先が僅かに震える。
「だから」
八戒は傷跡へ触れず、その少し上にそっと手を添えた。
「痛む時は、隠さずに言ってください」
「……うん」
「双葉が平気だと言っても」
八戒は優しく、けれど少しだけ困ったように笑った。
「僕は、きっと気にしてしまうので」
双葉は少しだけ目を丸くして。 それから、八戒の手をぎゅっと握り返した。
「じゃあ、ちゃんと言う」
「はい」
「八戒が気にしすぎないように」
その言葉に、八戒は小さく笑った。
けれどその夜。 双葉が眠ったあとも、八戒はしばらく眠れなかった。
月明かりに照らされた双葉の胸元。 そこに残った細い傷跡が、あの日流れた血の色を思い出させていた。
八戒はそっと目を伏せる。
二度と。 あんなふうに、この子を傷つけさせない。
胸の奥で、静かにそう誓った。
翌日、宿屋の朝は静かだった。
窓から差し込む柔らかな光が、部屋の中をゆっくりと照らしている。
双葉はひとり、姿鏡の前に立っていた。
服を着替えようとした時。
ふと、胸元に残る傷が目に入る。
白い肌を横切る、まだ新しい傷跡。
あの日、花南に斬られた場所。
指先でそっと触れると、鈍い痛みが胸の奥まで広がった。
「……」
忘れられるはずがなかった。
花南の虚ろな瞳。
震える手。
自分を殺そうとした刃。
そして最後に見せてくれた、あの優しい笑顔。
『あり、が、と……』
『ずっと……ずっと……あいしてる……』
双葉の指先が、僅かに震えた。
「……姉さん」
呼んだ名前は、もう返ってこない。
けれど胸に残るこの傷だけは、あの日のことを確かに覚えていた。
痛い。苦しい。
思い出すたびに、まだ涙が出そうになる。
それでも双葉は、傷跡から指を離さなかった。
「……消えなくていいよ」
小さな声だった。
「私、忘れたくないから」
花南がくれた時間も。
手を繋いでくれたことも。髪を結ってくれたことも。
最後まで自分を“妹”として愛してくれたことも。
全部、忘れたくない。
コンコンっと部屋の扉がノックされる。
「おーい双葉ちゃん」
「はーい」
悟浄の声に上の制服を着る前にキャミソールとスカートの状態で扉を開ける双葉。
その状況に一瞬固まる部屋の外にいた悟浄と八戒だったが悟浄はすぐに視線を逸らしながら呆れた声が漏れる。
「おまっ……せめて上ぐらい着てから出ろよ…」
「?」
悟浄の反応に不思議そうにする双葉。
その横で一瞬、傷跡に視線が行った後すぐに目線を外して、いつもの柔らかい声で「朝食の準備ができましたよ」とだけ言う。でも双葉は気付く。
「八戒、また傷見てた?」
って悪気なく言われて、八戒は少しだけ困ったように笑う。
「……見ていたわけではありません。ただ、気になってしまうんです」
その言葉に双葉はきょとんとしてから笑顔を向ける
「私は平気だってば」
双葉がそう笑うと、八戒は困ったように微笑み返す。
「……それでも、あなたが平気だからといって、僕まで平気にはなれませんよ」
「もー頑固」
「何話してんだよ」
「えー?八戒も悟浄も過保護だって話」
「違ぇよ。お前が無防備すぎんだ」
「え?」
「『え?』じゃねぇ」
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