壱
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月に照らされた黒髪が果てのない水底のようで美しかった。
どこからともなく現れた女の子。
敢えて例えるならば、その少女は鋭い氷柱のようであった。
襲い来る鬼たちに、もうここで死ぬんだと思った刹那。
生ぬるい夜風に紛れて、ほんの一瞬身も凍るほどの冷たい風が自分の横をものすごい速さで駆け抜けていった。
――ザンッ
鮮やかな刀さばき。
たなびく黒髪。
冷酷なまでに上がった口角。
少年の視界で捕らえられたのはそれだけだった。
次の瞬間には鬼の首は地面に転がっていて、それに続いて次々と耳に残るような鬼たちの断末魔が響いた。
刀についた血を払い、少女は振り返る。
月明かりが眩しくて、少年は目を細める。
「いつまで地面に腰をつけてるの?情けない」
その辛辣な言葉が、氷のように美しい少女の第一声であった。
++++++
真っ暗な森をかける。
生ぬるい風が妙にしっくりきて気持ちが良い。
――タッタッタッタッ
あたりは不気味な闇が支配していて、自身の足音がはっきりと聞こえる。
枯れ草を踏み潰す音。
空気を切る音。
微かに乱れた呼吸。
こんなに静かな夜の空気はそうそう味わえない。
目、鼻、耳。
使える感覚で、ほとんど触覚のない肌にこの夜を刻み込む。
虫も鳥もいない。
そんなものはここでは生きてはいけない。
この生のない森の中で7日間生き抜く。
それが鬼殺隊の隊士になるための最終試練だ。
(こんな簡単なのが最終試練だなんて笑える…)
少女は退屈そうに欠伸をする。
藤の花の囲いに入ってからというものの、退屈で退屈で仕方がない。
ここには人を2.3人食った鬼程度しか隔離されていないらしい。
こんな試練で鬼殺隊になれるなんて、判定が甘すぎなのではないのか。
(まあ、この程度で死ぬ奴が隊士になったとしても、すぐに死ぬだけか…)
彼女は西へ西へと向かう。
通常、頭の回る受験者であれば東に行くのが妥当。
だがそれは鬼も承知であちらの方角に多くいるだろう。
そこまで知能が備わっている鬼がここにいるとも思えないが。
体感時間にして、日が完全に沈んでから三刻(六時間)ほど過ぎたか。
日の出まではおおよそ一刻。
西サイドに向かったから多めに見積もって一半刻。
夜が明ければ鬼どもも退散して、受験者も体を休めることができるだろう。
「うわぁぁあああ!!!」
「…悲鳴?」
突如静寂が切り裂かれた。
受験者であろう男の声の悲鳴が辺りに響き渡った。
方角は北北西。
声からして、自分と同じくらいの歳だろうか。
「……」
少女は思案する。
ここに来るまで、鬼には数匹出会ったものの、全て難なく退治してきた。
師から授かった日輪刀も多少刃こぼれしているものの十分に使える。
まだまだ体力にも余力がある。
「……はぁ」
別に助けに行くわけではない。
ただ、自分が見捨てたことで彼が死んだら、ほんの少し後味が悪いと思っただけだ。
少女はスピードはそのままに、細い足を少し斜めに向けて北へと向かう。
闇世の中、月より明るい黄色を目指して。
++++++
我妻善逸、16歳。
俺は今、来たくもなかった鬼殺隊の最終試練を受けて鬼に追われている。
女に騙されて作った借金を
鬼に囲まれて7日間も過ごすだなんて、自分には無理だ。
荷が重すぎる。
――ここで死ぬ。
我妻善逸は、結局結婚することができずに生を終える。
足元からやって来る恐怖。
恐怖、恐怖、恐怖。
体が震えて、迫り来る鬼に反撃することも避けることもままならない。
「っ…」
何をしているんだ。
逃げなければ。
逃げなければ本当にこのまま死んでしまう。
大好きな女の子と付き合うこともできないまま。
――一生童貞のまま、死ぬのか。
「うわぁぁあああ!!」
悔しさがこみ上げる。
感情を土壇場の馬鹿力に変えて、予想以上に情けない声を上げて、震える足は鬼から逃れるように走り出した。
せめて。
せめて、この場だけでも凌ぎたい。
今はまだ、死ぬ時ではないはずだ。
土を蹴る。
雷の呼吸を使えば一息で逃げられるのに、そんなことにも頭が回らないまま走る。
ただがむしゃらに。
ただひたすらに。
だが彼のちっぽけな勇気はすぐに無意味なものに変わる。
「っあ!」
不幸にも、小石に躓いた。
小石なんて珍しくもなんともないのに、なんでよりによってこんな時に。
――ズシャアッ
齢16にもなって転ぶだなんて。
「クソ…」
悔しさに歯をくいしばる。
這いつくばって、泥だらけになって。
全身に細かい切り傷をたくさん作って。
みっともない。
無様。
情けない。
わかってる。
そんなのは自分が一番よくわかっている。
「久方ぶりのご馳走だぁ…!」
「俺のだからな」
「見つけたのは俺だ」
「最初に仕留めたやつのものでいいだろうが」
鬼たちがあと数メートルのところまで迫ってきている。
藤の花の牢獄で、人の肉なんて全然食ってなくて、鬼のランクではかなり低い部類に入るやつのはずなのに。
「ヒィーッ!!」
死にたくはない。
けれどたとえここで生き残って鬼殺隊士になったって、自分はきっとすぐに死ぬ。
弱っちいはずの目の前の鬼にだってこの体たらくなのだから。
鬼との距離、約1メートル。
体を起こして、だが尻餅はついたまま、鬼と向かい合うようにずりずりと後退りをする。
こんなの、もはや逃げですらない。
(っ、食われる…!)
鬼が鋭い牙と爪を剥き出しにした。
ああ、我妻善逸はここで人生リタイアする。
走馬灯のごとく、16年間の人生が脳裏に蘇る。
両親の顔。
好きだった女の子の顔。
取り立て屋の顔。
師匠の顔。
兄弟子の顔。
振り返ってみても、何事も踏んだり蹴ったりで、何も誇れることなんてなかった。
(短い人生だった…)
そう諦めた刹那。
「氷の呼吸 壱の型・氷室斬り」
夜風に紛れて、ほんの一瞬身も凍るほどの冷たい風が自分の横をものすごい速さで駆け抜けていった。
――ザンッ
目で捉えることはできないけれど、耳にはたしかに人の息づかいが聞こえる。
走ってきたのであろう。
やや乱れた呼吸は、鬼の首を切る瞬間だけピンと張り詰める。
(…女の子?)
ほんの一瞬、残像のように見えた影は長い髪をしていた。
少女の顔を見ることは叶わず、次々に鬼たちの断末魔が響く。
――ザンッ
――シュバッ
日輪刀で首を切られた鬼は例外なく死ぬ。
ぼとりぼとりと牡丹の花のように落ちていく首は、先ほどの少女が切り落としているものに違いなかった。
「…ぁ」
やっと彼女をまともに見れたのは、辺り一面の鬼の残骸が散った後であった。
時間にしてわずか20秒ほどしか経っていないはずなのに、まるで何時間も彼女の鬼殺の光景を見ていた気がする。
刀についた血を払い、少女は振り返る。
ゴクリの生唾を飲み込む。
生糸のような髪。
陶器のような白い肌。
人形を思わせるかのような細い手足。
息を飲むくらい、少女は美しかった。
大の大人でもたじろぐくらいには、それはそれは整った顔立ちをしていた。