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花籠

 ノーマン市は故郷であるグレイ市よりもずっと賑わっていた。特産物が並ぶ市で人々は笑顔を絶やさずに歩いている。幸せが分散することなど考えもしない。誰かが転んだら笑いながら助け起こす。赤子が泣きだしたら不器用な手つきで泣きやませる。当たり前の流れが、社会の営みがここにはあった。
 外套のフードを深くかぶるグレイに目を止めるひとは誰もいない。ローストした木の実を売ったお金で果物と焼き菓子を購入するとカフェか居酒屋を探した。
 旅人と朝廷魔術師はそこにいるのが常だ。誰が決めたわけでも経費で落ちるわけでもないのに少し錆びた椅子に座って安い酒をあおりいい女に声をかけるのが定番だ。食事処は時々見かけたが居酒屋もカフェもあまりない。これだけ活気の溢れる市場があれば男が酒を飲む場も充実していると思ったが、何か事情でもあるのかもしれない。
 朝廷魔術師を探すのは諦めて一度食事処に入る。昼時で混んでいたもののひとりぶんの席を無事に確保した。定職を注文して店内を見渡す。殆どがおそらく市に関わる人間。あとは旅人。魔術師や騎士団の類はいないようだった。ノーマン市は栄えているものの未だ市となってから年月が浅いからか、騎士団はおらず街ごとに有志の警備団がいるのみだ。グレイの情報は届いていないことを願うしかない。
 けれどグレイを指名手配するとしてどんな罪状で裁くのだろう。改めて思うと、グレイは何をしたのだろう。
 コンピューターウイルスを作った。朝廷魔術師にそのウイルスを修正パッチに仕込ませようとした。修正パッチの配信は毎週月曜日の朝九時。グレイと魔術師は月曜日の朝六時、政府の情報部に侵入しウイルスを仕掛けようとした。しかしそこには既に魔術師の密告により政府の人間がいた。マリアの亡霊が今更出張ってくるなと言われた。そうしてグレイは惨めに逃亡した。
 コンピューターウイルスを作成しそれを修正パッチに混入させようとした。しかしそれも未遂だ。この時代、あのグレイ市で誰もウイルスの作成をしないし修正パッチに混入させようなんて考えないから、法律で規定されてもいなかった。罪を犯したとは言い難い。
 勢い善く膳が置かれる。揚げたばかりの天ぷらがぱちぱちと音を立てている。ひとりでこんな食事にありつくことに申し訳なさを覚えながら、そういえば木の実や果物は食べられるようになったものの、天ぷらなんて胃を壊したりしないだろうかと思い留まる。
 サプリメントは確かに人間に必要な栄養を過不足なく与えて健康を一律に保ってくれる。けれど歯は使わないから脆くなり、顎も弱くなり、消化器官はひたすら無意味だ。美味しいもまずいもない。食べやすいもアレルギーも何もない。食事とは一種の娯楽であった筈なのに家族を繋ぎとめるひとつの文化であった筈なのに、それがパタリと途絶えた。
 サプリメントを決まった時間に決まった量のむ。
 外で食事をしてきた旦那を怒る妻も、お菓子の食べすぎで夕食が入らないで母親が手つかずの料理を捨てるのを、申し訳なさそうに見る子供もいない。何もいない。誰もいない。そんな世界で生きていることはたまらなく不幸に思えるのに、不幸だと感じたのは姉だけだった。
 天ぷらを食べる。一口目は油とさくさくとした音と熱さばかりが口内を犯して味は善く判らなかった。二口目でようやく天ぷらの中身が肉だと知った。これは鹿か何かだ。少し癖がある味で好が分かれるのだと聞いたことがある。
 ヴィクターがいない今改めて振り返ってみる。彼が視界に入るとどうも考え事が進まなくなる。彼の境遇や過去の方が自身の過去よりも興味深いからか、彼のことしか頭になくなってしまう。魔術師につくられた彼。ひとりで生活していた彼。魔術師は彼を捨てたのか、彼が逃げたのか。ヴィクターは聞いても何も語ろうとはしない。魔術師の名はマリア。それ以外には強情に口を割らなかった。 いけない。過去のことを考える。またヴィクターのことを考えてしまった。
 政府の人間はグレイをマリアの亡霊と称した。なんて的確なのだろうと場を弁えずにしみじみとしてしまうほどに、グレイは亡霊だった。姉の意思を受け継ぎ、姉の為だけに行動する。 そもそもグレイの意識は、感情は、思考は、生命活動の根源さえ、全て姉に帰属している。わたしという存在は彼女なしでは本来生きることなど出来なかった。
 ならば何故私は生きているのだろう。
 箸を止める。ヴィクターが自分のことをあまり語らないのは、語りたくないからであると同時に語れないからでもある。その感覚をグレイは理解できる。
 他者から与えられた肉体。他者からもらった意識。それははたして自分なのか。自信を持って自分の人生として語れるものなのか、わからない。与えられたすべてを自分のものと思えない、わたしがどこにいるのかわからない虚無感。彼とグレイはそういう点で善く似ている。
 天ぷらが単品でお持ち帰りできるようなので二つ包んでもらって食事処を出る。朝廷魔術師がグレイ市の情報を何処まで掴んでいるかくらいは確認して帰りたい。グレイはコンピューターウイルスをつくるまでは出来る。しかし政府は配信する修正パッチの構築の過程で魔術師の複製能力を頼っているらしく、魔術はてんでだめなグレイにはパッチのプログラムに手を加えることができない。はぐれ魔術師ではだめだ。朝廷魔術師なら修正パッチの編集に携わったことがあるものが殆どだからウイルスを仕込むことも造作ない。役場の近くまで足を運んでそれらしい服装の人間を探す。今は具体的な報酬の話をすることができないが、役場前の掲示板にグレイの指名手配などの情報はなかった。想像より事は大きくないのかもしれない。テロ未遂。首謀者は逃亡。その程度なのかもしれない。
 役場の前で馬車が止まる。明るい声と金を払う音。馬車が通りすぎるまでその荷台を見つめていた男が役場の方へと身を翻した時、一瞬のこと、目が合ったように感じた。
 魔術師だからね。一度関わった人間なら再び逢えば直ぐに気づく。
 彼の言葉だ。少なくともグレイは師にそのようなことは習わなかった、と返した気がする。センスのようなものだからね、君にはないさと切り捨てられたのを覚えている。
 彼はこちらに歩いてきた。それはまあ、そうだろう。ノーマン市までは知られてはおらずとも彼は共犯であり、密告者であり、兎に角当事者だ。グレイを捕まえて政府に引き渡せば賞金ももらえる。けれど彼は金にはさほど興味を示してはいなかった。だからこそ何故裏切られたのか、不明だったのだ。
「出てきてよグレイ、お話ししよう」
 唐突にヴィクターの顔を思い出す。私を犯したひと。私に優しいひと。夜共に眠るひと。一緒に生活するひと。醜い怪物。
 諦めて倉庫の影から姿を見せる。一ヶ月ぶりと微笑むと、彼も端整な面差しに笑みを浮かべた。
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