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花籠

 二人分のパンを切る。チーズをのせたが燻製を切らしていたので少し物足りず、炒っておいた木の実を散らした。
 水差しの水はもう殆どなくヴィクターが補充しに川に行った。結局あのあと体位を替えてもう一度した。二週間ぶりだったこととそれの激しさの所為で身体が思うように動かないグレイには朝食の準備だけで一苦労で、彼が帰ってくるまで休もうとベッドに横になった。
 姉の写真をベッドの下から取り出す。写真立ても何もないため不慮の事故で敗れないか不安で彼にお願いし本を一冊借りてその間に挟んである。
 彼は長い生活の中で言葉は喋れるし本は難しくなければ読めるらしい。数十年前は未だ近くにひとが住んでいたらしく、読唇により言葉を勉強していたのだという。なかなかスペックが高い。そして何よりヴィクター博士のつくった怪物に善く似ている。彼もそうして言葉を勉強した。読んだ本は失楽園と若きウェルテルの悩み。あと一冊はなんだったか。
 何百年も昔に存在したヴィクター・フランケンシュタイン博士。彼は今では魔術師だったのではないかといわれているが真実はわからない。魔術師は使い魔を生成するとき、何かを材料に自らの魔力を使う。しかし博士は死体などの外部のものを用いて怪物を創り出した。自分は知性以外一切使ってはいない。写真を見ずにまた本にはさむ。
 彼が目覚めたグレイの身体を労って水を汲みに行ってからぼんやりと考えてしまったことがある。ここに居続けるのも悪くないかもしれない。
 ヴィクターは優しい。彼とするのは気持ち善い。食事はサプリメントよりもずっと美味しくて、森の暮らしは彼の支えあってこそではあるがとても楽しい。もともと祖国に不満があったのだからそう思うのも仕方がない。
 あそこには彼のような優しさはない。あるのは無差別無償の易しさだけ。ぬるま湯のような世界だ。
 復讐だってグレイの力では何もできない。前回も小汚い方法で貯めた金で雇った朝廷魔術師の力が必要不可欠だった。一度は全て自分でしようと魔術師を志したが、あまりにも才能がなかった。
「頭は悪くないのですがセンスがあまりにも」
 かつて師と仰いだ魔術師の評価だった。如何すれば何ができるかも頭に全て入っている。記憶力はとてもよかった。けれど実践では何もできなくなる。結局ペーパーテストでは一位だったが実技が最下位で卒業さえ出来なかった。才能がない。センスがない。その一言に尽きる。
 ひとりでは何もできなかった。今から魔術師を雇い復讐をしたとしても、確実にグレイは逮捕され処刑される。
 彼が優しいからこの二週間何度もちらついていた。昨夜のことで考えずにはいられなくなった。
 ここにいた方が全てがうまくいくんじゃないの。
 祖国にとっても、グレイにとっても、ヴィクターも自意識過剰でなければグレイの存在を喜んでくれているようにみえる。ここにいれば誰も傷つかない。グレイも逮捕され死ぬこともない。
 グレイを起こすヴィクターの手のひらに思わずずっとここにいても善いかと聞きそうになった。
 けれど穏やかな生活を望むたび、彼の優しさに触れるたび、姉の顔がちらつく。
 姉と約束をした。彼女の意志を継ぐと、彼女の計画を遂行させると。
 姉にだけは、約束なんて知らないなんて言えない。
 足音が聞こえて上半身を起こす。小窓から覗きこむとヴィクターが帰ってきた。重たいからだに鞭を打ってベッドから降りると準備しておいたパンをフライパンに並べて火にかけた。こういうとき魔術師だったら指をふるだけで火を生成できたのに、センスがないなんて言葉で終わった、華やかな職に就いた未来のグレイがあまりに可哀相だ。
 ヴィクターが帰ってきて水差しを置く。一度は交代制で水を汲もうと提案したのだが、情けないことに重たくて水差しを持ち上げることも出来なかった。そして魔術師だったら指をふるだけで運べたのに、と考える。
「チーズが溶けたら朝ごはんだから」
 だからもう少し待っていて、の意だったのに彼は後ろでうろうろとフライパンを覗き込んでいる。
 ヴィクターを観察する。思えば観察という目で彼を見ることはあまりなかった。今朝は流石にグレイも満たされているので視線も彷徨わない。使い魔の種類としては下級の存在だが、そのなかでみるならヴィクターはそれなりに上質な魔力で生成されている。魔術師の腕が善かったのだろう。その分怪物としての不快感は煽られるが、共に過ごしている間に殆ど感じなくなった。彼は魔術師の名をマリアとしか教えられていなかったようだが、腕の善い女性の魔術師ならそこそこ割り出せる。割り出してもどうにもならないのだが、やはり気になってはしまうもの。視線に気づいてグレイを見返した。目が赤い。あの眸に見つめられると悪意がなくとも竦んでしまう。
「きのう、どうした」
 彼の長年の生活により身につけた言葉も彼の努力があってこそではあるが、上等な魔力が影響している。けれど今ほど何故彼は言葉を話すことが出来るのかと憤りを覚えたときはない。
「……ヴィクター、最初に逢った時、貴方突然私に襲いかかって来たの憶えてる?」
 現れてから多少のモラトリアムが発生し突然襲いかかってきたわけではないがそれは善い。結局彼は抵抗するグレイを抱いた。
「おぼえ、てる」
 悪びれもない。
「抱きたかったのでしょう?」
「そう、」
「一回すれば男は満足するものなの? つまり、あの日から二週間一緒にいたわけだけど、そのなかで私を抱きたいって思ったこと一度もなかった?」
 少し言葉が長くなると途端噛み砕くのに時間がかかるヴィクターを待っている間に皿にチーズの溶けたパンを盛る。席につくとヴィクターも向かいに座った。
「抱きたい、はある」
 食事の前の話題としては失敗かもしれない。水を準備し忘れていたので汲まれたばかりの水差しをゆっくりと傾けて二人分の水をいれる。重たいので手が滑らないかいつもどきどきしている。
 彼に水を手渡す。既にお皿からパンが消えていた。「なんで抱かなかったの」
 初めてパンに手をつける。火を通さないと硬くて噛むのにとても時間がかかる。チーズと木の実をこぼさないように細心の注意を払っている間ヴィクターは理由を考えているようだった。
「いつでも、抱ける、グレイ、は忙しい、」
 グレイは忙しそうに見えて、いつでも抱けるから待ちきれなくなったら抱けばいい。それまでは待つ。そういう意らしい。それなりに筋が通っているけれど昨日の今日でなければいつでも抱けるの部分に全力で否定したかった。パンを飲み込む。折角のチーズも味が判らなくなっていた。
「じゃあたぶん、私が待てなかったのよ。私が抱かれたくて、手を出してもらうのを待てなかったの。いっとくけどあんなことしたのは昨日が初めてで貴方が寝てから毎日あんなことをしてたわけではないから」
「うん、」
 ヴィクターの視線が真っ直ぐすぎて退散する以外に逃げようがなかった。おそらく言っていることは把握していないだろう。水を飲み干して食器を水を張ったボウルにつける。
 ヴィクターの首筋に鼻を寄せた。草の匂い。
「…ヴィクターがしたくなったら、してね」
 彼の手が腰を撫でる。夜のはなしよと付け足してその手から逃げた。沓を履く。背中で欲求不満の獣の唸り声が聞こえた。
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