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花籠

 例えば白馬の王子さまを絵に描いたような男だ。
 手の甲と頬に一度ずつキスされたことがある。びっくりはしたがどきどきはしなかった。だからグレイと彼はそういった関係には至らなかった。そして一度至らないとグレイはとことん至れない性格をしている。それが救いだった。
「今まで何を?」
「逃亡」
 彼が案内した喫茶店には多くの魔術師と旅人が集まっていた。成程、客を選ぶというわけだ。ここにこれば朝廷魔術師を勧誘できる。彼は好かないがその情報だけでも僥倖だった。苦いコーヒーが喉を滑っていくばかりで味わいも深みもよくわからない。グレイは未だ大人ではないのだ。
「ああ、僕が裏切ったから」
 コーヒーカップを置く。陶器と陶器がぶつかって金切り音をたてた。
「冗談で言ってるのなら笑えないわ」
「君を傷つけてしまったのなら謝るよ」
「貴方の謝罪に価値はないわ。それとももう一度私に協力してくれる? それなら私も貴方を赦せるかもしれない」
「それは無理かな。僕一応は作戦に協力した身だから政府お抱えの魔術師に呪いを施されちゃったし。残り二年半はろくに魔術も使えないしね」
「あら可哀想、でもそれくらい密告する前に判ってたんじゃないの? いくら積んでもらったのかしら、私相当頑張った金額だったのだけど」
 あの日のことなどなかったように、彼は掴みどころのない飄々とした態度で笑っていた。グレイも口を開けば笑い声こそ漏れるが、大して楽しい会話でもない。根本的に相容れない関係にあることを理解している。彼は兎角飄々とひとを惑わすタイプの人間だ。そういう人間が好むのは頭が固くて真面目な女の子と決まっている。グレイが好きなのも彼のように捉えどころのない人ではなく、優しいあたたかいひとだ。仕事に男女のはなしを持ち込まなければ善いのにどことなく恋愛至上主義が滲み出てしまったあたり、互いに未熟だ。
 コーヒーを煽る。これを飲み終わったら帰れるのだと思うと、ブラックでもなんでもたった200mlくらい飲み干してやろうという意気込みだったがいざ飲んでみれば苦い。ちびちびと量を減らすので精いっぱいだった。
「お金じゃないんだよなあ。いやうん、お金なんだけど、グレイに雇われたのは」
 彼は喋るばかりで眼前のコーヒーに手をつけなかった。角砂糖を六個も入れながらかきまぜることも飲むこともしない。若しかしたらこのままコーヒーが冷めるまで粘るのではというほどによく喋る。
 外は太陽が善く見えてさんさんとしている。今裸足で歩いたらさぞ気持ち善かろう草花の広がる地面はグレイ市とは全く異なるものだった。隣の市がこんなに違うとは思わなかった。ノーマン市はもっと隣の未来都市の影響を受けて医療と科学の発展に尽力を尽くしより寿命を長くし健康でいることを中心に考えていると思っていたのに、あまりにも平和で人々の営みは絶えることを知らない。
 彼はグレイの髪を指先に絡めながら、言い訳するように甘い声をだした。
「君のしていることは間違っている。君の死んだお姉さんはこんなことは望んでいない、みたいな?」
 耐えきれずに笑いだした。彼も喉を鳴らしている。ふたりの乾いた笑い声だけが響いている。
 彼の冗談で笑ったのは初めてかもしれない。
 ひとしきり笑うと呼吸を整えた。息切れするほど笑ったのなんて初めてかもしれない。
「死んだ人間のこと引き合いに出さないでくれる? 姉は死んだ。彼女の気持ちなんて今更判らないし、死者は何の感情も憶えない。そもそも私がしたくてすることに対してお姉さんが望んでないよっていうのは違うのではないかしら。
それってつまり自分が人生苦しくて死んだら楽になれるから自殺するのに、死んだら両親が悲しむぞっていうひとくらい腹が立たない? 自分のために生きるのは赦されて、自分のために死ぬのは赦されない。自分のために自分が出来ることは死ぬことだけなのに、そこまでの心境で他人のことを考えましょうねーなんて冗談じゃない、って思ったことない?」
「ないねえ。今は他人のことを思いやるのが当たり前の時代だから」
「そんな時代を気持ち悪いと感じたのよ、姉は。私もお姉ちゃんとおんなじ。最近のひとは空間を把握する能力が低下しているからかしら、一次的幸福責任と二次的幸福責任をごちゃまぜにしている」
「まあ君が諦めていないのはわかる」
 彼はコーヒーに一口も口つけないまま立ち上がった。そうしてグレイの前にたつ。
「二年半して、君がまだ諦めてなかったらそのときは無償で協力し様。今度は裏切らない」
「どうして――」
 一度は裏切ったのに。
 彼を見上げようとした首から上がめっきりと固まる。彼の仕業だと直ぐにわかった。ひっそりと、彼の唇が重なった。
 ヴィクターが私の初めてを奪った男なのだとしたら、彼は私の初恋だったのだろうか。
 唇が離れる。身体の硬直が解けると、彼の腹に靴底をねじ込んだ。低いうめき声が聞こえる。
「魔術使えるじゃない。どうせ封印を相殺したのでしょ」
 へらりと笑う。彼、彼のふざけたあだ名を思い出せない。魔術師は基本的に真名がばれるのを避ける。あだ名さえ思い出せないのは、彼との契約が完全に途切れている証だった。
「がんばったんだぜ?」
 腹を押さえながら何らかを唱える。これだから魔術師はいやだ。痛いのも哀しいのも直ぐに忘れられる生き物だ。これだからいやだ。自分のことを簡単に忘れてしまえるから、他人の痛みにも気付かない。
 わたし貴方に裏切られて、確かに、かなしかった。
「かつて学校では子どもの頃は結果よりも努力が重視された。失敗したけど頑張りました。頑張ったから善いじゃないが通用した。大人になったら逆ね。努力よりも結果。頑張る必要なんてない。努力の程なんてくだらない。ただ結果さえ残せば善いのよ。まあ貴方は結果を残してきたのでしょうけれど」
 席につくように促したけれど彼は座らなかった。コーヒーを飲む手を止める。どうやら彼が先に帰るようだ。
「貴方は腕がいい。お金も持ってた。そもそも私を裏切る理由の前に、私の計画に手を貸す理由もなかった」
 古き良き時代、愛した男の為に死ぬ女がいた。愛した女を死なせまいと逃がす男がいた。雪が降る夜の話だ。死というものに無様も美しいもないが、その物語を人々は美しいと讃えた。グレイも美しいと思った。
 今の時代、私たちは好きでもないひとのために死ぬことができる。彼が望んだから、彼の為、それが優しさ、そういって首を括ることができる。優しさは静かに音を立てて消えていった。
 ほんものの幸せの数を、数えることすら出来なくなっている。
「そうだね」
 何度も考えを話した。計画を共に成す者にはそれが最大の誠意だと思ったからだ。彼は何度も成程といった。肯定でも否定でもなく、ただ成程と。
「貴方の考えていることはわからない。まるで私の必死の計画さえ玩具にしているようだわ」
 彼はグレイの言葉に応えることなく、テーブルに懐かしい鞄を置いた。こんなもの持っているようには見えなかった。だから魔術師はいやだ。魔術は封印されたと嘯いたところで、腕のある魔術師が自身より力のない者に向けられた魔力結晶など望まずとも消えてしまう。
 だからこそ彼の腕は信頼に足るものだった。彼がいたら確実にウイルスの入った修正パッチは市民に配信されただろう。
「君からの信頼を取り戻すために、これは返そう」
 鞄をつついてみる。中にはグレイが集めた金が詰まっていた。手はつけていないだろう。
「こんなので済むと思って?」
「二年半後また会おう。まだ君が諦めていないなら、その時は今度こそ協力する」
 真意が判らないまま、伝票を抜いて彼は囁いた。
 その言葉を聞きながら、ぼんやりと未だ伝票なんてものを使っているのだと彼の手先を見ていた。真白い外套が風もないのに揺れて遠ざかっていく。彼はいつ見ても、一人で生きているような掴みどころのないひとだった。掴めないひと。掴まれたくなくて、触れてみたら案外中身は枯骨かもしれない。
 コーヒーに砂糖を入れる。彼の前では強がっていたものの、ブラックで飲めるわけはなかった。檀善美味しくなったコーヒーを飲み干して、鞄を持って席を立つ。とりあえず直ぐに鞄を買って金を移し替える。彼は金に手はつけないだろうが、鞄に細工をする可能性もある。店を出ると数名の魔術師とすれ違った。
 彼の囁きを思い出す。何でもお見通しの男だ。
 でもねえグレイ。
「コンピューターウイルスは君じゃないの」
 …あたり。鞄がずっしりと重い。こんなものを持って帰ったらヴィクターは驚くだろうか。けれど置いて行って誰かに寄付できるほど聖人ではない。
 取り敢えず今日はもう帰る。誰もグレイのことは知らない。魔術師はいつでも探せる。もう疲れた。
――二年半後逢おう。
 彼も、おそらく政府ももう知っているのだろう。グレイの寿命はあと二年半。彼を二年半拘束しておけばそれで終わると思っている。
 足を止める。政府はおそらく彼とグレイが接触したことに気付いていない。彼もどうやらヴィクターのことは知らないようだった。けれど逢ってしまった。後を辿られる恐れもある。
 魔術師ならヴィクターをどう処理するのだろう。もう帰らない方が、善いのかもしれない。鞄を持っていない手の天ぷらとお菓子の重さが伝わってくる。大事なものなどつくってはいけなくて、あそこには取りこぼしてしまったものだらけだ。鞄を置いて指で唇をなぞってみる。ヴィクターとはキスしたことなどなかった。息を吐き出すと呼応するように泪が零れてきた。何に対してかは判らないが、富めどなく溢れて来る。
 太陽が地面を照りつけている。まばゆいくらい春だ。おこがましいくらい穏やかだ。
 中途半端に学んだ所為で、仕掛けられていることは判るのに対処のしようがない。センスがあるならペーパーテストなんていけなくても何とかなるが、逆は無理だ。
 仕掛けられている。それが彼かまではわからない。他の魔術師かもしれない。どちらにしてもこのままヴィクターのもとへは帰れない。足を踏み出すと仕掛けられた影が一緒に動いた。自在に動くらしい。逃げ場がない。
 ヴィクターに、何でもない私に帰ってきても善いと言ってもらいたい。けれど彼はそんなことはいわない。
 振り返ると誰もいない。気付かれたことに気づいたのか、影は剥がれて魔術師は退散したらしい。
 帰路に向きなおる。唐突に彼のあだ名がウォルトンだったと、思い出した。
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