とうげんあんき

「も~~京夜せんぱーい、飲みすぎないでって言いましたよね~~」

深夜二時すぎ。
護衛対象である京夜の部屋へ戻ってきたシロコは、一升瓶を抱えて寝転ぶ彼の姿を見て、眉を下げて笑った。

京夜が保健医として羅刹学園へ赴任し、一週間が経過した。
同期と久しぶりに顔を合わせて話せる喜びから、焼酎を片手に京夜が無陀野を強引に部屋へ招いたのは、今から約三時間ほど前の事だ。

「ほら、お水ですよー。飲めるかな~?」

そして。
シロコの予想通り──結局、京夜が潰れるいつもの結末を迎えていた。

抱きかかえるようにして座らせた京夜の口元へ、ストローを差し込んだペットボトルの水が運ばれる。
隣では、京夜と同じペースで飲んでいながら、全く表情の変わらない無陀野が黙って様子を見ていた。

「まったくぅ……無陀野先輩といると、京夜先輩ってば完全に気ィ抜いちゃうんですよね〜」

「酒が弱いのは元々だろ」

シロコのぼやきに、無陀野は無機質に返す。

「そーですけどぉー、それだけじゃないっていうかー……酔い方、全然違いますもん」

「……」

「やっぱり仲の良いお友達の前だと、ついつい緩んじゃうんでしょうね~♡」

そう言いながら、彼女は指先で優しく、京夜の額にかかる髪を払ってやった。

「たまにでいいんで、またお酒付き合ってあげてください。こうやって無陀野先輩に甘える時間が、この人の息抜きみたいなものなので」

無陀野は視線を落とす。
京夜は酔って寝息を立てている。安心しきった顔で、笑ってすらいるようだった。

「……俺から見れば」

「はい?」

「こいつは、お前にも充分甘えている」

その言葉に、シロコは一瞬目を丸くしたあと、くすりと笑った。

「……ほーんと、無陀野先輩って優しいですよね〜♡」

「……」

「──無陀野先輩も、京夜先輩も。……一応、真澄先輩も。優しい先輩に恵まれて、私は幸せ者です」

彼女の言葉は軽やかで、でも芯があって、そっと夜の静けさに溶けていく。

「……呑み切る前に京夜が寝たからな。暦、少し付き合え」

「は~い♡喜んで」

返事をしながら、シロコは慣れた手つきで京夜の頭に枕を差し込み、彼が外したアクセサリーを小皿にまとめる。
枕元にはペットボトルの水を置き、ブランケットを丁寧に首元までかけた。

「よし……っと。これで安心です♡」

制服のスカートをひらりとなびかせながら、シロコが無陀野の向かい側に腰を下ろした。
無陀野が持ち上げるたグラスが、カラン、と小さく氷の音を鳴らす。

「お疲れさまです、無陀野先輩」

「ああ」

コトリ、と焼酎のグラスが触れ合う。
夜更けの灯りだけが、静かな部屋に揺れた。

ふぅ、と息をついたシロコはグラスを傾けながら、ふと思いついたように口を開いた。

「そういえば、京夜先輩って……酔っ払っても、無陀野先輩にだけは"ほっぺちゅー"しませんよね~」

無陀野は少しだけ視線を横に寄せる。

「……したら殺すつもりでいるからな」

シロコは思わず吹き出しそうになって、口を手で覆う。

「っふふ、やっぱりそうなんですね~~♡"ここだけは踏み越えたら命がない"って、京夜先輩の本能が警鐘鳴らしてるんだ……」

「あいつの生存本能だな」

「ははっ♡生存本能に守られてる友情って…!」

ふたりは一口ずつグラスを傾ける。京夜の寝息が、背景のように静かに響いていた。

グラスが、コツ、とテーブルに戻される。

「……でも、ほんとに。先輩方とこうして、夜にお酒飲めるようになったって考えると、"私、ずいぶん大人になったな~"って思いますー」

「……服装と言葉に矛盾が生じているぞ」

「いいじゃないですか~♡実年齢はちゃんと立派な大人ですし!」

「だったらいい加減、その制服をやめたらどうだ」

「い〜や♡これは魂の問題です!無陀野先輩でも止められませんよ~♡」

またしても軽口が飛び、会話は途切れそうで途切れずに続いていく。

無陀野とシロコの間には、心地よい沈黙と、それを壊さない程度の軽い笑い声が漂っていた。







「んん~……」

そんな声と同時に、気の抜けた気配が漂ってくる。
シロコと無陀野がグラスを傾けていた背後で、もぞもぞとブランケットが動いた。

「……あれぇ? シロちゃんだ~~~♡」

振り返ると、寝癖をつけたままの京夜が、締まりのない笑顔で上体を起こしている。

「京夜先輩?起きたんですか~?」

シロコが声をかけると、京夜は焦点の合わない瞳を細めた。

「え~?なに~ふたりでなにしてんのぉ~?」

ぽや~っとした表情のまま、おぼつかない足取りで、彼は吸い寄せられるように二人の元へと寄ってくる。

「こらこら~、酔っ払いの先輩はもう寝ててくださーい」

「えーやだー。ずるいじゃーん。俺も混ぜてよぉ」

京夜は子供のように唇を尖らせると、無理やり彼女の隣へとポスッと座り込んだ。

「……酔いが抜けてないな」

無陀野が呆れたように、短く吐き捨てる。

「ですね……」

苦笑するシロコの袖を、京夜がぐいぐいと引いた。

「シロちゃ~ん♡ なんか飲むやつある~?」

「はいはい、お水ですよー。アルコールはダメでーす♡」

差し出されたペットボトルを、京夜は疑うこともなく受け取る。促されるまま、素直にストローから水を吸い込んだ。

「ん~、でも……なんかいいなぁ、こういうの~」

ひと心地ついたのか、京夜はトロンとした目で二人を交互に見つめる。

「シロちゃんとダノッチがいてぇ~、こーやってお酒飲んでんの、嬉しくなるよ~。あーー……まっすーもいたらなぁ~……」

「そーですねぇ~♡」

「……」

無陀野は何も答えず、手元のグラスをテーブルに置いて、深く重いため息をついた。
そんな反応など気にする様子もなく、京夜はシロコの顔を覗き込む。

「ふふっ、ねぇシロちゃん、俺ちゃんと起きたよ? えらくない? ごほーびちょーだい♡」

「は~い、じゃあトクベツに……なでなでです♡」

「……ふふ~ん……さいこ~……」

ぽふ、と柔らかく頭を撫でてやると、京夜は満足げに目を細めた。
そのまま電池が切れたようにシロコの肩へと頭を預け、再び規則正しい寝息を立て始める。

「……」

「はぁ~~~~~~……可愛い……♡♡♡」

完全にとろけきった顔で、シロコが感嘆の吐息を漏らす。
その横で、無陀野は静かに、そして二度目のため息を落とした。

「……甘やかしすぎだ」

「えーーー?だってぇ」

言いながら、シロコはその手を止めない。
眠る京夜の髪を、解くように、慈しむように、そっと指先で梳いていく。

「──こうやって、素直に私に甘えてくれるの、酔った時だけなんですもん」

愛しそうに目を細める彼女の横顔を、無陀野は黙って見つめていた。

「……難儀だな、お前たちは」

「? なにか言いました?」

「独り言だ」

無陀野はそれ以上追求を許さないように、再びグラスを傾けた。
透明の液体が喉を通る音だけが、静かな部屋に響く。


──静かで、温かくて、少しだけ重たい"信仰”が、夜更けのテーブルの上に、積もっていくようだった。







夜も更け、無陀野が静かに部屋を去ったあと。

布団まで運ばれた京夜は、穏やかな寝息を立てているように見えた。
けれど、たまに微かに眉を動かしたり、小さな寝返りを打ったり──深く眠っているのか、それとも意識の端っこが起きているのか判別のつかない曖昧な状態だった。

シロコはそっと掛布団の端を直し、寝顔を少し眺めてから静かに立ち上がった。

「じゃあ、私はシャワー浴びてきますね〜……京夜先輩はぐっすり寝てくださ──」

不意に伸びてきた腕が、シロコの手首を掴む。

「──えっ」

驚きに目を見開く彼女を余所に、熱を帯びた指先が、そのままぐいっと力強く引き寄せた。

「ちょ、京夜先輩?」

返事はない。
ただ、抗う間もなく身体が宙を舞い――。

「──わっ!」

吸い込まれるように、シロコは布団の上へと倒れ込んだ。

至近距離。
目の前には、ぼんやりと蕩けたように笑う京夜の顔があった。

「……もぉ~、離れちゃだめじゃん~……」

完全に酔っ払った、甘えきった声。
顔も、吐息も、触れそうなほどに近い。それどころか、彼の腕は既にシロコの首に回されていた。

「…………っ」

心臓が跳ねる。

けれど、シロコはすぐにいつもの調子を取り戻して笑ってみせた。
その表情には、まだ『護衛』としての余裕と隙のなさが張り付いている。

「…ふふ~♡京夜先輩、今日はすっごい酔ってますね~」

宥めるような言葉。
しかし、京夜は腕を解こうとはしなかった。

「シロちゃんは~俺から離れちゃだめなんだよぉ~…?」

「……も~、離れませんよぉ?だから、京夜先輩――」

言葉の途中で、ふらりと、京夜が身を乗り出す。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。

「…っ」

頬のすぐ横。

耳朶に触れそうなほど近い場所で、京夜の熱い吐息が止まった。
吸い寄せられるように近づいた彼の唇が、頬まであと数ミリというところで、震えるように静止する。

ふたりの間に、心臓の音さえ聞こえそうなほど、鋭い静寂が落ちる。

「……あー、やっば……」

京夜が、くしゃっとした照れ笑いを浮かべながら、片手を額に当てた。
そのまま、ずるりと力なくシロコの肩へと顔を埋める。

「今の……やべ、やっちまった…………酔ってるなぁ、俺ぇ…」

「…………」

シロコは、声が出なかった。
頬に触れたのは、唇ではなく、彼が吐き出した熱い呼気だけ。

それなのに、触れられた場所が火傷をしそうなほど熱く、ズキズキと脈打っている。

「……ごめんねぇ~……ほんと。する気なんてなかったんだよぉ……」

京夜はへらへらと力なく笑いながら、抱きついたまま言葉を零す。

「……あー…シロちゃん……ぬくい………」

そのまま、甘えるように首筋に鼻先を押し当て――しばらくして、穏やかな寝息が耳元で聞こえ始めた。

取り残されたシロコは、ぼんやりと、まだ熱の残る頬を指先でなぞった。

彼が、"なにかをしそうになった"という事実だけで、脳内が真っ白に塗りつぶされていく。

「……もー。……明日には忘れてるくせに……」

ようやく掠れた声で呟く。
でもそれは、いつもの冗談のような軽さは微塵も含まれていなかった。

「……ほんと、そういう所はずるいんですよね……京夜先輩って……」

ぼやきながらも、回された腕を外すことはできなかった。

『護衛』の仮面が剥がれ落ち、真っ赤に染まった顔を隠すように、シロコはうつ伏せになってシーツに顔を埋める。
うるさいほどの心拍数をごまかすように、ぎゅっと目を閉じた。

その隣で、京夜は何も知らないまま、幸せそうな寝顔で眠り続けていた。


──明日、この人はきっと、何も覚えていない。

それでも、彼の隣で、自分が必要とされたことがどうしようもなく嬉しかった。







【おまけ】

昼休み。人気のない保健室前の廊下は、異様な緊張感に包まれていた。

「……あれは、夢じゃない。絶対……絶対に夢じゃない……!」

四季は落ち着きなく周囲を見回しながら、保健室のドアの前を何度も往復していた。

脳裏に焼き付いているのは、今朝未明の光景。
トイレに起き、ぼんやりと廊下を歩いていた彼の視界に、とある部屋から出てくる人影が映った。くしゃっとした寝癖、眠そうに目をこする仕草。

それは間違いなく、"シロちゃん先輩"だった。

(そして、あの部屋は……"チャラ先"の部屋だった……!)

ガラッ、と乾いた音を立てて引き戸が開く。

「あれ、四季くん。どうしたの~? 具合でも悪い?」

のほほんとした声。
そこに立っていたのは、羅刹学園の保健医にして、現嫉妬の対象――"チャラ先"こと、花魁坂京夜その人だった。

「──あっ!!」

四季は弾かれたように顔を上げ、詰め寄った。

「チャラ先!! ちょうどよかった、聞きたいことあんだけど!」

「ん~? どしたどした?」

京夜はいつものようにへらりとした笑顔を浮かべる。

「チャラ先って……その~、シロちゃん先輩と……」

「……?」

「そういう感じ……だったり、するんですか!?」

後ろ手に扉を閉めようとしていた京夜の手が、ふと止まる。

「え? なにが?」

京夜はきょとんとして、小首を傾げる。

「いや、俺、見ちゃったから……! 早朝、チャラ先の部屋からシロちゃん先輩が出てくるとこ……!!」

「あ~~……」

その言葉を聞いた瞬間、京夜の表情に「なるほどねぇ」という納得の色が浮かんだ。
彼はくすっと喉の奥で笑うと、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

「……どうだろうねぇ♡」

「やっぱりかよおおおおおおおお!!!!!!!」

四季の叫びが廊下に爆発する。

「命がけで守ってくれてるから手ェ出さないっつってたのは!? あれ嘘だったんか!? いやらしいな!? 大人ってこえーな、おい!!!」

「え~? 嘘じゃないんだけどなぁ?」

喚き散らす四季を前に、京夜は余裕の笑みを崩さない。

「ぜっっったいなんかしただろ!? あのシロちゃん先輩相手に何ッッもないわけねえ!!!!!!!」

「あはは♡ まあまあ、シロちゃんに見つかる前に落ち着きなよ~?」

ひらひらと軽やかに手を振りながら、京夜はそのまま廊下を歩き出す。

「くっそ!!! くっっっそ!!! うらやましすぎる!!!!!! 死ね!!!! チャラ先死ね!!!!」

「やだなぁー俺、まだ死にたくないなぁ~い♡」

廊下に響き渡る断末魔のような嫉妬の叫び。
それを涼しい顔で受け流す保健医の背中は、午後の日差しに溶けるようにして遠ざかっていった。









ふわふわと意識が浮いていた。

熱っぽい頭。うるさくなる鼓動。
酒でぼやけた瞼の裏に、時々フラッシュみたいに過去が差し込んでくる。

──流れる血。

──折れた仲間の腕。

──戦場の土の匂い。

(……いや、いまは違う)

(ここは学園で。布団で。静かで。あったかくて……)

その"静けさ"のすぐ隣に、確かにいた。

自分を呼ぶ、小さな声。



「──京夜先輩」


(……あぁ、やっぱり)

(シロちゃんだ)

(この声は、絶対に間違えない)

傍から離れようとしていた気配が、ふっと遠のくのがわかった。
それが嫌だったのか、酔いのせいか、それとも、もっと別の"なにか"だったのか──

手が、勝手に伸びていた。

「──わっ!」

落ちてきた細い体。

あったかい。
ふにゃっと柔らかい。

「……もぉ~、離れちゃだめじゃん~……」

そう言った自分の声が、自分でもびっくりするくらい子どもみたいだった。

でも、言葉は止められなかった。

「シロちゃんは~俺から離れちゃだめなんだよぉ~…?」

(ほんとに。ほんとにそう思った)

(この温度が、声が、香りが)

(離れていく事が、)

──怖いんだよ。

ぼやけた視界の先、困ったように笑うシロちゃんの顔があった。
その白い肌が、夜の闇に溶けてしまいそうで。

(……あぁ、だめだ)

理性の鎖が、酒の熱でどろどろに溶けていく。気づけば、体が勝手に動いていた。
吸い寄せられるように、彼女の頬へと顔を寄せる。

「……っ」

シロちゃんの息が止まったのが、肌越しに伝わってきた。

あと、数ミリ。
唇が触れるその直前で、我に返る。

(……馬鹿か、俺は)

(この子は、俺を、守ってくれる子で)

(俺が、守らなきゃいけない子)

寸前で止めた唇のやり場に困って、そのままずるりと、彼女の細い肩に額を預けた。

「……あー、やっば……」

心臓の音がうるさすぎて、耳が痛い。
誤魔化すように、照れ笑いを浮かべながら、片手で顔を覆った。

「今の……やべ、やっちまった…………酔ってるなぁ、俺ぇ…」

(本当は、酔いのせいだけじゃないって分かってるのに)

「……ごめんねぇ~……ほんと。する気なんてなかったんだよぉ……」

(本当は、ずっと触れたかったのかもしれない)

「………あー…シロちゃん……ぬくい………」

彼女の首筋から伝わってくる、トクトクという鼓動。それが子守唄みたいに、高ぶった神経を優しく撫でていく。

(……あぁ。生きてる)

(俺も。シロちゃんも)

深い安心感のなかで、急激に意識が遠のいていく。
腕の中に閉じ込めた『大切な体温』を離さないように、力を込めたまま。

(……明日になったら、全部忘れたふりをするから)

(だから、今夜だけは──)

重い瞼を閉じる。
最後に聞こえたのは、戸惑ったような、でもどこか愛おしそうな彼女の吐息だった。
8/10ページ
スキ