とうげんあんき
夜更けの部屋に、微かな声が響いた。
闇の中で、ひとりの身体が小さく震えている。額には汗がにじみ、握りしめた手は白くなるほど力が入っていた。
「……やだ……っ……やめて……!」
夢の中の声とは思えないほど切羽詰まった叫びだった。
息が乱れ、眉間に深い皺が寄る。シロコは、暗い夢の底で“何か”から逃げていた。
夢の中に広がるのは、血に濡れた床。そして、視界の中央に倒れている白衣の背中。
伸ばした手の先で――
もう、返事をしない。
「……京夜先輩……っ……行かないで……!」
次の瞬間、シロコはびくりと全身を跳ね上げた。
荒く息を吐きながら、天井を見上げる。胸が上下し、空気を掻き込むように呼吸を繰り返す。額に張りついた前髪をかき上げ、片手で目元を覆った。
「……また、だ……」
乾いた声がこぼれる。
暫くの沈黙のあと、布団の脇へ手を伸ばしペットボトルの水を口に含む。
冷たい水が乾いた喉を通る。それでも、指先の震えは止まらない。
シロコはそのまま布団の端で膝を抱えた。タンクトップ姿の肩が、小刻みに揺れている。
「……あのとき、私が行かなきゃって……」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「被害を抑えるには……正しい判断だったって……何度も言い聞かせてるのに……」
「でも、あのとき……もし本当に、死んでたらって思うと……」
言葉が喉の奥で止まった。
「……怖いです……苦しいんですよ、京夜先輩……」
静かな部屋の中で、背中がかすかに震えた。
・
・
・
『私、これから夜間はここで過ごしますね~♡』
いつもの笑顔でシロコがそう言って押しかけてきたのは、4日前のことだった。
「え、同じ部屋で?」と流石に躊躇した京夜だったが、シロコはへらへらとした表情とは裏腹に、断固として譲らなかった。
結局、襖を挟んだ隣の部屋で寝るからとシロコに押される形となり、就寝時は京夜の部屋で二人で過ごすことになったのだが――。
灯りの落とされた一室は静まり返っていた。
障子の向こうから虫の声が遠く聞こえる。夜の空気が、わずかに湿り気を帯びて漂っていた。
襲撃により壊滅状態となった京都支部が建て直されるまでの間、京都の鬼機関は協力者が提供した古い旅館を拠点としていた。
布団の上、今日もシロコは背筋を伸ばして座っている。
制服のまま、太ももにはナイフ入りのホルスターが巻かれていた。護衛としての姿勢は崩れない。目を閉じ、静かに呼吸を整えている。
これが、4日間続いていた。
隣の部屋のわずかな襖の隙間から、京夜はそれを見つめる。
シロコがこの4日間、ほとんど寝ていない事には気付いていた。それをやんわりと指摘すれば『え~寝てますよぉ』といつもの笑顔ではぐらかされるだけだった。
京夜は暫く黙って見ていたが、やがて襖をあけて静かに声をかける。
「……シロちゃん。ちょっと、いい?」
「京夜先輩?……まだ寝てなかったんですか?」
ぱちりと目を開いたシロコが振り返り、いつもの調子で笑う。
「夜更かし、良くないですよ?」
その笑顔を見て、京夜は少しだけ眉を下げた。
「ねぇ、シロちゃん」
「はい?」
一拍の沈黙。そして、あまりにもなんでもないような、軽い調子で言う。
「今日さ、一緒に寝る?」
空気が一瞬で崩れた。
張りつめていたものが、ふっと緩む。シロコはなにか言いかけて口を開くが、言葉が出てこない。咄嗟に誤魔化すように笑おうとして、
――うまく笑えなかった。
・
・
・
二人で布団を並べる。
京夜はきちんと距離を取って敷いた。触れない、けれど遠くもない位置。
そうして、まるで空気のような優しさで隣に横になる。
天井を見上げながら京夜が言う。
「最近のシロちゃん、ちょーっと疲れてるように見えたからさ」
「……そーですかぁ?」
「うん。俺がシロちゃんの異変に気付かないわけないっしょ?」
笑って横目で見る。そんな京夜を見てシロコは小さく笑ったあと、しばらく黙って天井を見ていた。
暗い室内に、窓から薄らと白い光が差し込み、ほんの少しの距離を開けた二人を優しく照らした。
「……この前の事?」
シロコの睫毛がかすかに揺れる。
そっと隣を見ると、同じようにこちらを見ていた京夜と目が合う。京夜は、どこか困ったように眉を下げて微笑む。
『違いますよぉ』なんて、いつもみたいにへらっと笑って、はぐらかして――
簡単に言葉にできるはずの否定が、今はすぐに出てこない。
少しの間、沈黙が室内に落ちた。やがて、シロコが小さく息を吐く。
「……最近、ずっとなんです。寝ると……夢を見ます」
京夜は何も言わない。ただ、静かに聞いている。
「京夜先輩が、血まみれで動かなくなる夢」
声が、少し掠れた。
それでも、一度溢れたら止まらなかった。
「止められないんです。何度見ても、何度起きても……」
「私…私が、守るって、死なせないって、約束したのに……」
「間に合わなくて、守れなくて……わ、私…私が」
「次…もし本当に、守れなかったら、私――」
「シロちゃん」
静かな呼びかけにシロコの身体が小さく跳ねた。
固い動きで隣を見れば、京夜は少しだけ体を起こした。
京夜の手が伸びる。
「俺ね、生きてるよ」
シロコの手を取り、そっと自分の胸へ当てた。
「ちゃんと、隣にいるでしょ」
「ちゃんと、生きてる」
シロコは言葉を失う。
京夜の胸から伝わる温もり。トク、トク、と規則正しい鼓動。
夢の中の記憶とは違う、本物の"京夜先輩"が、月明りに照らされながらふわりと笑った。
「夢じゃなくて、今ここにいる“俺”を見て。血も出てないし、あったかいっしょ?」
シロコの指先がわずかに震える。唇がかすかに揺れた。
――ああ、生きてる。ちゃんと、ここに居るんだ。
「……あたたかい、です」
「うん。だから、大丈夫だよ」
京夜は自分の胸に添えていたシロコの手をそっと離し、目を細めてシロコの顔を覗き込む。
「ちゃんと隣にいるから、安心して寝ていいよ、シロちゃん」
その言葉で、張りつめていた糸がぷつりと切れた。シロコの瞳がじわりと揺らいだ。
「……ありがとうございます。京夜先輩……」
そう言って、やっと目を閉じた。
小さな吐息とともに身体の力が抜ける。固く強ばっていた背中が、ゆっくりと布団に沈んだ。
瞼の裏の悪夢はまだ消えない。
けれど――
胸に残るこの温もりだけは、確かに彼女を"今"へ繋ぎとめていた。
その夜、シロコはようやく短い眠りについた。
隣で京夜は静かに、彼女の髪を撫でる。
「おやすみ、シロちゃん」
・
・
・
【おまけ】
あれ以来、京夜とシロコは同じ部屋に布団を並べて眠るようになっていた。
深夜。
シロコは静かに目を覚ました。隣の布団へ音もなく忍び寄る。
(……ちゃんと、生きてる?)
顔をそっと京夜の胸元へうずめる。
右耳を当てると――
トク、トク、と確かな鼓動。
(……よかった)
一分ほど、心音を聞く。
それからまた、静かに自分の布団へ戻った。
「………」
暫くして隣から穏やかな寝息が聞こえて来ると、京夜はそっと目を開けた。
(……ほんっと、この子はもう…)
京夜は、最初の夜から全部気づいている。
人の気配には敏い。護衛と一緒に寝るようになってからは、なおさら。
でも――何も言わない。
言えば、シロコはきっと自分を責める。それが分かっているから。
(夜中にこっそり胸元に顔寄せて、安心したらスヤスヤって…)
(いや、いいんだけど。それで安心してくれるなら、どれだけでも『どうぞ』って感じなんだけどさ)
(あーーーー……がんばれ、俺。なんにも考えるな、我慢我慢我慢……)
翌朝。
京夜は布団からのそのそ起き上がる。
ボサボサの髪をかきながら、眠そうに呟いた。
「ねぇ、シロちゃん」
とっくに身支度を終え、コーヒーを淹れていたシロコが振り返る。
「はい?」
「……もうちょっと俺のこと、信用してもいいよ?」
「はい??」
「なんでもな~い♡」
シロコは首を傾げた。
「……?」
京夜はくすりと笑う。
――昨夜のことを、何も知らない顔で。
闇の中で、ひとりの身体が小さく震えている。額には汗がにじみ、握りしめた手は白くなるほど力が入っていた。
「……やだ……っ……やめて……!」
夢の中の声とは思えないほど切羽詰まった叫びだった。
息が乱れ、眉間に深い皺が寄る。シロコは、暗い夢の底で“何か”から逃げていた。
夢の中に広がるのは、血に濡れた床。そして、視界の中央に倒れている白衣の背中。
伸ばした手の先で――
もう、返事をしない。
「……京夜先輩……っ……行かないで……!」
次の瞬間、シロコはびくりと全身を跳ね上げた。
荒く息を吐きながら、天井を見上げる。胸が上下し、空気を掻き込むように呼吸を繰り返す。額に張りついた前髪をかき上げ、片手で目元を覆った。
「……また、だ……」
乾いた声がこぼれる。
暫くの沈黙のあと、布団の脇へ手を伸ばしペットボトルの水を口に含む。
冷たい水が乾いた喉を通る。それでも、指先の震えは止まらない。
シロコはそのまま布団の端で膝を抱えた。タンクトップ姿の肩が、小刻みに揺れている。
「……あのとき、私が行かなきゃって……」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「被害を抑えるには……正しい判断だったって……何度も言い聞かせてるのに……」
「でも、あのとき……もし本当に、死んでたらって思うと……」
言葉が喉の奥で止まった。
「……怖いです……苦しいんですよ、京夜先輩……」
静かな部屋の中で、背中がかすかに震えた。
・
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『私、これから夜間はここで過ごしますね~♡』
いつもの笑顔でシロコがそう言って押しかけてきたのは、4日前のことだった。
「え、同じ部屋で?」と流石に躊躇した京夜だったが、シロコはへらへらとした表情とは裏腹に、断固として譲らなかった。
結局、襖を挟んだ隣の部屋で寝るからとシロコに押される形となり、就寝時は京夜の部屋で二人で過ごすことになったのだが――。
灯りの落とされた一室は静まり返っていた。
障子の向こうから虫の声が遠く聞こえる。夜の空気が、わずかに湿り気を帯びて漂っていた。
襲撃により壊滅状態となった京都支部が建て直されるまでの間、京都の鬼機関は協力者が提供した古い旅館を拠点としていた。
布団の上、今日もシロコは背筋を伸ばして座っている。
制服のまま、太ももにはナイフ入りのホルスターが巻かれていた。護衛としての姿勢は崩れない。目を閉じ、静かに呼吸を整えている。
これが、4日間続いていた。
隣の部屋のわずかな襖の隙間から、京夜はそれを見つめる。
シロコがこの4日間、ほとんど寝ていない事には気付いていた。それをやんわりと指摘すれば『え~寝てますよぉ』といつもの笑顔ではぐらかされるだけだった。
京夜は暫く黙って見ていたが、やがて襖をあけて静かに声をかける。
「……シロちゃん。ちょっと、いい?」
「京夜先輩?……まだ寝てなかったんですか?」
ぱちりと目を開いたシロコが振り返り、いつもの調子で笑う。
「夜更かし、良くないですよ?」
その笑顔を見て、京夜は少しだけ眉を下げた。
「ねぇ、シロちゃん」
「はい?」
一拍の沈黙。そして、あまりにもなんでもないような、軽い調子で言う。
「今日さ、一緒に寝る?」
空気が一瞬で崩れた。
張りつめていたものが、ふっと緩む。シロコはなにか言いかけて口を開くが、言葉が出てこない。咄嗟に誤魔化すように笑おうとして、
――うまく笑えなかった。
・
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二人で布団を並べる。
京夜はきちんと距離を取って敷いた。触れない、けれど遠くもない位置。
そうして、まるで空気のような優しさで隣に横になる。
天井を見上げながら京夜が言う。
「最近のシロちゃん、ちょーっと疲れてるように見えたからさ」
「……そーですかぁ?」
「うん。俺がシロちゃんの異変に気付かないわけないっしょ?」
笑って横目で見る。そんな京夜を見てシロコは小さく笑ったあと、しばらく黙って天井を見ていた。
暗い室内に、窓から薄らと白い光が差し込み、ほんの少しの距離を開けた二人を優しく照らした。
「……この前の事?」
シロコの睫毛がかすかに揺れる。
そっと隣を見ると、同じようにこちらを見ていた京夜と目が合う。京夜は、どこか困ったように眉を下げて微笑む。
『違いますよぉ』なんて、いつもみたいにへらっと笑って、はぐらかして――
簡単に言葉にできるはずの否定が、今はすぐに出てこない。
少しの間、沈黙が室内に落ちた。やがて、シロコが小さく息を吐く。
「……最近、ずっとなんです。寝ると……夢を見ます」
京夜は何も言わない。ただ、静かに聞いている。
「京夜先輩が、血まみれで動かなくなる夢」
声が、少し掠れた。
それでも、一度溢れたら止まらなかった。
「止められないんです。何度見ても、何度起きても……」
「私…私が、守るって、死なせないって、約束したのに……」
「間に合わなくて、守れなくて……わ、私…私が」
「次…もし本当に、守れなかったら、私――」
「シロちゃん」
静かな呼びかけにシロコの身体が小さく跳ねた。
固い動きで隣を見れば、京夜は少しだけ体を起こした。
京夜の手が伸びる。
「俺ね、生きてるよ」
シロコの手を取り、そっと自分の胸へ当てた。
「ちゃんと、隣にいるでしょ」
「ちゃんと、生きてる」
シロコは言葉を失う。
京夜の胸から伝わる温もり。トク、トク、と規則正しい鼓動。
夢の中の記憶とは違う、本物の"京夜先輩"が、月明りに照らされながらふわりと笑った。
「夢じゃなくて、今ここにいる“俺”を見て。血も出てないし、あったかいっしょ?」
シロコの指先がわずかに震える。唇がかすかに揺れた。
――ああ、生きてる。ちゃんと、ここに居るんだ。
「……あたたかい、です」
「うん。だから、大丈夫だよ」
京夜は自分の胸に添えていたシロコの手をそっと離し、目を細めてシロコの顔を覗き込む。
「ちゃんと隣にいるから、安心して寝ていいよ、シロちゃん」
その言葉で、張りつめていた糸がぷつりと切れた。シロコの瞳がじわりと揺らいだ。
「……ありがとうございます。京夜先輩……」
そう言って、やっと目を閉じた。
小さな吐息とともに身体の力が抜ける。固く強ばっていた背中が、ゆっくりと布団に沈んだ。
瞼の裏の悪夢はまだ消えない。
けれど――
胸に残るこの温もりだけは、確かに彼女を"今"へ繋ぎとめていた。
その夜、シロコはようやく短い眠りについた。
隣で京夜は静かに、彼女の髪を撫でる。
「おやすみ、シロちゃん」
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【おまけ】
あれ以来、京夜とシロコは同じ部屋に布団を並べて眠るようになっていた。
深夜。
シロコは静かに目を覚ました。隣の布団へ音もなく忍び寄る。
(……ちゃんと、生きてる?)
顔をそっと京夜の胸元へうずめる。
右耳を当てると――
トク、トク、と確かな鼓動。
(……よかった)
一分ほど、心音を聞く。
それからまた、静かに自分の布団へ戻った。
「………」
暫くして隣から穏やかな寝息が聞こえて来ると、京夜はそっと目を開けた。
(……ほんっと、この子はもう…)
京夜は、最初の夜から全部気づいている。
人の気配には敏い。護衛と一緒に寝るようになってからは、なおさら。
でも――何も言わない。
言えば、シロコはきっと自分を責める。それが分かっているから。
(夜中にこっそり胸元に顔寄せて、安心したらスヤスヤって…)
(いや、いいんだけど。それで安心してくれるなら、どれだけでも『どうぞ』って感じなんだけどさ)
(あーーーー……がんばれ、俺。なんにも考えるな、我慢我慢我慢……)
翌朝。
京夜は布団からのそのそ起き上がる。
ボサボサの髪をかきながら、眠そうに呟いた。
「ねぇ、シロちゃん」
とっくに身支度を終え、コーヒーを淹れていたシロコが振り返る。
「はい?」
「……もうちょっと俺のこと、信用してもいいよ?」
「はい??」
「なんでもな~い♡」
シロコは首を傾げた。
「……?」
京夜はくすりと笑う。
――昨夜のことを、何も知らない顔で。
