とうげんあんき
古い旅館の一室、空いた窓から夜風が静かに吹き込む。
布団の上で、花魁坂京夜は血のついた白衣をすでに処分し、何事もなかったかのようにタブレットを眺めていた。しかし、部屋の入口――襖の奥から漂ってきた空気にふと視線を上げる。
襖が開く。見慣れた長い髪がふわりと揺れた。彼女が『迷彩服』と謳う"女子高生の制服"は、かすかな血と埃で乱れていた。
「シロちゃん♡おかえりー。思ったより早かったね」
タブレットを置いて笑顔で出迎える。しかし、シロコは何も答えない。足音を鳴らし京夜へ近づき、見下ろす。
その目に、いつものはぐらかすような軽薄さはない。
「……シロちゃん?」
返事の代わりに、畳に膝をついたシロコが無言で京夜の胸元を掴み、
――そのまま布団に押し倒した。
「――なんで黙ってたんですか」
低い声。
目は怒りとも涙ともつかない光で揺れている。
「死にかけたって……なに?」
掠れたシロコの声に、京夜は言葉を詰まらせた。
・
・
・
京都支部援護部隊総隊長を務める京夜の護衛である暦シロコ(こよみ しろこ)はその日、護衛対象である花魁坂京夜から一時的に離れ人手の足りない前線へ応援へ出ていた。
シロコの中に応援要請に応じることへの躊躇いはあった。前線へ向かうということは、『命より大事な人』から目を離すことになる。
しかし、桃宮唾切を筆頭とした桃機関の襲撃により、京都支部の戦況は苦しいものだった。
元戦闘部隊所属であり、現在は花魁坂京夜の護衛に就任する程度に戦闘スキルを持つシロコが"緊急事態"として前線へ向かう事は、組織として当然の判断だった。
『気を付けていってきてね』
『はい。京夜先輩も、私がいない間怪我しないでくださいね♡』
『だいじょーぶ、俺は治す側ですから』
向かう前にそんな事を言って、笑って見送ってくれた大切な人。
帰ったら『がんばったね』と褒めてもらうつもりだった。
前線での戦闘が落ち着いた頃だった。1人の隊員が顔を青くしてシロコの名前を呼び駆け寄る。
「京都支部が…!!」
そのあとに続いた言葉に、シロコの頭が真っ白になった。
心臓の鼓動が頭に響く。今すぐすべてを放り出して駆け出したい衝動を、この場の指揮を任された"責任"でなんとか飲み込んで、負傷者の確認や搬送、事後処理などそれぞれ必要な指示を出したのちに震える手で京夜へメッセージを送った。
【京夜先輩】
【無事ですか】
既読がつくまでの時間が、途方もなく長く感じられた。
返信が来たのは京都支部へ向かっている途中だった。
【俺は大丈夫】
【なんともないよ】
【シロちゃんは?怪我してない?】
それを見た瞬間、押し殺していた不安と恐怖を吐き出すように深く息を吐いた。京夜から返ってきた言葉が、シロコの緊張を溶かす。
(よかった……生きてる……)
安心した。
本当に。
――なのに。
今、シロコの耳には先ほど旅館の廊下で聞いた援護部隊員たちの会話がまだ残響していた。
――『あの時、花魁坂さんやばかったらしいな。首切られて……』
――『天井から落ちてきた自分の血で、なんとか再生できたとか…』
――『シロちゃんには絶対言うなって――』
身体の奥から血の気が引いていくのを感じた。
・
・
・
「なんで"なんともない”だなんて嘘ついたんですか?」
声が震える。
(――分かっている。それが私を守るためのこの人の"優しさ"だということを)
(それでも、)
京夜の服を掴んでいる手に力がこもる。
「私が居ない間に死ぬなんて許さない」
(私の知らないところで、この人が世界から消えかけた事実だけが、どうしよもなく許せなかった)
京夜は目を細めた。
「……シロちゃん」
「今後、なにがあろうと――もう絶対、そばを離れません」
シロコの声が、怒りから哀しみへと落ちていく。
「約束してください。『私に守らせてくれる』って」
京夜の頬にシロコの長い髪が一束、するりと落ちる。
静かに揺れるシロコの瞳を見つめたあと、京夜はゆっくりと、その背に手を回した。
「……ごめんね。シロちゃん」
覆いかぶさるシロコをそっと胸に引き寄せ、その背中をとんとん、と優しく叩く。
「心配かけたくなかった。でも、一番最初に謝らなきゃいけなかったよね」
その声はいつもの調子だったが、胸の奥にかすかな熱が滲んでいた。
「シロちゃんに嘘ついた。ごめんね」
シロコは目を閉じたまま、小さく言った。
「……わかってるんです。京夜先輩が嘘ついた理由も、それが京夜先輩の優しさなのも」
張り詰めた空気の中、旅館の天井に吊るされた裸電球が、静かに揺れた。
「……それでも」
「知らずにいることの方が耐えられない」
「京夜先輩が傷ついた事をなにも知らずに、笑っている自分を想像すると、怖いんです」
その呟きが、京夜の胸に染み込んだ。
触れている手も、吐息も。いつもとはどこか違うのに、それをよく知っているような気さえした。
――飄々とした彼女が奥底に抱える、歪んだ欲。
「……ねぇ、シロちゃん」
京夜は、ゆっくりとシロコの頬を両手で包んだ。
シロコは黙ったまま、睫毛を伏せている。怒っているわけじゃない。でも、まだ感情の整理がつかないようで表情が戻らない。
だから、京夜はもう一歩だけ踏み込んだ。
ふっと、優しく笑う。
「“守ってくれる?”」
その問いかけは、決して軽くなかった。
“守る”じゃなくて、“守ってくれるか”という言葉に込められた意図を、彼女はちゃんとわかっている。
シロコは少し黙って、それから――こくん、と小さく頷いた。
「……はい」
「よし♡」
京夜はいつものように微笑んで、そっと額をくっつけた。
「じゃあ今日からまた、改めて。俺はシロちゃんを守るし、シロちゃんも俺を守ってくれる。その約束で、いい?」
「……はい」
シロコの眉間からふっと力が抜ける。
ようやく強張っていた表情が緩み、口元を緩めた。
「約束、です」
これは、花魁坂京夜と、その彼に「信仰と救済」「依存と信頼」を抱く、『番犬』と呼ばれる護衛のはなしである――。
布団の上で、花魁坂京夜は血のついた白衣をすでに処分し、何事もなかったかのようにタブレットを眺めていた。しかし、部屋の入口――襖の奥から漂ってきた空気にふと視線を上げる。
襖が開く。見慣れた長い髪がふわりと揺れた。彼女が『迷彩服』と謳う"女子高生の制服"は、かすかな血と埃で乱れていた。
「シロちゃん♡おかえりー。思ったより早かったね」
タブレットを置いて笑顔で出迎える。しかし、シロコは何も答えない。足音を鳴らし京夜へ近づき、見下ろす。
その目に、いつものはぐらかすような軽薄さはない。
「……シロちゃん?」
返事の代わりに、畳に膝をついたシロコが無言で京夜の胸元を掴み、
――そのまま布団に押し倒した。
「――なんで黙ってたんですか」
低い声。
目は怒りとも涙ともつかない光で揺れている。
「死にかけたって……なに?」
掠れたシロコの声に、京夜は言葉を詰まらせた。
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京都支部援護部隊総隊長を務める京夜の護衛である暦シロコ(こよみ しろこ)はその日、護衛対象である花魁坂京夜から一時的に離れ人手の足りない前線へ応援へ出ていた。
シロコの中に応援要請に応じることへの躊躇いはあった。前線へ向かうということは、『命より大事な人』から目を離すことになる。
しかし、桃宮唾切を筆頭とした桃機関の襲撃により、京都支部の戦況は苦しいものだった。
元戦闘部隊所属であり、現在は花魁坂京夜の護衛に就任する程度に戦闘スキルを持つシロコが"緊急事態"として前線へ向かう事は、組織として当然の判断だった。
『気を付けていってきてね』
『はい。京夜先輩も、私がいない間怪我しないでくださいね♡』
『だいじょーぶ、俺は治す側ですから』
向かう前にそんな事を言って、笑って見送ってくれた大切な人。
帰ったら『がんばったね』と褒めてもらうつもりだった。
前線での戦闘が落ち着いた頃だった。1人の隊員が顔を青くしてシロコの名前を呼び駆け寄る。
「京都支部が…!!」
そのあとに続いた言葉に、シロコの頭が真っ白になった。
心臓の鼓動が頭に響く。今すぐすべてを放り出して駆け出したい衝動を、この場の指揮を任された"責任"でなんとか飲み込んで、負傷者の確認や搬送、事後処理などそれぞれ必要な指示を出したのちに震える手で京夜へメッセージを送った。
【京夜先輩】
【無事ですか】
既読がつくまでの時間が、途方もなく長く感じられた。
返信が来たのは京都支部へ向かっている途中だった。
【俺は大丈夫】
【なんともないよ】
【シロちゃんは?怪我してない?】
それを見た瞬間、押し殺していた不安と恐怖を吐き出すように深く息を吐いた。京夜から返ってきた言葉が、シロコの緊張を溶かす。
(よかった……生きてる……)
安心した。
本当に。
――なのに。
今、シロコの耳には先ほど旅館の廊下で聞いた援護部隊員たちの会話がまだ残響していた。
――『あの時、花魁坂さんやばかったらしいな。首切られて……』
――『天井から落ちてきた自分の血で、なんとか再生できたとか…』
――『シロちゃんには絶対言うなって――』
身体の奥から血の気が引いていくのを感じた。
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「なんで"なんともない”だなんて嘘ついたんですか?」
声が震える。
(――分かっている。それが私を守るためのこの人の"優しさ"だということを)
(それでも、)
京夜の服を掴んでいる手に力がこもる。
「私が居ない間に死ぬなんて許さない」
(私の知らないところで、この人が世界から消えかけた事実だけが、どうしよもなく許せなかった)
京夜は目を細めた。
「……シロちゃん」
「今後、なにがあろうと――もう絶対、そばを離れません」
シロコの声が、怒りから哀しみへと落ちていく。
「約束してください。『私に守らせてくれる』って」
京夜の頬にシロコの長い髪が一束、するりと落ちる。
静かに揺れるシロコの瞳を見つめたあと、京夜はゆっくりと、その背に手を回した。
「……ごめんね。シロちゃん」
覆いかぶさるシロコをそっと胸に引き寄せ、その背中をとんとん、と優しく叩く。
「心配かけたくなかった。でも、一番最初に謝らなきゃいけなかったよね」
その声はいつもの調子だったが、胸の奥にかすかな熱が滲んでいた。
「シロちゃんに嘘ついた。ごめんね」
シロコは目を閉じたまま、小さく言った。
「……わかってるんです。京夜先輩が嘘ついた理由も、それが京夜先輩の優しさなのも」
張り詰めた空気の中、旅館の天井に吊るされた裸電球が、静かに揺れた。
「……それでも」
「知らずにいることの方が耐えられない」
「京夜先輩が傷ついた事をなにも知らずに、笑っている自分を想像すると、怖いんです」
その呟きが、京夜の胸に染み込んだ。
触れている手も、吐息も。いつもとはどこか違うのに、それをよく知っているような気さえした。
――飄々とした彼女が奥底に抱える、歪んだ欲。
「……ねぇ、シロちゃん」
京夜は、ゆっくりとシロコの頬を両手で包んだ。
シロコは黙ったまま、睫毛を伏せている。怒っているわけじゃない。でも、まだ感情の整理がつかないようで表情が戻らない。
だから、京夜はもう一歩だけ踏み込んだ。
ふっと、優しく笑う。
「“守ってくれる?”」
その問いかけは、決して軽くなかった。
“守る”じゃなくて、“守ってくれるか”という言葉に込められた意図を、彼女はちゃんとわかっている。
シロコは少し黙って、それから――こくん、と小さく頷いた。
「……はい」
「よし♡」
京夜はいつものように微笑んで、そっと額をくっつけた。
「じゃあ今日からまた、改めて。俺はシロちゃんを守るし、シロちゃんも俺を守ってくれる。その約束で、いい?」
「……はい」
シロコの眉間からふっと力が抜ける。
ようやく強張っていた表情が緩み、口元を緩めた。
「約束、です」
これは、花魁坂京夜と、その彼に「信仰と救済」「依存と信頼」を抱く、『番犬』と呼ばれる護衛のはなしである――。
