じゅじゅつ

呪術師の寿命は短い。

それは、私――小夜那由多が、何度も何度も自分に言い聞かせてきた事実だった。

呪霊を祓う。人を守る。そのために命を削る。
……だけじゃない。

術師は呪霊だけと戦っているわけじゃない。派閥、規律、家柄、古臭い価値観。そういうものに押し潰されて、同じ術師同士で殺し合うことだってある。

(嫌だよねぇ、呪術界)

錆びついたプレート看板が風に鳴る。夜の廃病院。粉塵と黴の匂いが入り混じった空気の中で、私は一度だけ息を吐いた。
靴の裏で、呪霊の肉片を踏む。べちゃ、と生暖かい音がして、じわりと靄になって消えた。

「……は〜〜〜」

乾いたため息が、暗い廊下に溶けていく。

血だまり。飛び散る肉片。口の中に広がる鉄の味。制服の袖も、頬も、太腿も、あちこちから赤く滲んでいる。

……笑っちゃうくらい、いつも通りだ。





『小夜さん、状況どうですか』

スマホで伊地知さんと会話したのは、約30分前のこと。

『とりあえず、三階までは掃除終わりました〜。でも、報告より数多いですよ。これ絶対四級じゃないです』

下級呪霊の掃討任務。
その“はず”だった。

行ってみれば、数十体クラスの三〜四級がうじゃうじゃ。おまけに、どう考えても報告にない濁った呪力の塊が階上からじわじわと圧を放っている。

『応援、要請した方がいいかもしれませんねぇ』

軽い口調とは裏腹に、私は判断を迷わなかった。血を使うたび、頭が少しずつぼんやりしていく。手の震えを誤魔化しながら、それでも笑って言った。

『伊地知さーん、五条先生ってまだ海外出張中ですか?』

『いえ…今朝戻ってきてますが…』

『じゃあ、応援要請と一緒に言っといてください。“上層部のジジィたちからまた虐められてます”って』

そのときは、それくらいの冗談を言う余裕はまだあった。

けれど――。

今、目の前には、そいつがいる。

二級呪霊。濁った瘴気をまとい、狭い廊下の端から、こちらを見下ろしている。白い目玉だけがぎょろりと光っていた。

私は掌を握って開いた。乾いた血がぱり、とひび割れる。

(……ちょっと、使いすぎたかな)

さっきまでの戦闘で、私は既に何十体もの呪霊を血で酩酊させ、切り刻んできた。腕の内側には細かい傷がいくつも走っている。太腿にも、脇腹にも浅い切創。

それでも戦えなくはない。

……けど。

血が、足りない。

――『血酔(ちえい)』
呪力を供物にして得た、呪術的な契約の産物。

もともと術式を持たない呪術師見習いだった先祖が、それでも祓う力が欲しくて願った。

妖か、呪いか、神様か。そういう“ナニカ”に。
自分の呪力を食わせる代わりに、祓う力をくれ、と――。

そのおかげで小夜家は栄えた。でも家系にいろんな術師が入って、やがて今の術式──操絲呪法(そうしじゅほう)を手に入れた。
そうなると血酔は邪魔だった。操絲呪法は文字通り、呪力を糸にして自在に扱う術式。呪力の精密操作が命。呪力を食われる体質なんて、燃費最悪。

だから先祖は契約を破棄した。
……した“つもり”だった。

名残。残滓。得体のしれない"ナニカ"との契約が、呪いが、そんな綺麗に終わるわけない。
そのせいか、小夜家には血酔を持った子どもが稀に生まれるようになった。私みたいな、呪力を食われる子ども。

分かったのは9歳のとき。父との修行で下級呪霊と対峙したときだ。私の血が呪霊にかかった瞬間、そいつはふらついた。
足取りがおぼつかなくなって、意識を朦朧とさせて、まるで酒に酔ったみたいに。

呪力循環が乱れ、判断力が落ち、平衡感覚が崩れる。

私の血を浴びた、私より呪力量の少ない呪霊にだけ作用する、術式じゃない。私の体質。
下級呪霊であれば数が多くとも手っ取り早く祓えるし、二級くらいまでなら祓えはせずとも一時的に動きを止める効果はある。

そこからは早かった。呪術総監に媚を売りたい小夜家当主──祖父に売られたも同然で中学卒業前に高専へ引き渡され、
あれよあれよという間に私は“使いやすい術師”になっていた。

私の血はどうにも“使い勝手がいい”らしい。その分、私の血がどばどば無くなるだけだけど。

(これがなければ呪術師なんてならずに済んだのになぁ……)

鼓動一回ごとに、体のどこかから何かが漏れていく感覚がする。息を吸うだけで、胸の奥がきしむ。

「これじゃあ結婚どころか、彼氏探しも無理じゃん…」

自嘲気味に零した独り言は、もはや癖みたいなものだ。

小さい頃からの夢がある。

いつか大好きな人と結婚して、
水族館でデートして、カフェでご飯食べて、
帰り道に手を繋いで――。

そんな、「普通」で「ありふれた」、好きな人との幸せが欲しい。その幸せを守るためなら、命を削ってでも、血を流してでも、私は呪術師として立っていられると思うの。

……なのに、現実はこれだ。

血だまりの中で息を切らし、呪いに囲まれながら、死なないように足掻いている。

「あーーーーどっかにいないかなぁ~~血まみれの私も可愛いっていってくる人ぉ…」

大げさに、天井を仰いで嘆いてみせる。もちろん返事なんてない。あるのは、二級呪霊の低い唸り声だけ。

じり、とにじり寄ってくる気配。私は唇を舐め、舌の上に残る血の味を確かめた。

(……まだ、死ねない。だって、)

続きを言葉にする前に、私は腕を振り上げた。

――その瞬間だった。

空気が、変わった。

風を切る音。何かが走る足音。次いで――

視界の端から影が飛び込んできた。

私と二級呪霊の間に、ひとつの背中が割り込む。そして、そのまま呪霊の顔面へ飛び蹴りが叩き込まれた。
鈍い衝撃音が響いて、ぐわん、と呪霊の首がのけぞる。瓦礫と埃が舞い上がる中、私は呆然と、その背中を見つめていた。

赤いフード。がっしりした肩。よく動く足。

それが誰なのかなんて、分からない。

でも、

(……綺麗、って思っちゃった)

甲高い叫び声を上げて反撃してくる呪霊に対し、その少年は迷いなく飛び込んでいく。拳を握りしめ、真正面から殴りつける。

ぱちんっ、と、

火花が散ったみたいだった――。

暗い廊下の中で、その少年だけが不自然に明るく見えた。自分の世界の中に、突然、色が差し込んだような。

(……あ、やば)

私は、自分の心臓が跳ねるのをはっきり自覚した。

ずっと探していたもの。

目の前に星が降ってきたような、火花が散るような、そんな運命の出会い。それを、今、目の前で体験している。

呪霊が壁に叩きつけられ、ズルズルと崩れ落ちた。少年は一瞬だけ息を整え、額の汗を拭う。

「……よし」

短く呟いて、彼は振り向いた。
目が、合う。

近くで見ると、年は私より少し下。柔らかそうな髪、子どもっぽい顔立ち。でも、目だけはまっすぐで、底の見えない優しさを湛えていた。その目が、真正面から私を射抜く。胸の奥で、何かが、かちりと音を立ててはまった。

少年は私の様子をさっと見て、眉をひそめる。

「大丈夫?立てる?」

そう言って、屈んで手を差し伸べてきた。

息を飲む。手を伸ばせば、触れられる距離。指先に乗っている、体温のイメージ。

――星が、落ちてきた。

それは大げさな比喩でもなんでもなくて、私には本当に、そう感じられたのだ。

「えーと…先輩?でいいんだよな?高専の」

少年は首をかしげながら続ける。

「ていうかすげー怪我してんじゃん!?早く伊地知さんとこ戻……」

言いかけた、そのとき。

「――名前…」

私の口が、勝手に動いた。自分でも、止められなかった。少年が瞬きをする。

「え?」

「名前、なんていうんですか」

喉が焼けるほど乾いているのに、声だけははっきり出た。
ずっと探していたものに、ようやく手が届きそうで。
この瞬間を逃したら二度と会えない気がして。

だから、聞いた。彼の、名前を。

少年は少し驚いた顔をして、それからすぐに、いつもの調子で笑った。

「俺?虎杖悠仁。1年」

「いたどり、くん。……虎杖くん」

口の中で何度か転がしてみる。味わうみたいに。その名前が、舌に馴染んでいく感覚があった。

(ああ、これは――)

彼が何者なのかも、どんな過去を背負っているのかも、まだ何も知らない。
ただ、目の前の少年が、自分の世界を変えたのだとだけは分かった。

「つーかそんな事より先輩の怪我!ほら、俺、肩貸すから」

虎杖くんはそう言って、私の前にしゃがみ込む。自然に肩を差し出してくるその仕草。無防備で、まっすぐで、優しくて。その全部が、私のツボをピンポイントで撃ち抜いてきた。

差し出された手が、私の肩に触れる――その瞬間。

私は反射的に、その手を両手でがしっと包み込んでいた。虎杖くんの目が丸くなる。

「――好き!結婚して!!」

廃病院の廊下に、その言葉が響いた。

一切の躊躇も、照れも、理性も挟まない。それは、私の本能そのものだった。虎杖くんはしばらく固まっていたが、やがて、ようやく一言だけ絞り出した。

「…………は?」

その顔が、あまりにも可愛くて。

私は血まみれのまま、へらっと笑った。

(あー……やっぱり、星だ)

呪術師の寿命は短い。

だけど、この瞬間だけは、自分の未来が少しだけ伸びたような気がした。

この人と結婚する。
そのためなら、私はまだ死ねない。

それが、まるで星が落ちてきたみたいな――虎杖くんとの出会いだった。
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