皿の上に俺を
足の先がひどく冷えて、もうほとんど感覚がなくなっている。真っ暗な夜の中、ぼんやりとした街灯の光が僕の足を照らしていた。
遠くからうっすらと足音が聞こえる。
けれどそんなことよりも眠たかった。重たい瞼をゆっくりと閉じる。それに、もう何ヶ月もご飯を飲んでいない。お腹が空いて、考えることすら面倒くさかった。
「うわ」
頭上から低い声が聞こえて、うっすらと目を開けた。
コートを着込んだ人間の男の人が、こちらを見て不審そうに顔をしかめている。
「お前、どうしたんだよ。ここ、ゴミ捨て場だぞ」
男の人がしゃがんで、こちらに目線を合わせてくる。
「親……お父さんとか、お母さんはどうしたよ、心配してるだろ」
男の人の目は真剣だった。
「いないよ」
かすれた声が自分の口から零れた。
思考がとろとろに溶けていって、気を抜くと寝てしまいそうになる。
人間の男の人の血は、おいしいのだろうか。
今まで飲んできた血のジュースは、人間の形をしていなかったから誰の血かもわからない。もしかしたら男の人の血を飲んだこともあるのかもしれない。
僕がうとうととまどろんでいる間も、男の人は真剣なトーンでこちらに話しかけていた。
何を言っているのか、考えることすら面倒くさい。
「なあ」
困った様子で話しかけてくる男の人の声が、とぎれとぎれに聞こえてくる。何を言っているのかはわからない。
突然男の人の腕がにゅっと伸びてきて、僕のほっぺたに軽く触れた。温かい手だった。
「こんなところで」
困った様子で男の人はまだ何か言っている。
それよりずっと、僕のほっぺを軽く叩く温かな男の人の手が、おいしそうで。
お腹の奥がぐるぐるとうずくのを感じる。
自然と口が開いて、気が付けば男の人の手の平にかじりついていた。
「いっ」
反射的に男の人が手を引っ込める。
噛みついた手の端っこから、おいしそうな血がたらたらと流れだしていた。
「お前、急に何するんだよ、びっくりするだろ」
男の人の血の匂いがふんわりと香る。
飲みたい。早く。
思わず舌なめずりをしてしまう。
あんなに寒かったのに、今は体の奥が熱い。
「飲ませて、それ」
「は」
男の人が表情をしかめた。
「お腹が空いた。はやく」
相変わらず声はかすれていたけれど、さっきよりもずっとずっと強い声が出た。
「飲ませてって、これ、血だぞ。わかるか? ばっちぃの」
男の人が上に上げようとした腕を、手を伸ばして掴む。
「はやく」
諦めたのか、男の人の腕がそっと下がった。
「お前、その目」小さく何か男の人が呟いていたけれど、うまく聞き取れなかった。
久しぶりにありつけた食事は、これまで飲んだどの血よりもおいしかった。
ふわりと甘い血の匂いが香って、頭がくらくらとする。
町を歩いている女の人は、時々血の匂いを纏っているから嫌だった。
「悠」
突然視界がふさがって、とうまが俺の名前を呼ぶのが聞こえてくる。
顔を上げて反応すると、不安げなとうまの顔が、安堵で和らいだ。
「帰るぞ」
僕の視界をふさぐのに使っていたとうまの手が、今度はこちらに差し出される。そっと指の先を握って一つ頷いた。
とうまの指の先は冷たかった。
目の前で走っていた少女が転んでから、頭がぼんやりとして、目の前の膝にしか目がいかなくなった。女の子の膝の上を、真っ赤な血が一筋、垂れていく。
どんな味がするのだろう。
目の前で垂れ流しの甘い匂いが、空腹を誘う。
体中が沸騰したように熱かった。
舌の先に、血が触れた。じんわりと、慣れた味が広がっていく。
気が付くと車の中にいて、とうまが僕の口に指を突っ込んでいる。
そのままぱくりと口を閉じて、とうまの血を飲んだ。目の前のとうまが、ほっとしたように表情を緩めた。
「悠」
少しかすれたとうまの声が、僕の名前を呼ぶ。
とうまの指先から出ている血を舐め切って、僕はとうまの指から口を離した。
「とうま」
名前を呼んであげると、嬉しそうにとうまの目尻が下がった。
「悠」
とうまがもう一度、僕の名前を呼んだ。
とうまは時々、僕よりも小さい子供みたいになる。鳴き声みたいに僕の名前を呼んで、何度も僕の存在を確認する。
一体何がとうまをそんなふうにさせているのだろう。
とうまの瞳が不安定に揺れて、ほんの一瞬だけ伏せられた。
「悠、俺の血、おいしい?」
とうまが僕の目をじっと見つめた。
とうまの血はおいしい。間違いなく、これまでに飲んだどの血のジュースよりもずっと、ずっとおいしい。
その証拠に、あの日とうまとゴミ捨て場で出会ってからずっと、僕はとうまの血しか飲んでいないのだから。
とうまの血は、極上なのだ。
「うん。とうまの血が、一番」
両手でとうまの顔を包んで、とうまの目をじっと見る。
とうまを安心させたくて、そっと笑ってみる。
安心していいよ、とうま。僕はとうまの血が一番好きだよ。
それなのに、どうして、とうまは悲しそうな顔をするのだろう。
遠くからうっすらと足音が聞こえる。
けれどそんなことよりも眠たかった。重たい瞼をゆっくりと閉じる。それに、もう何ヶ月もご飯を飲んでいない。お腹が空いて、考えることすら面倒くさかった。
「うわ」
頭上から低い声が聞こえて、うっすらと目を開けた。
コートを着込んだ人間の男の人が、こちらを見て不審そうに顔をしかめている。
「お前、どうしたんだよ。ここ、ゴミ捨て場だぞ」
男の人がしゃがんで、こちらに目線を合わせてくる。
「親……お父さんとか、お母さんはどうしたよ、心配してるだろ」
男の人の目は真剣だった。
「いないよ」
かすれた声が自分の口から零れた。
思考がとろとろに溶けていって、気を抜くと寝てしまいそうになる。
人間の男の人の血は、おいしいのだろうか。
今まで飲んできた血のジュースは、人間の形をしていなかったから誰の血かもわからない。もしかしたら男の人の血を飲んだこともあるのかもしれない。
僕がうとうととまどろんでいる間も、男の人は真剣なトーンでこちらに話しかけていた。
何を言っているのか、考えることすら面倒くさい。
「なあ」
困った様子で話しかけてくる男の人の声が、とぎれとぎれに聞こえてくる。何を言っているのかはわからない。
突然男の人の腕がにゅっと伸びてきて、僕のほっぺたに軽く触れた。温かい手だった。
「こんなところで」
困った様子で男の人はまだ何か言っている。
それよりずっと、僕のほっぺを軽く叩く温かな男の人の手が、おいしそうで。
お腹の奥がぐるぐるとうずくのを感じる。
自然と口が開いて、気が付けば男の人の手の平にかじりついていた。
「いっ」
反射的に男の人が手を引っ込める。
噛みついた手の端っこから、おいしそうな血がたらたらと流れだしていた。
「お前、急に何するんだよ、びっくりするだろ」
男の人の血の匂いがふんわりと香る。
飲みたい。早く。
思わず舌なめずりをしてしまう。
あんなに寒かったのに、今は体の奥が熱い。
「飲ませて、それ」
「は」
男の人が表情をしかめた。
「お腹が空いた。はやく」
相変わらず声はかすれていたけれど、さっきよりもずっとずっと強い声が出た。
「飲ませてって、これ、血だぞ。わかるか? ばっちぃの」
男の人が上に上げようとした腕を、手を伸ばして掴む。
「はやく」
諦めたのか、男の人の腕がそっと下がった。
「お前、その目」小さく何か男の人が呟いていたけれど、うまく聞き取れなかった。
久しぶりにありつけた食事は、これまで飲んだどの血よりもおいしかった。
ふわりと甘い血の匂いが香って、頭がくらくらとする。
町を歩いている女の人は、時々血の匂いを纏っているから嫌だった。
「悠」
突然視界がふさがって、とうまが俺の名前を呼ぶのが聞こえてくる。
顔を上げて反応すると、不安げなとうまの顔が、安堵で和らいだ。
「帰るぞ」
僕の視界をふさぐのに使っていたとうまの手が、今度はこちらに差し出される。そっと指の先を握って一つ頷いた。
とうまの指の先は冷たかった。
目の前で走っていた少女が転んでから、頭がぼんやりとして、目の前の膝にしか目がいかなくなった。女の子の膝の上を、真っ赤な血が一筋、垂れていく。
どんな味がするのだろう。
目の前で垂れ流しの甘い匂いが、空腹を誘う。
体中が沸騰したように熱かった。
舌の先に、血が触れた。じんわりと、慣れた味が広がっていく。
気が付くと車の中にいて、とうまが僕の口に指を突っ込んでいる。
そのままぱくりと口を閉じて、とうまの血を飲んだ。目の前のとうまが、ほっとしたように表情を緩めた。
「悠」
少しかすれたとうまの声が、僕の名前を呼ぶ。
とうまの指先から出ている血を舐め切って、僕はとうまの指から口を離した。
「とうま」
名前を呼んであげると、嬉しそうにとうまの目尻が下がった。
「悠」
とうまがもう一度、僕の名前を呼んだ。
とうまは時々、僕よりも小さい子供みたいになる。鳴き声みたいに僕の名前を呼んで、何度も僕の存在を確認する。
一体何がとうまをそんなふうにさせているのだろう。
とうまの瞳が不安定に揺れて、ほんの一瞬だけ伏せられた。
「悠、俺の血、おいしい?」
とうまが僕の目をじっと見つめた。
とうまの血はおいしい。間違いなく、これまでに飲んだどの血のジュースよりもずっと、ずっとおいしい。
その証拠に、あの日とうまとゴミ捨て場で出会ってからずっと、僕はとうまの血しか飲んでいないのだから。
とうまの血は、極上なのだ。
「うん。とうまの血が、一番」
両手でとうまの顔を包んで、とうまの目をじっと見る。
とうまを安心させたくて、そっと笑ってみる。
安心していいよ、とうま。僕はとうまの血が一番好きだよ。
それなのに、どうして、とうまは悲しそうな顔をするのだろう。
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