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ケイの失踪


 海に行きたいと思った。








「お兄ちゃん、明日帰ってくるって」
「は」

 考えるより先に声が出た。
 時間は夜の十時をとっくに過ぎていた。風呂上がりの、濡れっぱなしの髪から雫が一滴垂れた。壁にかけられた時計から、秒針の音が聞こえてくる。カチッと小さな音を立てて、分針が動いた。

「わかった」

 喉元までせりあがってくる文句をすべて飲み込んで、目を伏せた。母に背を向けてリビングを出る。数歩歩いたところで、振り返った。
 母はもう、こちらを見ていない。

「明日、出かけるから」

 私の声で、母がこちらを見た。何か言いかけたのを聞く前に、自室へと続く階段を駆け抜ける。裸足から伝わる床の温度が冷たい。
 自室の隣にある兄の部屋の扉を一度睨みつけて、部屋に入った。



 兄のことが嫌いだった。
 頭が良くて、運動ができて、苦労したそぶり一つ見せないで東京の大学に行ってしまった、兄のことが。
 せっかく遠くへ行って、顔を合わせなくてもよくなったと思っていたのに。






 部屋に座り込んで、スマホを見る。明日出かける予定など、何も考えていなかった。濡れた髪が頬に張り付く。髪から流れてきた雫が、頬を伝って肩を濡らした。
 友人とのグループラインは、来週の授業の話で盛り上がっている。こんな時間から友人を遊びに誘うほどの非常識さと勇気を、私は持ち合わせていない。

 明日、兄が帰ってくる。

 呑気な顔で、東京の方の大学から。そしてきっと、私の頭を、少し乱暴に撫でる。
 私はそれが、嫌だった。
 何としても出掛けて、兄と一緒に過ごす時間を減らしたかった。
 家にいたらきっと、兄とともにどこか遊びへ連れていかれる。せめて、それが避けられるだけでもよかった。
 スマホで地元周辺の娯楽施設を検索して、必死にアテを探す。すぐに用事が尽きない場所がいい。それから、なるべく知り合いと会わないような場所がいい。
 前髪から垂れた水が、スマホの画面を濡らした。慌てて拭う。いつの間にか、肩もだいぶ濡れていた。スン、と部屋を嗅いでも、水の匂いはしてこない。
 前髪から垂れた雫が、またスマホを濡らした。ツ、と滑り落ちる水滴を見て、海のイメージが頭をかすめた。

 海に行こう。

 海なんて、もう何年も行っていなかった。どうして真っ先に海が思い浮かんだのかなんてわからない。教科書に載っていた海の写真が頭に残っていたのかもしれないし、つい最近好きなアーティストが海の歌を歌っていたからかもしれない。とにかく、理由なんてなんでもよかった。
 すぐに近くの海岸を検索する。
 電車で数本先、駅から歩いて数十分。人もあまりいなさそうな、寂れた風景画像と共に、N海岸の文字が画面に映る。
 ここに行こう。
 決めた理由は、なんとなくだ。強いて言うなら、移動時間でそこそこ時間が潰せる距離だったから。
 スマホを置いて、立ち上がる。髪を乾かすために部屋を出た。






 歩くたびに、靴の中に少し砂が混じる感覚がした。地面はどこまで行っても砂浜だから、靴を脱いで砂を出しても意味はない。
 遠くで僅かに鳥が鳴いていた。
 誰もいないと思っていたのに、海岸にはぽつぽつと人が存在していた。釣りをする人、鳥を観察する人、子供連れの人などが、砂浜の上を歩いたりしている。話も聞き取れないほどの距離に、人影だけが確認できる。叫ぶ子供の声も、不鮮明なまま耳に届く。
 絶えず波の音が響いていた。
 海岸の端から端まで、意味もなく歩く。地面に落ちている大量の貝殻が気になって、じっと砂浜を見ながら歩いていた。

 ふ、と目の前に影が落ちた。顔を上げる。私とほとんど同じ目線の高さに、私とほとんど同じ顔をした人が、こちらを向いて立っていた。
 その存在に気が付かなかったのは、驚くほど静かだったからだ。彼女と自分の距離が近すぎるのを確認して、私は思わずぶつかりそうになっていたことを理解した。

「ごめんなさい。気が付かなくて」
「いえ」

 少しだけ首を振る彼女を横目に、私は数歩後退る。

「何か、落とし物ですか?」

 私の顔を覗き込むように彼女が首を傾げた。砂浜を見ながら歩く私が、落とし物を探している風に見えたのだろう。私も、彼女を見る。

「いえ、なんでも」

 なんでもないんです。
 言いかけた言葉が、途切れてしまった。
 彼女の顔は、鏡越しの自分を彷彿とさせるくらい、本当にそっくりだった。顔も、髪型も、身長も。ほとんど、なんてレベルではない。そっくり同じだ。違うのは、服装くらいだ。

「ドッペルゲンガー」

 小さな声で、彼女が呟いた。波の音に掻き消されそうなくらい小さな声なのに、はっきりと私の元まで届いた。

「ドッペルゲンガー?」

 聞こえてきた音を、繰り返す。ドッペルゲンガー。なんだっけ、それ。

「何、してたんです。浜辺を歩いて」

 私の疑問をスルーして、彼女が訊ねてきた。私とそっくりの顔で、こちらを見てくる。

「いえ、別に。えっと、あなたは?」

 今度は私が彼女の目をじっと見つめた。瞳の色まで、全く同じだ。

「私は、嫌なことがあるとここに来るんですよ。家、近いので」

 オァー。鳥が鳴いた。低い声だった。

「私、ケイって言います。恵って書いて、ケイ」

 自己紹介を済ませたケイが、次はあなたの番、と目で訴える。ケイの視線から逃れるように、そっと視線を逸らす。逸らしても感じる視線の圧に、仕方なく口を開いた。

「蒼です」
「ソウ?」

 小首をかしげて、ケイがこちらを見る。じっと次の言葉を待っているようだった。

「あおい、の蒼で、ソウ、です」
「アオ……。蒼穹の、ソウ?」

 ポケットからスマホを取り出して、ソウキュウを検索する。
 ソウキュウ。蒼穹。穹は、兄の名前だった。キュウではなく、たかしと読ませて、穹と書く。私の名前に、兄の名前がくっついている。嫌な漢字だ。青空という意味だと、スマホが教えてくれた。

「確かに、この蒼です」

 ケイ越しに見える空は、ムカつくぐらいの晴天だった。
 今すぐ、曇ってしまえばいいのに。
 雲一つない空の端に、太陽だけが浮いている。
 ケイはここから離れるつもりはないみたいだった。強い風に吹かれてバラバラと踊る髪を、片手で抑えてこちらを見ている。けれど、何か喋るつもりもなさそうだった。期待を含んだ視線だけが、私に降りかかる。
 では、そういうことで、なんて言って、ここから去れるほど空気が読めないわけでもない。ない話題を、必死に探す。無言の時間が続くのが苦しくて、勢いに任せて言葉を放った。

「私も、嫌なことがあったからです。ここに来たの」

 嫌なことがあった、わけではない。これから起ころうとしているのだ。けれど、そのための説明も面倒くさかった。
 目の前のケイが僅かに微笑んだ。

「似てますね」

 ケイの目が、私の顔を見ている。まつ毛の長さまで、私とちょうど同じくらいだ。

「私たち、とても似ている」
「そう、ですね」

 確かに、気味が悪いくらいに似ている。顔だけでなくて、髪型までそっくり同じだ。何も知らない人に双子だと言っても、きっと簡単に信じる。むしろ、他人だと言ったときの方が冗談を言っていると思われるかもしれない。
 波の音が、穏やかな音を奏でていた。風が私たちの間を駆け足で通り抜けていく。

「この海、人を攫うことがあるの」

 ケイの言葉が、風に流されることなく、はっきりと私の元まで届く。いつの間にかケイの視線は海の方を向いていた。

「私のことも、いつか攫ってくれるんじゃないかと思って」
「攫う?」

 ケイが僅かに頷いた。

「どこか遠くへ行きたいんです」

 あまりにも小さな声だった。独り言のようにも聞こえた。ケイの視線は、じっと水平線を見つめている。空と海との境目を、鳥だけが行き来していた。

「蒼さん、どこから来たんですか?」

 一度目を伏せたケイが、私の方を見た。

「この辺の人じゃないでしょう」

 どこから、という質問に、返答を窮する。名称もマイナーな田舎を答えても、よくわからない顔をされて終わりだ。そもそも、今日会ったばかりの人間に、自分の住んでいる地域を明かすほどのバカではない。
 ケイの瞳がぼんやりと私を見ている。焦点が合っているのかいないのかわからない、曖昧な視線だ。それでも、ケイが私の返答を待っていることだけは、伝わってきた。

「ここから、少しだけ遠い場所、です」

 嘘ではない。電車で一時間弱はかかるのだし、気軽に来れるほど近い場所ではない。
 なんとなくケイの顔が見られなくて、そっと視線を外した。
 ケイの背後に広がる空を、白い鳥が何匹も飛んでいた。

「いいな、羨ましい」
「そんなこと……」

 少し遠い場所なんて言っても、私にとっては地元だ。私にとっては、この海こそが少し遠い場所なのに。
 オァー、と鳥の鳴き声が響いた。途切れることのない波の音が、耳に入ってくる。

「嫌なことって、なんです?」

 強い風が、私に叩きつけるように吹いて、髪が一気に乱れた。

「兄が、帰ってくるんです」

 乱れた髪を、手櫛で整える。けれど、すぐに風に乱された。

「嫌いなんですか?」
「嫌いです」

 胸の奥に、ずっしりとしたおもりが乗った。視線を落とす。砂浜に、大量の貝殻が埋まっているのが見える。

「嫌いですよ」

 砂浜に埋まっている貝殻のほとんどが、欠けたり、汚れたりしている。持って帰りたくなるほどキレイな貝殻は一つもない。

「ケイ、さんは、何があったんですか? 嫌なこと」

 ケイが、海に目を向けた。ケイの右手が、そっと服の端を掴んでいる。

「親と、喧嘩しただけ」

 言って、深く息を吐いた。

「喧嘩、ですか」
「よくするんです。うち、あんま仲良くないから」

 傾き始めた太陽が、斜め上から私たちを見下ろしている。吹き続ける冷たい風が髪を弄んでいた。

「私、もう帰りますね。帰りが遅いと、また喧嘩になる」

 海に向けられていたケイの視線が、真反対に向く。海岸線とは反対の、おそらく、家がある方向。時間を確認すると、もう五時を過ぎていた。今から駅に向かって、電車で家に帰れば、七時は確実に過ぎる。

「私も、帰ります」

 会釈して、ケイに背を向けた。
 波の音が、海岸中に響いていた。

「明日も私、海にいるから」

 背後から、ケイの声が聞こえた。少し考えて、振り返る。釣りをする人の小さな影が、奥の方に見えた。砂浜の上に、ケイはもういなかった。波の音がしていた。







 家に帰ると、兄が真っ先に私の元まで来た。嬉しそうな顔で私の頭を撫でようとする手をかわして、リビングに行く。
 リビングには、私一人分の夕飯が用意されていた。皿にかけられたラップをはがして、箸を持つ。

「遅かったね」

 母が私を睨んだ。

「海に行ってたから」
「明日は一緒に過ごせるのよね?」

 私の向かいに座って、じっと目を見てくる。一瞬、頷きそうになる。母の鋭い視線に刺されながら、私は目を逸らした。

「明日も、海に行く約束、あるから」

 ぎこちない私の言葉に、母がわざとらしく大きなため息を吐いた。

「お兄ちゃん帰ってくるって言ったでしょ? 断らなかったの?」

 頷いて、ご飯を口に入れる。何の味もしなかった。
 突然後ろから頭を撫でられて、ぞわり、と鳥肌が立つ。

「まあ、家族には会おうと思えば会えるしさ、友達の方が優先しちゃうよな」

 背後から兄の声が聞こえた。
 面倒見のいい兄の模範みたいな台詞を吐いて、私のことを気遣う。
 背後にいる兄の表情は見えないけれど、きっと満足そうな顔をしているに違いなかった。
 嫌いだ。兄の、こういうところが嫌いだ。気持ち悪い。気安く触らないでほしかった。

「蒼も穹くらい融通がきけばねえ」

 母がぼやきながら立ち上がって、私のもとから離れていく。
 未だ頭を撫で続ける兄の手を払って、夕食を食べ進める。兄は何も言ってこなかった。





 階段を上り切ったところで、兄と目が合った。自分の部屋に入らずに、扉の前で立っている。下を向いて、前へ進む。兄を無視して自分の部屋へ向かう。

「海、どうだった」

 ドアノブに触れたところで、兄が話しかけてきた。冷たい床が、足を冷やす。何も答えずに、ドアを開けた。

「写真撮ってきてよ」

 思わず、兄の方を見そうになった。慌てて視線を正面に戻す。兄の場違いに明るい声が、余韻のように耳の中に残っている。扉にかかる自分の影がいつもより濃い。自分の呼吸音がうるさかった。

「明日も行くんでしょ、海」

 自分の部屋に入って、急いで扉を閉める。廊下よりもわずかに、自分の部屋の方が暖かい。一気に体から力が抜けた。閉めた扉を背に、ずるずるとしゃがみ込む。部屋の外で兄が何か言っているのが聞こえた。




 玄関のドアを開ける直前、気配を感じて振り返った。背後に母が立っている。

「海の写真、撮ってくるんだってね」

 朝の薄暗い玄関で、母の表情はよく見えなかった。掴んだドアノブを、動かしていいのかわからないまま、じっと母を見つめる。
 兄が言ったのだろう。私は、撮るだなんて一言も言っていない。兄の提案も、無視してやるつもりだった。こうやって母に言いつけて私を操るのは、兄がよくやる手口だ。

「楽しみにしてるから、いってらっしゃい」

 母の声が、静かに響いた。
 申し訳程度に頷いて、ドアを開ける。朝の白い光が、一気に玄関に差し込んできた。母の方を振り返ろうと思ったが、途中でやめた。

「いってきます」

 霞のような声で返事をして、ドアを閉めた。
 空には大きな雲の塊が浮いていた。分厚そうな影を身にまとって、鎮座している。
 写真を撮らなければいけない。
 兄の思惑に乗ってやるのは癪だった。けれど、母が絡むと、いつも私は兄の思い通りに動いてしまう。
 悔しい。胸のあたりに重たい空気が乗っているみたいな気分だった。
 チュン、と鳥の鳴き声が聞こえた。甲高い、スズメの鳴き声だった。







 ぐちゃ、と嫌な感覚が足から伝わってきた。足元を見ると、浜に打ち上げられた小魚を踏んでいる。

「あんまり近付かない方がいいですよ」

 背後から、ケイの声が聞こえた。
 振り返ると、白いワンピースを着たケイが立っている。

「波にさらわれちゃうし……」

 言いながら、私の足元を見る。私に踏まれて形の崩れた魚が、濡れた砂浜の上で空を仰いでいた。銀色の肌の隙間から見える赤い色が、妙に生々しかった。ざざ、と音を立てながら、波が私のすぐそばまで迫ってくる。

「遠くって、どのくらい遠くまで行きたいんです」

 言いながら、私は波から少し離れた。遠くの方で、鳥が砂浜で群れているのが見える。あれは、打ち上げられた魚を食べに来ているのだ。

「月へ」

 波の音に邪魔されることなく、はっきりとケイの声が聞こえた。声量が大きいわけでもないのに、まっすぐ私の元まで声が届く。ケイの顔を横からじっと見た。

「誰も探しに来ないくらい、遠くへ行きたいんです」

 空は相変わらずの晴天で、雲一つない。月はまだ浮かんでいなかった。太陽の光が、海を照らしている。
 ケイは何もない空をじっと見つめていた。

「それ、寂しくないですか」

 ケイの顔がゆっくりとこちらを向いた。目が、僅かに見開かれている。

「考えたこともなかったです」

 ざざ、ざっぷん。ひときわ大きな波の音が会話を遮った。思わず海を見る。波は変わらず、寄せたり引いたりして小魚を殺している。

「私、たぶん、取り憑かれているんです」

 強い風が、私の髪を吹き飛ばした。ケイの髪も、風の進路方向へ強く引かれている。風に紛れて、微かに海の匂いがした。

「海と、月に」

 ケイは海の方を見ていた。鋭い光が、波の揺れに合わせて踊っている。眩しくて、思わず目を細めた。

「だから本当は、夜の海に行きたい」

 オァー、鳥の鳴き声が頭上から降った。浜に打ち上げられた小魚が、全身を使ってびくっと跳ねた。

「危ないですよ」

 夜の海は。
 ケイの目が伏せられた。風に吹かれる髪が、何度かケイの顔を隠した。ケイが、ゆっくりと視線を上げる。

「どうせ行けないですから」

 ケイは少し悲しそうに笑っていた。細められた目の中に、諦めと憧れが混じっている。
 吹いていた風が、一瞬優しくなった。私たちを撫でるみたいに、風が通り過ぎていく。
 何か言おうとして、言葉になれなかった吐息だけが漏れる。気まずくて、目を伏せた。
 波の音が鳴っていた。
 チチチッと小さな鳥の鳴き声がどこからか降ってくる。遠くから、子供の甲高い叫び声が届いた。
 ポケットの中のスマホを握る。
 ケイはじっと海を眺めていた。

「兄に」

 ケイがこちらを見る。僅かに首を傾げた。

「兄に写真を撮ってこいって、言われたんです」
「お兄さんに?」

 頷く。

「撮ってもいいですか」
「いいよ」

 ポケットからスマホを取り出して、海の方へカメラを向けた。砂浜に横たわる小魚たちや、欠けてボロボロの貝殻の群れが写らないように角度を調整する。シャッターボタンを押そうとした直前、画面にケイが写り込んだ。勢いをつけた親指はそのままボタンをタップする。
 カシャリ、とやけに大きく音が響いた。
 うっすらと笑ってカメラに視線を向けたケイは、輪郭がぶれている。白いワンピースも相まって、亡霊みたいだ。
 私の正面で、ケイは肩を揺らして笑っていた。

「もう一枚撮りましょうよ」

 ケイが私の方を見る。そして、私とちょうど同じくらいの長さの指で、私を指した。

「蒼さんも入って」

 ケイがそのまま私の腕を掴む。ケイに引っ張られて、海を背後に二人で並んだ。ケイが写真を撮るように私に促す。スマホを持つ手が僅かに震えた。

「私、写真に写るの苦手で」
「私が写っているのも、蒼さんが写っているのも、たいして変わらないですよ」

 ケイが私の方を見て、笑っている。

「だって、どうせ、同じ顔」

 ケイの言うとおりだ。さっきの写真だって、兄から見ればぶれた私が写っているのと変わらない。私の方を見て笑うケイの顔は、そっくり私と同じなのだ。

「同じ顔が一つの写真に写っていたら、面白いと思いません?」

 気味が悪いと思う。

「一枚だけです」

 ケイが嬉しそうに頷いた。
 写ってもいいと思ったのは、面白そうだと思ったからではない。兄への、小さな嫌がらせになればいいと思ったからだ。
 気味の悪い写真を、兄に送り付けてやる。
 腕を伸ばして、スマホをかざす。内カメラに切り替えて、視線を上げた。小魚や貝殻が写り込むのも気にしないで、シャッターボタンを押す。
 思いっきり顔をくしゃくしゃにして、舌を出す。
 カシャ、とシャッターの音が響いた。






 靴を脱いで裸足になったケイが、濡れるのも気にしないで波に足をつけた。さっき私に近付かない方がいいよと忠告したくせに、その本人は躊躇なく海へ足を入れた。波を縁取る砂浜の上の小魚たちが、私とケイの間に境界線を引く。

「月が見えるとしたら」

 空を指しながら、ざぶざぶと海の中へ入っていく。
 空はまだ青かった。太陽の光が満ちた青空を、鳥が横切っていく。
 あまりに躊躇なく海の奥へ進んでいくから、なんだか不安で目が離せなかった。

「ケイさん」

 呼びかける。ケイはまだ上を見ていた。海水で濡れた真っ白な足が、また一歩、海の方に向かって進む。

「危ないですよ、ケイさん」

 ケイはこちらを見ない。まだ、上を見ている。強い風が吹いた。また一歩、ケイの足が進む。

「ケイ」

 ざざあ、と波が大きな音を立てた。ケイの体がよろめく。ようやく、ケイがこちらを向いた。

「蒼さんを見たとき」

 ケイの言葉が聞こえた。いつもより大きな声だった。

「ついに私のことを攫ってくれる人が現れたんだと思いました」

 ケイは泣きそうな顔をしていた。穏やかな波が、ざざ、と静かに揺れている。

「でも結局、月には行けませんでした」

 当たり前だ。私がケイを月に連れていくなんて、そんなことができるわけがない。
 空には、月の影すら出ていない。青い空だけが、ケイを見下ろしている。ケイの足を、揺れる波が撫でて、そのまま通り過ぎていく。

「墜落です」

 言葉の意味は、理解できなかった。

「遠くへ行きたいんです」

 ケイの声が、微かに震えていた。

「あんな所にずっといたらおかしくなる」

 小さな声だった。ケイの視線が一瞬下を向く。

「遠くへ」

 懇願するようにケイがじっと私を見た。今度は私の視線が下を向く。視線が少し彷徨って、またケイの方を見る。
 ケイの背後に広がるのは、ムカつくぐらいの晴天だ。昨日も今日も、空に雲は見えない。
 ケイの顔はこちらを見ていた。けれど、ケイの視線はどこか遠くへ向いている。
 ケイの言う遠くは、私が思っているような遠い場所ではない。ケイを遠くへ連れていく術を、私は持っていない。

「危ないですよ」

 ケイが悲しそうに笑った。ゆっくりとこちらへ戻ってくる。
 濡れた足に砂が付くのも構わずに、ケイはそのまま靴を履いた。ケイの白いワンピースの裾が少し濡れていた。

「私、帰ります」

 ケイが私に背を向けて、ふらふらと石階段を上っていく。白いワンピースに太陽の日を浴びて、輪郭の曖昧になったケイは、なんだか幽霊を彷彿とさせる。

「嫌なことがあったらここに来ます」

 最後に、ケイの背中に向かって叫んだ。ケイが、ゆっくりと振り返る。

「じゃあ、私たち、また会えるかもしれないですね」

 オァー、と鳥が鳴いた。
 ケイが階段を上りきる。ケイの姿が見えなくなるまで、私は砂浜に立って見ていた。




 帰りの電車の中で、兄とのラインを開く。海で撮った画像を一枚選択して、送り付けた。画面に表示された写真を見て、焦る。ぶれたケイだけが写っている、一枚目の写真だけがトーク画面に表示されていた。
 間違えた。
 消そうとしている間に、既読マークがつく。
「誰?」兄から、簡潔なメッセージが届いてひやりとした。
 ガタン、と電車が揺れた。向かいの席でせわしなく貧乏ゆすりをしているおじさんと、私の心拍数がシンクロする。
 友達、と打ち込みかけて文を消す。

「見分けつくんだ?」

 既読マークがついて数分、兄のメッセージを待った。

「見分けくらいつくよ」

 ぞわ、と鳥肌が立つ。

「キモ」

 勢いでメッセージを打つ。すぐに既読が付いた。そういうところも含めて、キモイ。
 ムカムカした気持ちを抑えながら、送りそびれたもう一枚の写真も送信した。

「似てる?」

 メッセージを添えて送ると、数秒経たずに返事が返ってくる。

「似てないよ」

 スマホ画面に映った私とケイの顔は、驚くぐらいそっくりなはずだ。
 ガタタン、と電車の走行音が聞こえる。おじさんの貧乏ゆすりの音が、やけに響いて聞こえた。

「ワンピースの子の方が、大人びて見える」

 偉そうなこと言いやがって。ムカつく。
 兄のメッセージと、スマホ越しのケイの顔を見比べた。
 兄の意見を受け入れるようで癪だけど、たしかに、私たちが似ているのは見た目だけだ。
 行動も、考え方も、ケイとは違う。積極的に写真に写ろうとしたケイを思い出す。ケイと私は、全然似ていなかった。
 既読だけ付けて、兄とのトーク画面を閉じる。ラインの画面を閉じようとして、母の名前が目に入った。指が彷徨う。親指が二回、宙で円を描いた。母とのトーク画面を開く。ケイだけが写った海の写真を送信して、すぐにトーク画面を閉じた。
 数秒して、手の中のスマホが僅かにバイブする。そのまま通知をタップすると、母のトーク画面が映った。

「いい写真だね」

 簡潔なメッセージが添えられている。
 電車が停まった。向かいの席の貧乏ゆすりおじさんが立つ。おじさんはそのまま駅を降りていった。

「そんな服持ってたっけ?」

 母のメッセージが続いた。
 ケイの言ったとおりだ。どうせ、同じ顔。ケイが写っているのも、私が写っているのも、たいして変わりはないのだ。
 発車し始めた電車の、規則的な走行音が聞こえてくる。穏やかな夕日が、電車の内側を橙色に染め上げていた。

「友達の」

 それだけ打ってトーク画面を閉じる。母からのメッセージが来ることもなかった。







 空を見る。憎らしいほどの蒼穹に、わずかに雲が浮いているのが見えて少し安心した。
 あの日、ケイが月が出るなら、と指を指していた空に、相変わらず夜の気配はない。薄っすらと青い空に、太陽の眩しさだけが満ちている。

 嫌なことがあったらまた来ると言った。
 ケイはそれに、また会えるかもしれないと答えた。
 それなのに、あの二日間以降、海でケイを見かけることはなかった。濃い影が、砂浜の上に落ちている。穏やかな波の音が、途切れることなく続いている。
 波と砂浜の境に、相変わらず死にかけの小魚が境界線を引いていた。小魚を踏みつぶさないように慎重に境界線を跨ぐ。
 興味本位で海に足をつけたら、冷たかった。けれど、肌を刺すほどの冷たさではない。絶え間なく揺れる波が、私の足を撫でていった。
 チチチ、と鳥の鳴き声が聞こえた。

 ケイはきっと、どこか遠くへ行くことができたのだろう。なんとなく、もう海には現れない気がした。
 陽の光が、海を照らしている。
 時計を確認すると、十一時五十六分を指していた。
 海を出て、足を拭き、靴を履く。スマホで近くの飲食店を調べる。
 空から視線を感じたような気がして、顔を上げた。振り返っても、空には何もない。

 月が見えるとしたら。

 あの日の、ケイの言葉が頭の中で再生した。ざざあ、と波が鳴いた。記憶の中のケイの指先を思い出して空を辿る。
 月が見えるとしたら。
 遠くへ行きたいと願えば私も遠くへ行けたのだろうか。
 ケイが指していた方角に向かって手をかざす。指の隙間から見える空はどこまでも青くて、やっぱり月が見えることはなかった。

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