夢見る魔法少女
理想の男の子だった。
物語の中に出てくる王子様のような、ずっと、夢見ていた、理想の、男の子。
先生の後ろについて教室に入ってきた彼は、とても美しい顔立ちをしていた。そのきれいな顔を、ぶすっと顰めて、つまらなさそうに自己紹介をする。
その彼が、先生の指示で私の隣の席に座った時、私のことをそっと見て、ふわりと笑った。
「よろしくね」
内緒話のように小さな声で彼にそう話しかけられて、私は頷くことしかできなかった。頬が熱かった。
休み時間になって、他のクラスからたくさんの女の子たちが彼を見に来ても、彼は私にしたみたいに笑いかけることはなかった。
帰りのホームルームが終わって、帰ろうとしているときも、彼が選んだのは私だった。
「家、どっち」
驚いて見回しても、彼が向いている方向には私しかいない。教室の隅でちらちらと彼を気にする女子の視線が、時々私のことを刺した。
「駅と反対の方」
「同じだ」
柔らかく笑う彼の顔に暮れかけの日がかかる。日に照らされた彼の顔は、幻みたいに美しかった。
まるで夢が叶ってしまったみたいだ。ミサンガはまだついているのに。
家に帰ってすぐ、部屋中に散らばった占いやまじないの本を片付ける。帰り道でさっそく彼と遊ぶ約束をしたからだ。ありえないほど順調だった。サラサラの髪の毛も、長いまつげも、私にだけ優しいところも、全部、全部ずっと夢に見ていた理想の男の子だった。
本当に、夢を見ているみたいだ。
ジュースを飲む姿すら彼は美しかった。私も同じコップを使っているはずなのに、彼が触れたものだけが特別ステキに見える。何の変哲もない私の部屋なのに、彼のいる部分だけが光り輝いて見えた。その彼が、私だけに微笑んで、私だけに優しくしてくれる。
本棚に収まった少女漫画が私を見ていた。
いっそこれは、夢でないと可笑しかった。
コップから口を離した彼がこちらを見て首をかしげる。
「どうしたの」
「まるで、夢みたいだって、思ったから」
私の言葉を聞いて、彼の眉が少し下がった。
「夢だって思ってる?」
彼の眼を見る。
「夢だって」
彼の瞳はじっと私を見つめていた。まるで、懇願するみたいに。
「思ってる」
唇が震えた。
目の前の彼の顔が、一瞬くしゃりと歪んだ。そして、それから悲しそうに笑った。
「そっか」
彼の優しい声が部屋に静かに響いた。それから彼は私に近付いて、そっと唇を重ねた。彼の唇が熱いのが、自分の唇越しに伝わってきた。
どうして彼がキスをしてきたのかわからなくて、彼の顔を見る。彼は少し悲しそうに微笑んで、それから私の手を引いた。
ああ、きっとこれは夢なのだ。
私の手を掴む彼の手が冷たかった。
彼は私を台所まで連れていった。彼は台所から包丁を取り出してきて、私に握らせた。どうして彼が私の家の台所の場所も、包丁がしまってある場所も知っているのかわからなかったけれど、私は彼の言うとおりにしていた。だって、夢だと思っていたから。
彼の手が包丁を握った私の手をそっと導いて、彼の腹を刺した。刃物が肉を突き刺す重たい感触が包丁越しに私の手に伝わった。私の手に触れる彼の手の力が徐々に抜けていくのがわかった。彼の腹の、包丁で刺したところがじわじわと赤く染まっていく。
「この感触を覚えていて」
夢じゃないのかもしれない。サァ、と体の体温が下がっていくのが分かった。背中に嫌な汗をかいている。
彼が最後に私の頬を撫でた。苦しそうな息遣いが聞こえる。そしてそのまま、倒れてしまった。
気が付くと、ベッドの上だった。昨日彼を刺してからの記憶が思い出せない。部屋を出て慌ててリビングに行くと、母がいて、何もなかったみたいに朝食の用意をしていた。
「ねえ、ここで何か……起こってなかった?」
母が振り返って、訝しげな顔をする。
「何言ってんの?」
「なんでもない。寝ぼけてた」
台所の床には血の染みすら見当たらなかった。
教室にも彼の席はなかった。私の隣は空っぽになっていて、椅子や机すら見当たらなかった。出席で彼の名前が呼ばれることはなかった。さらに言えば、私は彼の名前すら、もう思い出せなかった。
このまま何もかも忘れ去ってしまいそうで怖いのに、朝から唇の熱が消えない。手のひらにべったりと張り付く、嫌な感覚もずっと残っている。
昨日のことを思い出して、泣きたくなった。夢だと思ってるなんて、言わなければよかった。そしたら、きっと甘い夢の中で生きていけたのに。
ふと、消しゴムの隅に黒い模様が見えて、カバーを外した。裸になった消しゴムの側面に、油性ペンで知らない男の人の名前が書いてある。
知らない名前なのに、なぜか忘れちゃいけない気がして、そっと名前を指で撫でた。
手のひらが少し震える。唇が、より一層熱を持った気がした。
物語の中に出てくる王子様のような、ずっと、夢見ていた、理想の、男の子。
先生の後ろについて教室に入ってきた彼は、とても美しい顔立ちをしていた。そのきれいな顔を、ぶすっと顰めて、つまらなさそうに自己紹介をする。
その彼が、先生の指示で私の隣の席に座った時、私のことをそっと見て、ふわりと笑った。
「よろしくね」
内緒話のように小さな声で彼にそう話しかけられて、私は頷くことしかできなかった。頬が熱かった。
休み時間になって、他のクラスからたくさんの女の子たちが彼を見に来ても、彼は私にしたみたいに笑いかけることはなかった。
帰りのホームルームが終わって、帰ろうとしているときも、彼が選んだのは私だった。
「家、どっち」
驚いて見回しても、彼が向いている方向には私しかいない。教室の隅でちらちらと彼を気にする女子の視線が、時々私のことを刺した。
「駅と反対の方」
「同じだ」
柔らかく笑う彼の顔に暮れかけの日がかかる。日に照らされた彼の顔は、幻みたいに美しかった。
まるで夢が叶ってしまったみたいだ。ミサンガはまだついているのに。
家に帰ってすぐ、部屋中に散らばった占いやまじないの本を片付ける。帰り道でさっそく彼と遊ぶ約束をしたからだ。ありえないほど順調だった。サラサラの髪の毛も、長いまつげも、私にだけ優しいところも、全部、全部ずっと夢に見ていた理想の男の子だった。
本当に、夢を見ているみたいだ。
ジュースを飲む姿すら彼は美しかった。私も同じコップを使っているはずなのに、彼が触れたものだけが特別ステキに見える。何の変哲もない私の部屋なのに、彼のいる部分だけが光り輝いて見えた。その彼が、私だけに微笑んで、私だけに優しくしてくれる。
本棚に収まった少女漫画が私を見ていた。
いっそこれは、夢でないと可笑しかった。
コップから口を離した彼がこちらを見て首をかしげる。
「どうしたの」
「まるで、夢みたいだって、思ったから」
私の言葉を聞いて、彼の眉が少し下がった。
「夢だって思ってる?」
彼の眼を見る。
「夢だって」
彼の瞳はじっと私を見つめていた。まるで、懇願するみたいに。
「思ってる」
唇が震えた。
目の前の彼の顔が、一瞬くしゃりと歪んだ。そして、それから悲しそうに笑った。
「そっか」
彼の優しい声が部屋に静かに響いた。それから彼は私に近付いて、そっと唇を重ねた。彼の唇が熱いのが、自分の唇越しに伝わってきた。
どうして彼がキスをしてきたのかわからなくて、彼の顔を見る。彼は少し悲しそうに微笑んで、それから私の手を引いた。
ああ、きっとこれは夢なのだ。
私の手を掴む彼の手が冷たかった。
彼は私を台所まで連れていった。彼は台所から包丁を取り出してきて、私に握らせた。どうして彼が私の家の台所の場所も、包丁がしまってある場所も知っているのかわからなかったけれど、私は彼の言うとおりにしていた。だって、夢だと思っていたから。
彼の手が包丁を握った私の手をそっと導いて、彼の腹を刺した。刃物が肉を突き刺す重たい感触が包丁越しに私の手に伝わった。私の手に触れる彼の手の力が徐々に抜けていくのがわかった。彼の腹の、包丁で刺したところがじわじわと赤く染まっていく。
「この感触を覚えていて」
夢じゃないのかもしれない。サァ、と体の体温が下がっていくのが分かった。背中に嫌な汗をかいている。
彼が最後に私の頬を撫でた。苦しそうな息遣いが聞こえる。そしてそのまま、倒れてしまった。
気が付くと、ベッドの上だった。昨日彼を刺してからの記憶が思い出せない。部屋を出て慌ててリビングに行くと、母がいて、何もなかったみたいに朝食の用意をしていた。
「ねえ、ここで何か……起こってなかった?」
母が振り返って、訝しげな顔をする。
「何言ってんの?」
「なんでもない。寝ぼけてた」
台所の床には血の染みすら見当たらなかった。
教室にも彼の席はなかった。私の隣は空っぽになっていて、椅子や机すら見当たらなかった。出席で彼の名前が呼ばれることはなかった。さらに言えば、私は彼の名前すら、もう思い出せなかった。
このまま何もかも忘れ去ってしまいそうで怖いのに、朝から唇の熱が消えない。手のひらにべったりと張り付く、嫌な感覚もずっと残っている。
昨日のことを思い出して、泣きたくなった。夢だと思ってるなんて、言わなければよかった。そしたら、きっと甘い夢の中で生きていけたのに。
ふと、消しゴムの隅に黒い模様が見えて、カバーを外した。裸になった消しゴムの側面に、油性ペンで知らない男の人の名前が書いてある。
知らない名前なのに、なぜか忘れちゃいけない気がして、そっと名前を指で撫でた。
手のひらが少し震える。唇が、より一層熱を持った気がした。
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