落
遠景に見て、満開に咲き誇った桜の花の眺めのことを古来より花霞と呼ぶそうだが、確かになとレオナは思った。
四月の午後、学園長よりの遣いとして黎明の国本土にある魔法士養成学校――ヤマトまほろば魔術学校(通称YMM)に通信使として訪れた折のことだ。寮長位の中より櫛引で選ばれたレオナとイデアは二人、最寄りの国鉄の駅へ向けて大きな河川沿いの土手をのたくた脚を引きずるようにして歩いていた。つまり帰路である。平日の昼下がりであるがこの河原には、保育園児だろうか、前と後ろにひさしがついたカラフルな運動用の揃いの帽子を被った子供と小鳥が群れをなしていて、眠たくなるような酸素濃度の薄さで、麗らかの割に賑やかだった。或いは、小さく柔らかい生き物がたくさん、健やかにはしゃぎ回れる程平和ボケしているからこの国は物理的に酸素濃度が低いのかもしれない。そのくらい息苦しくて賑やかだった。この土手には、道沿いにずっと並んで桜が植樹されていた。これは河原に下る石段の古さやこれに馴染む景観の中の桜の幹の太さ、古さを見ればここ近年で急に植え付けられたものでないことは明らかである。木々は、この地に長く根付いているのだろうだけあって一つ一つが大層見事な枝振りをしていて、そしてその枝々に小さな花を満天とつけているのだった。レオナは元より花を眺めるなんて典雅で愛と道徳心に満ちた人として恥ずべき趣味を持つような女々しい男ではないのだが、これはその大の男でさえ感心する程大した光景であった。細い梢にまで広がる満天の花の柔らかな天蓋が、高さを、手広さを、花の身頃のふくよかな奥行きを保ったままずっと遠くまで、それこそ遠く先の木が小さく……けぶるような光の粒に見えるほど、ずっと遠くまで続いている。この道を中々向こうまでゆかねばならないと考えると気が滅入ったが、その歩調の怠惰を強制的に跳ね返すほど、花のみちは見事で、夢みたいに穏やかだった。遠景に見て、満開に咲き誇った桜の花の眺めのことを古来より花霞と呼ぶそうだが、これは確かに遠くに行くほどそうだった。花の一つ一つが小さすぎて、そしてその花弁がまた日に透けるほどに薄すぎて、あまり個として際立って見えないのだ。朧気に見えるのは一つの付け根から二つ三つと幾つも軸が伸びてその一つ一つに花が付く、纏まった咲き方をするのもあるのかもしれないが……。また、河川越しに向こうの岸……同じような土手に見える桜の並木も見事であった。寧ろこれのほうがいよいよ霞の如きかもしれない。こちら側より随分と低いところに植え付けられているのか、河べりに低く低く垂れ落ちた枝が旋風に花の腹を膨らませて……さわさわとさざめいて濁った緑灰色の水面を撫でる様など、非日常的に美しい。
賢者の島は区分上は黎明の国の領ということになっていたが、黎明の国は数々の小島を国土に有する島国で、その中でも彼の島は本土より特に程遠い。故に文化的には黎明の国にはさほど迎合すること無く、現在の国境が引かれるより前の……島内で独自に築いてきた文化史跡が基本そのまま重用されていて、立場としては従属国というより保護供与国としたほうが正しかった。極めつけに島は今でも遠い昔に島を治めていたという魔法使いとその弟子、彼らに習った精神性、ひいては民族性を重んじているというのだから栓のない。黎明の国は宗主国としては中々寛容な国だった。各属国の自由な統治どころか自由な文化の発展を許し、強制力を持って植民地化することもなく寧ろ本土が諸手を挙げて属国で各々発展した文化を自らに取り入れ、今や本土の文化の方が複雑怪奇に侵食され魔境化している始末。そういうわけで黎明の国は雑食で、この国の本土に行けば何でもあったし、反対に本土以外には中々古来よりの黎明らしさという部分は見つけることが出来なかった。休題。
賢者の島は区分上は黎明の国の所轄領ということになっていたが、あの島にあって黎明の国らしさを感じることは無いに等しい。桜は本土では国花とさえ定められた、人の生活に根付くポピュラーな花であるらしいのだが、賢者の島内で春の訪れに、この淡い雪のような花を見る機会は無かった。また知識としては斯様な樹木が存在することを知りこそすれ、彼らの故郷はさらに全くの遠い国にある為、肉眼でこれを見る機会は益々無かった。黎明本土に渡ってくる機会も基本的に無く、まず桜の花の寿命も極短い為要は彼らがこの花を本当の意味で目にしたのはこの使いにやられた日が初めてであった。
その途方も無い遠景を眺め、また土手に草が開かれ、踏み固められた土で作られた歩道の先を行くイデアを見てレオナは、今度は人として当たり前のことのように、あの女、桜に攫われそうだぜ……と思った。彼はネットミームについての知識こそ持たないものの、感傷的な文系然としたロマンチックさと妙に古式ゆかしく乙女チックなポエミーさと普通に恋心に曇った目を持っていたので。常日頃から乱暴者たちの大頭領として生きている反動か儚げなものあれば過剰に儚いと、花を見るありふれた感傷と同様に時にはもののあはれを懐かしんでみたりするらしいのである。然り。
抜けるような春の晴れ渡った空は温かい金色の陽光に滲んでいて淡い。純粋な蒼穹とは違って、一面に白金の極薄い紗がかって、その遠くに朧気に青天井が透けて見えているような、澄んでいない眠たい青をしている。そこに触れれば溶けて消えゆきそうな大人しい薄白の花霞が重なると、これはまるでイデアと同じ色をしているのだった。元より彼女に健康美的な印象はまるで存在しないが……幸福の象徴みたいな色をした春の麗らかな日差しに、神秘的な髪の青い炎をほしいままに透かし、たなびかせて。シミ一つない清らかな新雪のなまっちろい肌をほのかに艶めかしく火照らせて、花と同じ色に輝かせて立っていると、のっぺりとした息苦しい春の温度にそのままじんわり溶けてなくなってしまいそうに見えるのだ。頼りない痩躯に枝の花を好きずき膨らませて遊ぶ、むらのあるつむじ風が当たるとそこから、ほろほろと容易く散る花弁と同じで、簡単にはぐれて消えそうだった。レオナはつい、彼の隣を体感淑やかに……彼女としては悄然と歩く光った横顔をぼけらと口を開けて眺め、次第にその平和と剥離したような美しさに胸のうちを引き摺られるような僅かな焦燥を覚えた。春の日差しを煩わしそうにする生物が果たして存在していいものなのか、木漏れ日に千々に斑な彼女は燐光を憂鬱にとろとろ仄めかせて古い御殿の屏風絵みたいだ。埃を被ってうっそり眠っているのが似合いのような静かな美貌が見事な花嵐に巻かれて、いよいよそこだけ現実味が無い。それには多分に、彼女が今平和たちと同じ環境を共有しているとは到底思い難い面持ちをしているのもあり。
彼女の冷たい金属色の瞳には、麗らかな陽光と淡くとも白く光る花は特に眩しいらしかった。神経質そうに下瞼を持ち上げ眇めた目を時折しばたかせて、控えめに言ってものどかな平和を享受している者の顔つきではない。穏やかな春の木立の中、彼女だけは十字架を提示された時のバケモノと殆ど同じ表情をしている。
*
この女がレオナの青春に住み着いたのは、果たしていつの頃からだったろうか。思い返そうにも何か決定的なはっきりとした記憶があるわけでは無かったので、結局は気がつけばとするのが正しかろうが、ある折から明確に彼女の存在はレオナの意識の端にいつも魚の小骨のごとくちくちくと引っ掛かっていた。
何だかの折に、レオナはイデアをおぶって歩いたことがあった。彼女がたまたま生身で出席していた寮長会議の帰り際のことだ。閉め切られた教室内での脳の酸欠の疲労故眠たくなりながら立ち上がりかけると、ズダァン!と爆発的にすさまじい音がして、そちらを見ると彼女が倒れていた。どうも少し離れたところに立っていたアズールと話しながら教室内の階段を上っていたところ(この講堂は出入り口から巨大な黒板のある中心部へ向けて下っていく、わかりやすく言えばすり鉢状のつくりをしていた。)、足元が疎かになって転倒したらしいのである。しっかり顔面から転んだらしく、あまりにスゴイ音がしたので他の寮長たちもサワサワ寄ってたかって見てみれば、黒のタイツに隙なく守られた足が奇妙な方向に捻じれていた。
不慮ではないケガなど存在しないのでそれもまた当然のことであるが、不慮の骨折を目で確かめて自覚してしまったが為に一周回って冷静にハイになっているらしいイデアと、借りなど人生上絶対に作りたくないのにも関わらず先輩である女生徒が目の前で大怪我を負ってしまったアズールが動転してまるで使い物にならなかったので、二次災害を防ぐべくひとまず二人を平坦な場所へ、出来ればイデアはそのまま保健室へ運び出そうということになって、仕方なくレオナもこれに手を貸す羽目になった。イデアは痩せぎすと言えど女にしてはかなり身長があったから、手を貸すにもその場に居合わせた人員ならレオナかマレウスでないと体格的に厳しかったのも大きい。つまるところ、この日レオナはそのマレウスにじゃんけんで負けたので、イデアを連れ出す任を背負わされたというわけだ。
換気の行き届いていない本校舎三階の廊下を、レオナに負われて連れられるイデアは痛みと動揺のあまり脳がバグっていたのか、そうでなかったのか知れないがやたらと気が大きいようで「どうもすいませんね笑」とかなんとか当初よりヘラヘラと言っていた。負担を強いている分際で何をとも思ったが、その態度は空元気やもしれず、その証左に彼女は血の気の引いて真っ白な手でやけにレオナの首っ玉にしがみついてくる。また背に密着した胴からは絶えずドブ、ドブ、とやたらと巨大な鼓動が伝わっていたので、レオナはなんだか哀れに思えてしまってこの女の思い上がりに何を言うこともできなかった。この親切が運の尽きである。
その折までレオナにとって長らく彼女は、できればあまり近付き合いになりたくない人種と言うのが正しかった。というかイデアは大体全ての生徒に積極的には関わたくない面子として認識されていたように思う。そして危惧するまでもなく近寄る機会も無い生徒。彼女には類まれなる才能があり、強いて言うならレオナはその点に関しては僅かばかりの興味があったが、彼女はそこへその能を優に上回る異常なほどの性格の悪さと捻くれた我の強さと、最早アンチナタリズムに基づいた頑強な差別主義思想を持っていて、その上非常に弁まで立つ。何か一を言うと避けられるか、はたまた十のちくちく言葉と学術的見解に基づくエビデンスを提示してきて剛腕捻じ伏せ弾丸論破に至るので穏便な会話はまず絶対に成り立たない。そんな異常者と好き好んで関係を築きたいバカは中々いないだろう。居たところでイデアは自分より頭の鈍くリスク管理の出来ない劣等種のことをあんまり好きではないらしかったから、仲良くなれるかはさもありなん。つまるところ彼女の方からも、彼女からしたら家畜とかに近い劣等種……他生徒たちとはあまり近づきになりたくないようだったから、寧ろタブレット一枚を隔てると世界と彼女はそれがさも正しい形かのように割に穏やかに共存することができていた。休題。
この折までレオナにとってイデアという女はこの通り、無条件に好ましい人種……では全くなかったわけであるが、さて彼女を背に負うてみてどうだろう。彼がまず抱いた感想は『思ったよりも相当細くて軽い』とのことである。彼女は元々控えめに言ってもとても健康そうには見えないが、通年妙に着膨れしており実寸よりさらに嵩張って見えていたらしい。サイズ感こそそこらの生半な男子学生諸君より随分見栄えがして……どころか己と同程度あるように見えていたので、レオナはその中身のあまりの頼りなさに案外新鮮に驚かされた。
そうして物理的に防御力の低そうな無防備な身体を預かり、歩くほどに満たされたのは持ち得る筈もなかった庇護欲に似た感傷である。レオナはイデアを女だてらにか弱げな様子をまるで見せず、レオナと同じく寮を一人で統治し他の追随を許さぬ知略であらゆるを捩じ伏せて見せる、故郷では見ないタイプの一種女傑として認識していたので儀礼上はともかく、個人的にはこの一驚異の個体へ庇護欲など湧くはずもないのだが、この時覚えたのは紛れもなくそれに類するなにかだった。
あるいは優越感があったのかもしれなかった。彼女本人の従来よりの肉体の物理的な頼りがいはともかくとして、この時の彼女は諸都合によりきっとレオナに頼るほかに道はなく。当然の帰着とは言え、常日頃より人一倍気丈すぎる女がその瞬間だけはやる瀬なくレオナに生殺与奪の権を大人しく握らせているということに、さもしい支配欲が満たされていたのかもしれない。レオナに背負われたイデアは、どうしてもレオナを離すと困るのだった。請け負ったのは彼女の足の代わりの役で、この瞬間ばかりは彼は彼女の一部でもあった。イデアからすれば途中で降ろされては立ち行かないし、乱暴に振りほどかれなどすればきっとたまったものではない。だから大人しく怯えて機嫌を損ねないよう、淑やかにレオナの支配下にいるのだろう。つまりは多分、この矜持を捨て去った姿の哀れを広義の愛故と誤解したのだ。彼女の儚い女の身体がレオナの誤認に拍車をかけた。この当初抱いた無垢で愚鈍な思い上がりがいつごろ確固とした執着心に変わり果てたのか、レオナにはっきりとした自覚は無いが、恐らくその負ぶって歩いた日の記憶こそがイデアという女個人を再認識した一助となっていることは疑いようもないと思う。
イデアの骨は結局綺麗にぽっきりと折れていたらしく、保健室に担ぎ込んで然程も経たないうちに元通り真っすぐくっついた。(近代においては魔法医療技術の発展により、単純な骨接ぎ程度なら然程負担もなく治すことができる)今となってはこの通り、彼女は最早何事もなかったかのように、細くて長くて真っすぐな脚を黒のタイツに包んでレオナの前を横を、つかず離れず歩いていく。足跡に散った桜があえなくにじられて、靴底に張り付き翻る。彼らの間に肉体の触れ合いがあったと言えばそれきりで、故にイデアはレオナの執着をいつまでもまるで知りもしないままのように軽やかで無邪気で無防備だった。
ヤマトまほろば魔術学校で歓待を受けた後、昼時であったので学食を利用してみてはどうかという話になって、有無を言わせず案内を受けた今日の日もそうだ。ただでさえ不得手なのであろう大多数の他人と食卓を囲む苦痛に耐えかねて、完全なる他人の中に放り込まれるより見知った他人を盾にした方がマシと考えたのか、イデアはしきりとレオナの後ろをついて回った。逸れると困るとでも思っているのか、大好きな携帯端末より熱心ににレオナの背を追いかけ見つめ、視線をやれば目が合って、話しかければ心持ち穏やかに……まともな会話が成立する。日頃レオナの傍になどちっとも寄り付きもしないくせに、こういう折ばかり妙に気を許したようなふりをしてみせて誰よりも近い傍らに立ち無邪気に人の心を弄ぶ。
そしてこれに優しくしてやると豪気にもそのままつけあがり、ほろほろとほどけるように笑みを見せてみたりする。まるで彼女こそ、偽りの親愛に騙されているかのようにそれは実に自然な塩梅なのだ。
レオナはこのようなイデアの打ち解けた様子に酷く弱くて、最早かいがいしく気に掛けるのをやめることができなかった。それで得られるのが目に見えて一過性の信頼と解していれど、彼女のパーソナルスペースに踏み込んで柔らかい部分に触れる快楽に捕らわれ一向に突き放すことができないのである。一方的に思いを寄せているとは言え所詮これといった関係のない相手なのだから放っておけばよいのに、彼女に何か困ったことがあればつい手を差し伸べてしまうのだ。
というのも、彼女のパーソナルスペースは基本的にひどく広すぎるものだったから、レオナは隙につけ込むことでしかまず対話の舞台に上がれない。そもそも彼らは前提条件としてお互いに全く素直ではなかったので、正攻法での意思疎通となると、無駄とわかっていれどの防御姿勢で本題に行き着くまでにきっと途方もなく長い時間がかかるのだ。その点を一息に飛び越える手段を分かってしまったのだから、楽な搦手に甘んじるのも然り。
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かの馴染みのない学食の馴染みのない人種の群れを出て、やっとレオナの陰に隠れなくなったイデアは、肌当たりの丸くてほんのり冷えて湿っている風に長い睫毛を数度はためかせ、一つ、味わうように長く目を瞑ってからレオナを振り返りふと見つめる。風の音のずっと遠くに列車が断続的にレールを踏む音がして、それがいやに間延びして聞こえて遠かった。穏やかなこの国には穏やかで大人しい民族ばかりが住んでいて、それは幼児にしたっておしなべてであったから、子供の歓声と言ったところでつつましい僅かばかり。耳に触るほどではなくて、どこか全てが春風の中、襖を隔てているかのように他人事みたいに聞こえている。枝の内側を、小さく丸い小鳥がついっと飛んでいく。その日に翳った腹を下から見上げ、イデアはふと呟いた。
「サクラの木の下には死体が埋まっているって言うけどさ、それってきっと君みたいなやつの死体なんだろうね」
麗らかの中に、イデアのその笑んだような声ばかりがやけにはっきりと響いて思わずレオナは眉を顰めた。
「……なんだ、カジイモトジロウか?随分と情緒のあることで」
「いやぁ……それほどでもありませんが」
「褒めてねえよ。……折角行楽にいい日和だってのに急に死体役にされた俺の気分はどうだ?人を慮る心をご存じでないと見える。意図を伺っても?」
「え、ぁ、……や、……特に意味もないんだが……」
「……強いて言うならこの辺の花、何かめっちゃ精力的に咲いてるから。
美しいものがすべからく死体を養分にしているとしたって、死体自体にそもそもめっちゃ栄養があって然るべきだよなと思って……?君とか……若くて、健康で、漲っていて逞しめだし。なんか特に栄養とかがありそうだと思って……」
などと言い、イデアは視線を僅か外すとレオナ越しに遠くを見た。
イデアの歩く河川側とは打って変わって、歩道のゆく土手を挟み、レオナの向こうには土手を下って住宅街が広がっている。彼女は黎明の独特な建築の、くろぐろとした甍の波を眺め、照り返す強い光線に眩しげに目を細めるとゆっくり前に向き直り、まだ先の長い道の果てを見た。彼女の白い面差しに細い風がさらさらと当たって重たい前髪がうねるように揺らめいた。レオナは彼女のその視線の艶に、静かに息が詰まって喉を鳴らす。獣人族と違って秀でた聴力を持たない彼女はその主張にも気が付かなくて、それきり振り返ることはない。
黎明の国は春の陽気で、河原の風こそ冷たいが日差しはひたすらに、柔らかく穏やかに温かい。風が立ったとて花と水面の表面を軽やかに掻き乱して陽の色に明るく光らせるばかりで、真綿でじわじわと絞めつけられるようなほの温かさはまんじりともせず立ち消えることはけしてなかった。この国の、先立つ名も無い数々の献身により作られた安穏は彼を息苦しい気持ちにさせた。それは、彼ばかりはやはり安寧が努力により守られたものであると分かっているからだ。自然を意志により捻じ曲げて軌道に載せた平穏の、歪さたるや。彼女は近いのに前より遠い。
彼らは一つの共同体として同じものを見たとて、そこで至る思いが真に重なることは無い。彼女は襖にしてもタブレットにしても、レオナと一枚世界を隔てたところでずっと彼女の思惑を守っている。互いの献身により成立している一過性の安寧が、それの過ぎ去るつれなさが、大きな波風の立たない穏やかさがいっそ彼の孤独を浮き彫りにさせる。相容れなさは孤独だった。
桜の満開の下の、恐ろしさの秘密は孤独だと先んじた誰かが書いたが、それはきっと当たらずとも遠からずだろうと思う。改めてレオナは、彼女を見て桜の中に掻き消えそうな残酷で無垢な美しい女だと考えた。
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