子連れライオン/エヴァンゲリオン
子連れライオン/エヴァンゲリオン
イデア・シュラウドが記憶諸共小さくなった。
とある魔法の暴発に巻き込まれ得た作用とのことであったが、これが数日は戻らないと言う。その間の処遇を検討すべく寮長達が招集されて暫く、この日の会議は踊った。
「……えー、誠に遺憾ではありますが、彼女の現在判明しているパーソナルデータ等に基づきまして、シュラウドくんは当待機期間中イグニハイドでは預かれないという運びとなりました。本来では代表保護者となりますオルトくんですが、諸事情ありまして、彼女の力もこの間一切頼ることができません。従って当校ボランティア部の皆さんには……」
「誰がボランティア部ですか」
「子守しに学校に来てるんじゃないんだが」
「ちょっと与党だからって調子に乗るなよ」
「帰れ」
「だまらっしゃい!当校ボランティア部の皆さんには!全面協力体制を敷き子守をしていただきます!」
「大体オルトが協力できないっていうのはどういうことなんですか?」
「ムッ、鋭いですね。都合が悪いので黙秘権を行使することはできますか?」
「良いわけ無いだろ」
「いやはや、シュラウドくんのセンシティブな内情に踏み入ってしまいかねないという個人的な都合が第一にありますから、こちらから開示できる理由としてはかなり表面的なものになってしまうんですが……」
学園長が述べるにはこうである。
まず彼女の幼少期とも呼べるようなその昔、イデアはとある事故により実妹であったオルトを喪ったと言う。それを受け、その妹を模し造り上げられたのが、現在存在するヒューマノイドたるオルトであるということ。そしてこの過去こそが今回、彼女の半生に大きく横たわるブラックボックスだと考えられていると言う。
「えー、つまるところ現在存在するヒューマノイドとしてのオルトくんというのは、イデアくんの幼少期には有り得なかった存在になるんですね。
現在のイデアくんから聞き出した年齢とオルトくんの持ち合わせた情報を照らし合わせた結果、イデアくんはまだオルトくんを喪った齢に達していないということで。イデアくんはオルトくんのヒューマノイドが生み出されることをまだ知らない。
また、身体が縮んだというのは記憶ごと巻き戻ってしまったということで、過去から来た肉体と取り替わってしまったわけではないんです。これは本来持ち合わせていたものの大部分が失われたというわけではなく休眠状態にあるということなんですね。
このように肉体と記憶が強固に結びついたまま意識が確立している現在の状態で、さて罷り間違って肉体年齢以上の記憶が引きずり出されてしまったら?記憶領域における混濁とダメージは計り知れないでしょう。
従って、彼女の蓄積してきた過去に触れさせることはあまり望ましくない。オルトくんについても、彼女の私室についてもです。オルトくん曰く、実家から持ち込んできた趣味の私物が物凄く沢山あるとかで……」
「知ったこっちゃないな……」
「従って!彼女個人と他生徒の交流に適当に監視の目を入れ口裏を合わせること!後保健室や教職員宿舎に泊めてもいいんですがね、大人より……少人数の年の近いお友達が近くにいた方が心が休まるでしょう。お友達の方泊めてあげられませんか?」
「この中にオトモダチがいるって本気で思ってそう言ってるなら総合病院で目と脳を診てもらうかRSAとかの教員に転任したほうがいいわね」
「俺泊めてやろうかなあ。宴をしたら緊張もほぐれるかもしれないし」
「流石にそんなわけないだろ」
「とにかくイデアに会ってみたい!」
――――――
「……みの虫?」
「……ッわ、……ぁ……」
果たして。長い付け爪の学園長の手に導かれてやってきたのは、頭からヒヨコちゃん柄の毛布を被った本当に年端もいかぬ子供であった。布の隙間からギョロギョロとした目だけを出し、辺りを伺っているらしく、その癖近くのリドルが覗き込むとちいかわみたいな声を出す。毛布から伸びる脚は生まれたての鹿のように真っ直ぐで、柔らかそうにか細く、震えていて、然しそこには既に真っ白のクルーソックスとサイズのピッタリ合ったセピア色の革靴を履いている。
「ここに来る前にサディスティック犬おじさんに服を見立てられているんですよ。まぁ手の早いこと早いこと……」
「怒られるぞ」
「チクらないでくださいね。
……いいですか、シュラウドくん。君は体験入学生として、暫くこの学校で暮らすのです。その間はさっき教えたように、主にこの人たちが君を助けてくれますからね。だからそう、先生の後ろに隠れずとも良いんですよ。先ずは話してみてご覧なさい。きっとお友達になれますよ。意地悪されたりはしませんとも。だからこれっ、もうそんなにギュッと握らなくていいんです。お尻がシワになってしまう。これっ。ズボンを脱がそうとしない!大丈夫ですから、案外やってみるもんですよ」
イデアはクロウリーの述べた展望とは全く異なり、見知らぬ若者より少し見知ったおじさんの方がよろしい様子。うんともすんとも言わないが、クロウリーのズボンの尻を力強く握って離れようとはしなかった。
「うーん、これはこれは……今日のところはとにかく君たち、自己紹介だけしてもらったら帰ってくだすっても結構。いや弱ったな、まさかこんなに懐かれるとは……私が優しいばっかりに……」
「学園長って不審なところしか無いのになあ」
「出会いがしら即採寸趣味着せ替えのサディスティック犬おじさんよりはマシなのかもしれません。それより僕達が彼らより取っつきにくいと思われている点に関しては全くの不本意なんですが……。」
「学園長。さっきはああ言ったけど一先ず今日のところはポムフィオーレに寄越してくれて構わないわ。学年と性別から見ても一番適任でしょう。ウチは寮設備も郷土色が強くないし、環境的にも不都合は少ない筈だから……」
「ありまくりでしょう、ポムフィオーレってデパートの化粧品売場と環境ほぼ変わらないじゃないですか。足を踏み入れた瞬間に美容部員が辻斬りの如く化粧を施してくる」
「サディスティック犬おじさんが駄目ならサディスティック美容オタクも駄目だろ。モノがおんなじようなもんじゃねえか」
「端的にヤクザ屋さんやら日がな一日記憶に固執してるようなアンタのところに行くより余っ程健康的で教育にもいいと思うけど?」
「誰の寝相がダリの絵だ」
「喧嘩しないで!!大きな声でびっくりするでしょうが!!」
「学園長の声が一番デカいぞ!!」
「ホントこの学園って家畜小屋よりうるさいわね……、いいこと?イデア、アタシはヴィル。ヴィル・シェーンハイト。アンタと友達になりたいの。
……さっき聞いた通り、今日アタシの部屋に来てみない?話してみて、アンタのこと、アタシのことをお互いに分かり合いましょう。アンタが明日からどう過ごすかを、決める手助けが出来たらうれしいわ」
――――――
結局、イデアはヴィルの手を取った。というか、学園長を先ず伺って……彼がイデアを手離したがっていることを了解したのだろう。おずおずと身を引いたと言う方が正しい。子供は随分と空気を読めるらしかった。
口数も随分少なくて……一言「お世話になります」と行儀よろしく告げて、それから己にわかりやすく友好的な素振りを見せるヴィルの手を取ったのだ。
そして参加各員に名前ばかりの自己紹介を受けて、今はポムフィオーレへの帰路である。「……その毛布はどうしたの?」とヴィルが問うた。
「えっ、あ、……あの、髪、髪が」
「髪?」
「た、たぶん僕の髪、へんなので……」
「あら、それは素敵ね。どんなのかしら」
「すてきじゃない……」
「……マトリョーシカみたいね」
子供は頭からくるまった毛布を顔だけ出し、胸元でぎゅっと握り合わせて、俯いて歩いていた。小さい丈である。元のイデアという女も確かに猫背であることに相違はなかったが、彼女自体は大層よくかさばっていたので、この慎ましやかさは物珍しい。ヴィルは小さな背丈の毛布越しの頭頂をつついた。
「ン、」
「貴方人の見てくれが気になって?」
「……ぇ、うん、はい、」
「素敵なご趣味じゃない。……貴方、さっき集まっていた皆のことは見た?」
「ん……」
「……黄色いベストを着ていた人は、頭に動物のお耳と尻尾がついていたわね。レオナはライオンの獣人。一番背が高かったお兄さんは頭に角が生えていたでしょう?マレウスは妖精。
この学園には他にも人魚なんかが暮らしてる。アタシはね、頭が燃えている人だって見たことあるわ。アタシやアンタみたいに肌の白い人や、レオナやカリムのような色素の濃い人もいる。ここには、いろんな見た目の人がいるの」
「……」
「難しい話じゃないわよ。いろんな見た目の人がいて、それでいいの。身だしなみはともかくとして、持って生まれた見てくれでの部分で人を否定するのはナンセンスだわ。少なくとも、アタシはそう信じてる。その方が格好いいから。」
「……ぇ、えと、……へんっておもわないってこと?」
「まず、変な人なんていないのよ。人には誰しも、仲良くなりやすい人、なりにくい人があって、そのどちらなのかは話してみるまでわからない。
……余程のおバカさんでない限りはね、人のことを、持って生まれた身体的特徴で判断したりはしないわ。もしそうされたら、そんな相手はこちらから願い下げで構わない。
アタシたちが友達になれるかは、話してみてから初めて、お互いに分かる。そうじゃなくて?」
「……髪、燃えててもいい?」
「勿論。お部屋で改めて自己紹介をしましょう。そこまでは仮のお友達。でもこうして手を繋いでいくから、安心していいわ」
――――――
と、そういう経緯があって、ヴィルとイデアは友達となった。
尤も事実としてヴィルはサディスティック美容ヲタクには違いなかったので、まずこの穢れを知らない(筈の)幼い子供を着せ替え人形にしてみたかった、下心があったことは否めないが、結論としては友達という立場の確約が双方の合意の末に締結された。
ヴィルのアツい説得により毛布を取り払ったイデアは、申告のあった通り人と違う己の見てくれを気にしていること、またそれが要因するものなのか、この年頃の子供として見たって"随分"な程度の引っ込み思案であったが、本質的には賢しい子供である。人の視線を必要以上に気にするように言葉の発露こそ遅いのであるが、気長に付き合ってやればもう既に大人顔負けの論理を立ててきた。
彼女は読みも妙に深い上、言葉遣い自体も大分大人びたものであって……それは生育環境によるものなのだろう。ともすれば18歳としての記憶を取り戻しているのではないかと思うような瞬間もザラにある。ただ、世俗に染まりきった所謂オタク的な喋りをしないので、その部分ばかりが彼女が子供であることを示していた。
とは言え何にせよとりわけ発語が遅い。これは知能に陰りが見られる場合のようなそれではないのだが、兎に角吃ったり、詰まったりしながら彼女はゆっくりゆっくり喋る。言葉途中に黙り込んでしまうようなことも多かった。そしてそれは場に同席者が多ければ多いほど加速する傾向にあったので、要するに過緊張が故なのだろう。
だからヴィルはこの子供のイデアと話す時、まずは彼女の横に座って、そして出来れば一対一で話すことを心掛けるようにしていた。
十八歳の彼女を相手にする時は兎も角として……このいかにも幼い子供に、社会的な礼儀の道理を説くのも無体かという思いがあったのである。かようにも、無条件に人と向き合うことに怯えるならば、正面切って面を突き合わせるのは悪手かと考えたのだ。その為講じた距離感であるが、これは存外功を奏したようだった。
つまるところ、イデアの利発な表情を引き出したのはヴィルの歩み寄りの結果得られたものであったし、これが無条件に外部に向けて解放されると言った成長を兼ね備えた進歩というわけでもない。ただ信頼を勝ちうることによりイデアの緊張を僅かなりとも解いて、会話を成り立たせることが個人単位で可能となっただけだ。そしてそれを対外的には友達と呼ぶ。
イデアは、まずはヴィルの前でなら。年相応に笑って、自発的にすら言葉を紡ぐようになった。
夜半である。「アンタ、魔法史に興味があるとか言っていたわね」と、顔面に熱心に保湿クリームを塗りこみながら、鏡台の前に座ったヴィルが言う。イデアはぽかんと欠伸を零した。
「眠たい?」
「……ぁ、うん、」
「明日、アタシは同席できないのだけれど。アズールとカリムが同じコマで魔法史に出席するから、良ければご一緒しませんか?って誘ってくれているのよ。どうかしら」
「ん……」
「まだ怖い?」
「……」
明日。イデアは考え込んだ。
さて、”体験入学生”と言えど彼女は基本的に暇である。というのも彼女は校内を出歩く時、基本的には初日に紹介を受けた寮長の内いずれかを必ず随伴として付けることを約束させられているからだった。
これはイデアの立場を偽造する為のアリバイ工作、ひいては口裏合わせといった大人の都合による所以であったが、内気な彼女にしてみたって連れ合いがいるというのは精神的に助かっている。
ともあれ、この付き添い(監視)システムというのが然しイデアの行動範囲においてはネックであった。
NRCというのは腐っても名門校であるからして、寮長たち属する二年、三年ともなれば危険の伴う高度な授業も多い。というより最早、召喚術や魔法薬学、実践課程を有するものは大体それに値すると言えよう。これは幾らイデアが優秀な子供であるといっても……支障となるのが体躯や体力面、肉体的ポテンシャルの不足である面が多い為、大事を取って参加させられないということをイデア自身も了承の上、予め定められている。
よって聴講が許可されているのは主に座学となるが、これだって検閲による情報規制が絡む。人間一人の記憶領域を侵さない情報の選抜というのは存外大変で、これには手すきの教師陣始め、養護教諭などを交えて協議の末当たり障りのないカリキュラムの選択が行われた。そして該当枠に元々出席予定だった寮長たち間でのシフトが組まれ、……とはいっても彼らの負担と言えばちょっとした送迎と授業中隣に座っての少しの監視、その程度である。
話を戻そう。つまるところ、こういった諸々の事情による介添えがないとイデアの外出というのは成立しなかった。ので、彼女はその機会というのに思案しているのだった。望んで居た機会であるのだし、何をと思うかもしれないが、悲しいかな人見知りはその一歩飛び込んでゆくのにも勇気がいる。
尚イデアに聴講の予定がない時、彼女は教員の誰かしらの研究室に座らされている。まさかヴィル不在時に部屋を借り受けるわけにもいかないので。そして出向した先で古い本などを与えられて、日がな一日それを読んで暮らすのだ。
この生活も悪くなかった。NRCの教員には研究畑の人間も多い。その巣窟へ踏み入れば、そんじょそこらではお目にかかれないような貴重な資料が山とある……。
「んん、……ぃ、行く。行きたいですって、お返事してくれる……?」
結局、イデアが返事をしたのはややあってのことである。
「いいわ。もし欲しければノートとペンを用意してあげる。教科書は、アタシは二年生用のものを今持ち合わせていないから、二人に見せてもらいなさい。二人もきっと嫌とは言わないから。できる?」
「うん、」
「よろしい。授業が終わったら、二人が責任を持ってアタシのところまで送るそうだから、怖いことはないわよ」
「ん、」
「……ふふ、もう寝ましょうか」
「……ふぁい、」
ヴィルがこのポムフィオーレの寮長室でベッド代わりに貸してやっている応接用のソファは、それでもイデアの小さな体には大きくて、寝心地は兎も角として寝苦しくは無さそうであった。
彼女は暫く前からもうずっと、そこに座ったまま眠たげに目をしょぼつかせていたから、ヴィルは手ずから大判の重たいふかふかの毛布を首元まで掛けてやるのだが、すると目を閉じたままもぞもぞと潜り込んでいく。これは気づいた時に直してやってもいつも、いつの間にかこうなっているので、多分彼女が元から持つ癖だったのだろう。
記憶との齟齬を無くすべく、なんのかんのと理由をつけて全ての電子機器類から引き離されて強制デジタル・デトックスを受けさせられているイデアは、こうして夜更かしの意味を失うと、まんま幼い子供の如くあった。慣れない環境にある気疲れもあるのだろう、存外待遇に駄々を捏ねることもなく、夜になれば大人しく眠ってしまう。これには美容睡眠を怠らないヴィルも大助かりで、この日も照明はあっさりと落とされた。ポムフィオーレの夜は早い。
――――――
なんなら朝も早い。故にイデア(小)はアズールとカリムに挟まれて教室の隅の席に座り、些か眠たげに目を平べったくしながら共有された教科書を眺めていた。
教科書と言うには厚く重たい、古めかしい装丁の本である。その見てくれと言えば教本というよりは一般書籍と言ったほうが正しいだろう。それもその筈、この授業で主だって使用されているのは市井にも流通のある古き良き……魔法史大全全三巻の二巻目、中世代についてが目録されている巻であった。魔法史の授業を受けるにあたっては、生徒は全員この魔法史大全全三巻を教科書代わりとして購入させられるのである。
そして授業の方も、この本に合わせカリキュラムが組まれることになっていた。例えば、一年生では一巻目、古代史についての授業を。二年生では二巻目、中世代についてを学ぶ。そういう進行となっている。尚三巻目には中世代の終わりから近代にかけての流れが収録されている。故に、ヴィルは三年目の教本をイデアに見せるつもりは無いようだった。
また、歴史の解釈というのは移ろいやすいもので、教師たるトレインは教本から逸れた学説の補足、教本に記載のある言論から、さらに踏み入った内容を他文献を用いながら説明したりなどをしてくれる。謂わば現行で最新とされる情報の、水先案内人ということだ。……本人が教本同様如何にも古めかしい上、刺激を求める若者には特に面白みもなく、睡魔を誘う授業をしていることだけが難点だが。
閑話休題。兎も角イデアは情報統制的観点から既知の時代に付いて叙述のみで構成された教本を与えられて、大人しくくったり座っていた。
アズールは姿勢正しく座り、トレインの提唱する完全に教本外の部分にある学説についての講釈をきっちりノートに取っていて、イデアを挟んで逆隣に座ったカリムはもうデスクへと突っ伏して爆睡していた。
彼女達は教室の一番後ろに座っていたが、イデアの座高が低くとも、黒板は容易に見えていた。講堂が座席ごとに段のつけられた形に設計されている妙は勿論あるのだが、それ以上に、カリムの如く突っ伏して爆睡している生徒が多い為である。前が一通り全て潰れているから抜けるように黒板が見えている。トレインは、このような生徒を授業中には吊し上げないので、抗いようもなく居眠り率は実に高いものであった。今この時が昼過ぎの麗らかな時分であることも、拍車をかけているのだろう。
イデアも昼食は食べさせられたが、それきりであった。眠たげではあるが、眠気には直結していない。それはこれが希望して臨んだ授業であるし、また思索がてら聞くことによってうまいこと気が紛れているという為であった。
「イデアさん、授業は面白いですか?」
と、ふとアズールが小声で問うた。イデアは拝借したカリムの教本をぱら、ぱらと捲り、眺めながら、これには「ウン」と曇りの無い返事をした。
「アズール、さん、……これ。」
「はい?」
「今日授業聞きながらノート書いた、ので、……僕がちゃんと書けてたか、あ、後で見てもらえますか」
「おや、いいですよ。僕もちゃんと取っていますから、後で答え合わせをしましょうか」
「ぁ、ううん、えっと、……答え合わせしてくれたら嬉しい、けど、ぼ、僕はいいので。ちゃんと書けてたら、これ、カリムさんにあげたい、です。あんまり字は上手じゃないけど、……き、教科書みせてくれたお礼……」
「おや。おやおやおや、イデアさんは親切ですねぇ。良いんですよ、彼どうせ眠っていて使っていなかったんですから……。逆にその親切に対価を請求したって良いくらいだ」
「ふ、ふひ、いらない……。あの、……連れてきてくれたのも、ありがとう……」
――――――
「……失礼。手を繋いでも?」
「あ、は、はい、」
「もし痛ければ、仰ってくださいね」
「はい、あの、……な、なんで敬語?ですか?
さ、……いしょの時、もう少し違うふうに、喋ってた」
「あ、あぁ。すまないね、……僕は年少のものを相手にするのに慣れていなくて……。少し緊張しているのかもしれない。怒っているわけではないよ。ただ貴方の安全確保ばかりは責務であるから、手を離すわけにはいかないんです。ここは人が多いから。」
「う、うん、」
「わかってくれてありがとう。……料理はマレウス先輩が代わりに運んでくださると仰っているから、貴方は僕の側を離れないように。皆あまり下方は見えていないから、人にぶつからないように気をつけて」
「はい、……」
リドルに手を引かれ、訪れたのは昼時の大食堂であった。
彼女は十八歳の時分にもそこまで丁寧に暮らしたことは無いのに、なかなかどうして、子供の体を手にしてからというもの強制的に食生活までもを改善されていた。流石に食事に補助が必要な齢では無いのだろうが、見るからに小さい生き物を放置して食事の面倒を見ないというのは心が痛むと誰が思ったのか。飯時となると手隙のものは自発的に、努めてイデアを探しにきて、彼女を大食堂へと連れ出すようになったのである。
そしてともするとノルマでも達成したかのように、これをこなした者はその旨を報告し合うらしく、今や何だかよくわからないが互助会のようなものが自然と形成されているという。寮長たちは抜け目なく、これのお陰で今のところ食いっぱぐれていることはない……。その中で、この日その役を担ったのが偶々リドルとマレウスであったらしい。
リドルは紅薔薇色の作り物の如く艶めくロングヘアを靡かせ威風堂々歩いていて、その手を握る力は申告通り些か強いものだった。手こそイデアにしてみれば、母や……或いは姉かと思うような、しっとり細く小ぶりな淑女の御手であるのだが、この様子を見る限り確かに人馴れしていないように思える。力のコントロールが妙なのだ。それでも彼女が大真剣のあまり気を張っていることだけは、見ていればよく伝わったのでイデアは大人しくし身を任せていた。
連れられてきたのは最奥部の……一段高いところに作られた、所謂ディアソムニア席では無いのだが、その手前の、地続きには一番奥の付近の端の席である。お出ましとなったのが烈火の暴君に続きあのマレウス・ドラコニアとなれば、近寄る云々より先にあまり関わりたくはないというもの。その為か同じ卓に同席するものはいなくて、イデアはやっぱり開けた席に三人ポツンと座る羽目になった。
「シュラウドは生ものが苦手と言ったか。今日のサラダには生肉がある。嫌なら残しても構わない」
「……な、なんで知って……?」
「……事前に聞いている」
「生肉?……あぁ、生ハムですか。確かに塩味の強すぎるものは幼い子供には相応しく無いかもしれないな。食堂の食事は大概強く味がつけられているし……君、あまり量を多く取りすぎないようにするのだよ。でも少しずつでも良いからバランスを意識して食べること。健康に害が出るといけない」
「り、リドルさん、厳しいね……先生みたい」
「ふふ、導く者にしては彼女には寛容性が足りない」
「……貴様、ハンバーグを食べているのかい!?第168条!!!!火曜日にハンバーグを食べるべからずと定められているのを忘れたのか!!!!!」
「ほらご覧」
リドルは前触れもなく突如立ち上がると己の胸ポケットからマジカルペンをひったくり、カンッと響き渡る大声で明後日の方角を爆発的に怒鳴りつけた。
……見れば少し離れた席で、ハーツラビュルの腕章をした生徒が確かにハンバーグを食べていたらしい。尤もイデアからしてみれば、リドルがその生徒の首を即座に刎ねたお陰で所在がわかる始末であるのだが……。
「はわわ……」
イカレ女の圧倒で食堂は一気に水を打ったように静まりかえる。その波紋のど真ん中で、元凶のリドルは処刑を終えると何事もなかったかのような美しい佇まいで着席をした。
背筋を伸ばし黙って目を伏すと、彼女は今朝方生まれた春薔薇の花のようである。然しこれにより際立った多重人格みたいなヒステリィは、どう考えても異常者以外の何物でもなかったのでイデアは余計に狼狽え、真向かいの女の素晴らしいマナーを眺めながら椅子の下にぶら下げた足を引けた。それによりマレウスの方に僅か寄るような格好になったので、気を良くしたのか彼は笑いながら言った。
「恐ろしいか、シュラウド。だが案ずることはない。お前が幾ら厳格の法律を破ろうと、この僕がついている限りローズハートに為せることなど何も無いからな」
「……マレウス先輩、お言葉ですがね。
教育に悪いことをお言いでないよ。それに幾ら貴方に実力があろうとも、法律というのは社会正義において絶対なのです。ましてや為政者たるべき貴方が無法の悪徳を賛美して何になろうというのか。貴方の生国は無頼漢の国ですか。さぞやお美しいのでしょうね。無法で成り立つ国家を僕は見たことがありませんが……今後開国の予定があるのであれば、その帝王学に社会学の分野を早急に加えられることをおすすめいたします」
「人の子、止まらないな」
マレウスには、リドルと真逆に寛容性が足りすぎているらしい。面と向かってこれほど捲し立てられても尚彼はその勢いに目を丸くする程度、気分を害した様子もなく、寧ろ空腹に耐えかねたのか、会話途中だというのに箸で生ハムを拾い上げるとひょいと摘んだ。
そしてのんびり咀嚼して飲み込むと、「ああそうだ」等と宣い改めてイデアに向き直る。
「シュラウド、今日は僕の友だちを持ってきたのだ。特別に紹介してやろう」
上着のポケットを漁って取り出したのは、拳より小さい程度のデジタルペットのおもちゃである。
「……!ドラコーンくん、」
「そうだ。……お前も随分と小さいから、小さい友だちができると良いだろう。これは僕のものだからくれてやることはできないが、少しばかり遊んでやってくれ」
「……マレウス先輩、大丈夫なんですか」
「確かめさせた」
さて、幾ら日頃大人しく過ごしているように見えていたとて、根本的にその性分というのはさして変わっていないらしい。デジタルペットを与えられたイデアは枯渇した植物がぐんぐん水を吸い上げるように、あっという間に小さな液晶に夢中になって……小さな爪のはまった指でチャカチャカ忙しくなにか操作をしている。巨大なマレウスは窮屈そうにその手元を覗き込みながら、「オオ……何をしている?それは。素早い……」などと言った。
「お二人とも、食事中に遊ぶものではありませんよ」
「大体テメエのオモチャ貸しといて何をテメエで分からねえことがあんだよ、バカじゃねえの」
「ムッ、……おやキングスカラー」
「どうも、仲良くオママゴトか?お三方。楽しい筈の団欒に全くの部外者如きが水を差しちまうこと、大変心苦しいが……、リドル・ローズハート、この書類にサインを頂いても?」
そこに現れたのは鮮やかな山吹色のベストの男である。イデアは華やかなその彩度とやっぱり巨大な体躯の圧にぎょっとして思わず身を縮めた。首をすくめて見上げると、書類を投げやりに差し出す彼の黒革グローブの掌の内に、やはり鮮やかなネコの目のように光るオレンジ色の輝石が見える。彼はその巨大な手の内に書類とマジカルペンを一掴みにしていたらしかった。
「……ああ、わかりました。この書類、期限は本日中の筈ですから忘れず必ず提出するように」
「……チッ」
「返事はハイ!」
「はいはい……」
そしてリドルのサインを確認すると卓の端に書類を置き、その続けざまにペンで何か書き込みはじめる。流れるような筆跡は粗野な態度に見合わず理知的で美しい。
「第一、貴方もそのオママゴトとやらに参加していただいて構わないんですよ。水を差すというが、そもそも貴方自らが責任者のポストとしての義務を果たしていないだけだ。何なら今ここに座っていかれますか。席を空けて差し上げましょう」
「ゾッとするようなことを言わないでくれ、お嬢さん。幸せ家族計画に組み込まれるなんて一生涯性に合わないもんで尻尾の毛が逆立っちまう……、見ろ、もうフワフワだ。この後は部活の方に用事があるんでね、ここいらで邪魔者は退散させていただくぜ」
「貴様、逃げ続けられるのも今のうちだぞ」
「はは、どうだろうなァ?」
結局、この無作法者がこの日、ちんまりと座る下方のイデアを顧みることは一度もなかった。
――――――
このようにして、最初はばかりはなんのかんのと文句をつけていた寮長たちも、今では小さな”体験入学生”と概ねうまいことやっていた。これにはやはり年長者・率いる者としての自覚や受け入れる器の素養もあろうが、大前提として子供が大変扱いやすい所謂利口な子供であったことも一つ、大きく関係しているのだろうと思う。
子供は大人しく、いっそ淑やかで、少しばかり自己主張の弱すぎるきらいがあるが本質的には利発で物事をよく理解する。面倒を見る側の都合を敏く捉えて正しく慮りまでするのだ。要は全く手がかからなかった。
おまけに世話を押し付けられた側にはイデアの本来の……十八である頃の人間性の記憶がそれはまア色濃く残っていたので……この”利口さ”の落差を鑑みれば新たに好感さえ覚えるほどである。
従って、勿論面白半分義務感半分の側面もあるにはあるが、寮長たちは然程文句も言わずこの小さな隣人と付き合って、まあまあうまいことやっていた。虚弱な子猫を拾ったので知り合い皆で面倒を見ている、言うなればそんな感じの心持ちである。然しその中には全く世話の場に現れず……協力する素振りすら頑なに見せない者もいた。それがレオナ・キングスカラーである。
レオナは世話どころか近頃では小さい隣人以外についての情報交換の場にすら殆ど姿を見せず(これは多分顔を出すと非協力的な態度を咎められるからだった)、イデアを連れている者があれば近寄ろうとさえしなかった。リドルにサインを貰いに来た折が唯一といった程である。そしてそれもイデアに拘らうつもりは徹底して無いようだった。なんでだかはよくわからないが……子守をしに来てんじゃねえ、などとありし日に学園長を野次っていた姿も確かである為。或いは子供を気に召さないのか。
ヴィルは本日のスケジュールについてをつらつら考えて、黙々手を動かしていた。朝のことである。彼女はイデアを部屋の長椅子に座らせて、その背後から髪を編んでいた。
煌々と燃え続ける青い炎は子供の背丈を巻く程に長大であり、金持ちの飼い猫のそれの如くふわふわと広がっている。かろうじて引きずるほどではないのだが……、そもそもその浮世離れしたデザインセンスの髪に魅了されていたヴィルは、元の持ち主たるイデアに手を触れることを許されていないフラストレーションも相まってここぞとばかりに理由をつけて、あれこれこねくり回しているのだからどうしようもない。この日は後ろで一つに編み込んで、飾りをつけて背中に垂らしてやろうと思っていたところ。イデアの髪を形成する炎は髪先なんかが透けて、実態を持たないように見えるのに、中頃ごと大きく纏めて捕まえるとそこには確かに質量が存在しているようで不思議だった。
そうしてどの程度夢中になりすぎていたのか、ヴィルはイデアに小さな声で呼ばれたように思い顔を上げた。
「どうしたの?ごめんなさい、今呼んだ?全く聞いていなかったわ」
「ぁ、うん、……」
「痛かったかしら?それとも何か、ご用事?」
「……」
さて今に逃げられなくなるといったローズハートの言に、何ぞと返したのはどこぞのキングスカラーか。彼女は何を思ったか。小さなイデアはしっかりたっぷり悩むと「レオナに会いたい」と言い出した。
「は?なんで?」
「ん……と、エト、……用事があり、ます」
「用事?なんの用事?それはアタシたちでは頼りにならないことかしら」
「ぅ、いや、ヴィルさんたちにはお世話になってるんですけど……、……レオナさんに聞きたいことがあるので、」
あの折リドルに未来が見えていたとは全く持って言い難いことであるのだが、結論からすればこのようにして、確かにレオナは逃げられなかったのである。
「アンタね、堂々とサボってるんじゃないわよ。まぁ今日は精々自分のその素晴らしい日課に感謝することだわね」
「は?」
ヴィルから「届け物がある」と言われ暫く、レオナは自室にイデアを送り届けられて当惑していた。
確かに通例の如く「談話室に来い、取りに行く」と返事をすると「届けに行くから部屋で待っていなさい」と打診され、おかしいとは思っていたのだが。レオナは安全を鑑みて、ヴィルを初めとした付き合いの女生徒を部屋まで招いたことはない。そしてヴィルだってそれを了解していた筈なのだ。だからおかしいとは思っていたが。まさか自室を託児所にされるとまでは思っていなかった。
ヴィルはイデアの前にしゃがみ込み視線を合わせると、「次の授業終わりに迎えに来るわ。虐められたり、変ないたずらをされたりしたらこの防犯ブザーを鳴らしなさい。特別製だから必ずアタシが助けに来るし、その前にまずレオナには魔法の雷が落ちて確実に仕留められるから」とかなんとか、怖いことを言ってちゃっちいオモチャを握らせている。レオナはどうしたらいいのか分からず、つい半笑いになって「は?」と言った。
「アンタも。こんなに小さい子供なんですからね、イジメるんじゃないわよ。アンタと話がしたいらしいから、相手をしてあげて」
「聞いてねえんだが?」
「アタシにはアンタと違って授業があるの。もう行くわね。たかが授業一コマ分だけど困ったら連絡しなさい。授業後にまた来るわ」
レオナはその場でこれ見よがしにスマホでヴィルに電話をかけたが無視される。ヴィルは肩に引っ掛けた帆布地のトートバッグの中から、iphoneの初期設定の着信音を流れるままにしつつ出ていった。
振り返ることは無かった。レオナは一つ舌打ちをして……部屋に戻る。関わり合いになりたくないからベッドへ戻ろうと考えたのだ。
従って、この際彼はイデアに一つだけ言葉を掛けた。関わり合いになりたくはないが、子供を部屋の戸口に立たせっぱなしにしておくのも忍びない。というかそんなことをしていては彼自身の沽券に関わる。なので「入れ。適当に座っとけ」とばかり言って部屋の扉を閉めさせた。
子供は受け入れられると小さな声で何かを言って、ペコリと頭を下げるとステステ……とすっとろい歩みで中に入り、……部屋内の、ベッドの置かれた小上がりの端っこにちょこんと腰を掛けた。レオナには背を向けているが、ベッドの真横辺りである。ソファでも、椅子でも座ろうと思えば座るための家具が部屋の中に幾つもあるのに、おまけに彼女はあの"人嫌いのイデア・シュラウド"と相違ない筈なのに。思ったところと全然違うふうに距離を詰められて、レオナはギョッとしてしまった。
改めて、コイツは俺に用があるのか……ということに思い至りこれに面食らったのである。だからと言って相手をするような気にはならないが……。レオナはその小上がりにちょこんと乗せられた尻の、猫背の細い背中を、良家のお嬢さんみたいな仕立ての小さな白いブラウスを。サスペンダーの金具を、髪長姫のように豊かに編み込まれたふわふわの青い炎を少し眺めて、毛先のカゲロウの薄靄のゆらめきにゆったりと眠たくなって欠伸をした。その時だった。やっぱり小さな声で、子供が何かモニャモニャと喋る。
「……」
「……えっと、あの、……」
「悪いなお嬢さん、俺ア進路相談テーマパークのお優しいキャストじゃねえんだ。今後の人生についての含蓄あるアドバイスを聞きてえなら他を当たってくれ」
「……、」
「……」
強めに会話を拒絶すると為されるがままに黙り込む。会話は一向に再び起こる気配を見せず、無言で少しだけレオナを振り返った子供は虐待されるばかりのような顔をしていた。
するとレオナはこの瞬間、大変不謹慎なことに不意にいっそ面白くなってしまった。
子供の姿が既知の女のものと全く異なっているように思われた為である。元からさしたる知り合いでもないが在りし日のイデアには、少なくとも異様な負けず嫌いの側面があったように思う。決してコミュニケーションの上手い女ではなかったが……かろうじて、打てば響くところはあったのだ。特に嫌味になじられてノッてこないことなどレオナの観測範囲内にはまず例が無い。寧ろ一度何か発すれば、彼女が一番うるさいまであった筈。嫌な学園である。
レオナは黙りこくった子供の、如何にも儚い憐れっぽい姿を見て顔を顰めると小虫を払うように耳を振るった。そしてふと、子どもの大きな瞳がそれを追って動くのを認める。
「……」
「……なんだ、耳だの尻尾だのに興味があるのか?」
十八歳のイデアに、レオナは植物園で幾度かはち会ったことがある。その彼女曰くの目的を思い出して……レオナは寝返ると横向きに体と肘を立てて、頬杖をついた。
「ぅ、はい、……」
「触ってくれるなよ。俺はこう見えても毒ライオンでね。耳から毒が出てるんだ、ガキが触ると死ぬ」
「……ふひ、絶対嘘」
お、と思う。吐息混じりに唇の端を吊り上げて笑うから溢れる緩い音は、既知の女からたまに聞くものと同じだった。
「いいや、死ぬ。お前なんざ一溜まりもねえ。毒だし爆発するからな。この学園で触れるのは学園長だけだ、ヴィルですら一回死んだことあるぜ。……用事はこれで済んだろ、もう帰れ。俺はこの耳の毒を治すのに忙しい」
「…………、……まだ、」
「は?」
レオナは枕元に放り出していたスマホを手にとって、既に無料チャットアプリを立ち上げていた。ヴィルに電話をかけようというのである。彼としては招かれざる客人に、早くお帰りいただきたいというのが変わらず望むところであり……。然しその手の内をガン見して、焦ったようにイデアは言った。
「ぼ、僕がここにいるの、おかしいですか」
「ああおかしいね、ここはエレメンタリースクールじゃないもんで」レオナは寮長連中で使っているチャットグループを開く。近頃ではそこに各々スケジュールを公開しているので、この後ヴィルが駄目なら手隙のものを呼びつけようと考えたのである。
「ぁ、えっと、ちがくて、……僕のこと、知ってましたか?」
「……?」
「……なにか、……隠し事してますか?」
レオナはふと手を止める。子供を見る。子供は小上がりの上に完全に振り返ってしまって、スカートなのに膝を立てて座ったまま、レオナの方を向いていた。
レオナはそれを見て反射的に、クチャクチャにして背中に敷いていたタオルケットを投げ落とす。
「……俺が?ほとんど喋る機会もなかったテメエに?」
「……エト、……」
イデアは喋り方がわからなくなってしまったとでも言うように、心細げに眉を落としていつまで経っても要領を得ない。床に捨てられたふにゃふにゃのタオルケットばかりを困ったようにただ、眺めている。レオナは布端を吊るよう魔法で持ち上げると、イデアの膝にかけてやった。
「……」
そしてせっかちにも、促してみるとイデアの言うにはこうである。
「……皆、さん優しくしてくれるんですけど、んと、まずは何て言うか……態度が少し変、と思って……」
「勘違い、かもしれないですけど……初めましてじゃなくて元から知ってたみたい、にされてる瞬間があって……」
「……僕は左利きなんです、けど、皆当たり前のように最初から右側に座ってきたり……、ごはんの好き嫌いを知ってたり……とか。あらかじめ、資料で知ってたとしても全員がちゃんと、わかった上でここまで対応できるものなのかな?と思って……だから……会ったことがあるのを僕が忘れてる?可能性が存在する、とまず思って……」
「あと、えっと……多分、僕はブガイシャなので見ていい物と悪いものがあると思うんですけど、……そういう情報の管理がかなりシビアかな、と思い、ました」
「部屋にいる時以外はいつも誰か、ついてきてくれるんですけど、ついてきてくれる人以外の声が聞こえなくて、えと、周りの、……顔見ると口は動いてて、喋ってるとは思うんで、だから魔法で聞こえる範囲の制御をされてるのかな?と思って」
「この学校エリート校なんだって聞いたんですけど、その割に観覧を許されてる出版物が精々数年単位で古いもの止まりだし……少なくとも僕の知る限りの最新のものではないみたいで……、それで監視みたいについてくる人たち、と、聞こえる範囲の情報、とかのことを考えると意図的に僕が知るべきものをコントロールされてるのかな?と思って、」
「後、それ……レオナさん、の持ち物ですか?通信可能な電子端末?ですよね、僕それ知らない、皆似てるものを持ってたけど多分僕は初めて見る型なんです、操作感どんな感じなんですか?気になります、見してください」
「待て待て待て……」
子供は己の胸元に垂れ落ちた燃える髪をもたもた弄りながら、眠たくなるような論法で喋っていたのだが、喋り進めるに連れどんどん元気になっていった。最終的に明らかに個人所有物である端末を貸せ、とまで来たので思いもよらぬ図々しさとその闊達さにレオナはつい話を遮ってしまう。
そうして端末を枕の下に隠した。流石にまずったと自覚したのである。
「これはダメだ。貸さない。……話の続きは?」
「ぁ、はい、エト……。一地域だけじゃなくて、えと、ここにはいろんな人がいて、多分皆おうちは別々のところにあるんだと思うんですけど。そういう、色んな人たちに普及してるシェア率の高い電子機器を僕が知らないっていうのはおかしい、と思ったので」
「周りの態度と、情報の開示状況と、えと、端末、……を総合的に見て、僕は、えっと、僕は過去から来たのかな?と思って。……だから僕がここにいるのはおかしくて、……もしかしたら皆さん、は、未来の僕を知ってた……?のかな、と思って……」
「……だけです」
「ヘエ。……大した推理じゃねえの」
「ウン、……魔法事故のことを考えると、魔法士養成学校でそういう事例が発生するのは不自然なことではない、のかもしれないし……」
「…………そうだな、……テメエが知りたいすべてを今ここで教えてやってもいい」
「ホント?」
「本当だとも。……教えてやるからこっちに来い。
靴を脱いでベッドに上がれ。開けてやるからここに横になれ」
「ぅ、ウン!」とイデアは呟いて、言われた通りに靴を脱いで並べると目をキラキラさせて立ち上がる。そして些か危うい体幹でレオナのキングサイズのベッドに……懸命によじよじ登って来て、全く物怖じもせず腰を下ろす。言われるがままに横になる。
レオナ気に入りの、オルテガ柄のカバーの掛けられた枕にちいさい頭をちょこんと乗せて、彼女は真っ白で細い、骨から柔らかそうな足を投げ出している。小さな紅葉の手を腹の上で組んで、大人しく男を待っていた。
レオナは自分で誘っておいて、それを見てやっと、このか弱そうな生き物に己が何だかとてつもなく悪い事を求めたように思えてきて……。彼女の小さい手の中に、ヴィルから渡されたオモチャの姿を探す。
「……一つ、聞いても?」
「?」
「なんで俺のところに来た。お前の面倒を十分に見る奴は、他に沢山いただろう」
「……貴方は僕を好きじゃないみたいだった、から?」
「ア?」
「好き嫌い、と言うか、興味がなかった?……僕を丁重に保護するべき子供、として扱ってない、と思った、ので」
「、」
「口を割るかと思って……」
レオナがこの後目論見通り、イデアを魔法で昏倒させて「おいコイツ気づいてるぞ、話が違うじゃねえか」とヴィルと学園長を呼びつけたのは言うまでもない。
イデア・シュラウドが記憶諸共小さくなった。
とある魔法の暴発に巻き込まれ得た作用とのことであったが、これが数日は戻らないと言う。その間の処遇を検討すべく寮長達が招集されて暫く、この日の会議は踊った。
「……えー、誠に遺憾ではありますが、彼女の現在判明しているパーソナルデータ等に基づきまして、シュラウドくんは当待機期間中イグニハイドでは預かれないという運びとなりました。本来では代表保護者となりますオルトくんですが、諸事情ありまして、彼女の力もこの間一切頼ることができません。従って当校ボランティア部の皆さんには……」
「誰がボランティア部ですか」
「子守しに学校に来てるんじゃないんだが」
「ちょっと与党だからって調子に乗るなよ」
「帰れ」
「だまらっしゃい!当校ボランティア部の皆さんには!全面協力体制を敷き子守をしていただきます!」
「大体オルトが協力できないっていうのはどういうことなんですか?」
「ムッ、鋭いですね。都合が悪いので黙秘権を行使することはできますか?」
「良いわけ無いだろ」
「いやはや、シュラウドくんのセンシティブな内情に踏み入ってしまいかねないという個人的な都合が第一にありますから、こちらから開示できる理由としてはかなり表面的なものになってしまうんですが……」
学園長が述べるにはこうである。
まず彼女の幼少期とも呼べるようなその昔、イデアはとある事故により実妹であったオルトを喪ったと言う。それを受け、その妹を模し造り上げられたのが、現在存在するヒューマノイドたるオルトであるということ。そしてこの過去こそが今回、彼女の半生に大きく横たわるブラックボックスだと考えられていると言う。
「えー、つまるところ現在存在するヒューマノイドとしてのオルトくんというのは、イデアくんの幼少期には有り得なかった存在になるんですね。
現在のイデアくんから聞き出した年齢とオルトくんの持ち合わせた情報を照らし合わせた結果、イデアくんはまだオルトくんを喪った齢に達していないということで。イデアくんはオルトくんのヒューマノイドが生み出されることをまだ知らない。
また、身体が縮んだというのは記憶ごと巻き戻ってしまったということで、過去から来た肉体と取り替わってしまったわけではないんです。これは本来持ち合わせていたものの大部分が失われたというわけではなく休眠状態にあるということなんですね。
このように肉体と記憶が強固に結びついたまま意識が確立している現在の状態で、さて罷り間違って肉体年齢以上の記憶が引きずり出されてしまったら?記憶領域における混濁とダメージは計り知れないでしょう。
従って、彼女の蓄積してきた過去に触れさせることはあまり望ましくない。オルトくんについても、彼女の私室についてもです。オルトくん曰く、実家から持ち込んできた趣味の私物が物凄く沢山あるとかで……」
「知ったこっちゃないな……」
「従って!彼女個人と他生徒の交流に適当に監視の目を入れ口裏を合わせること!後保健室や教職員宿舎に泊めてもいいんですがね、大人より……少人数の年の近いお友達が近くにいた方が心が休まるでしょう。お友達の方泊めてあげられませんか?」
「この中にオトモダチがいるって本気で思ってそう言ってるなら総合病院で目と脳を診てもらうかRSAとかの教員に転任したほうがいいわね」
「俺泊めてやろうかなあ。宴をしたら緊張もほぐれるかもしれないし」
「流石にそんなわけないだろ」
「とにかくイデアに会ってみたい!」
――――――
「……みの虫?」
「……ッわ、……ぁ……」
果たして。長い付け爪の学園長の手に導かれてやってきたのは、頭からヒヨコちゃん柄の毛布を被った本当に年端もいかぬ子供であった。布の隙間からギョロギョロとした目だけを出し、辺りを伺っているらしく、その癖近くのリドルが覗き込むとちいかわみたいな声を出す。毛布から伸びる脚は生まれたての鹿のように真っ直ぐで、柔らかそうにか細く、震えていて、然しそこには既に真っ白のクルーソックスとサイズのピッタリ合ったセピア色の革靴を履いている。
「ここに来る前にサディスティック犬おじさんに服を見立てられているんですよ。まぁ手の早いこと早いこと……」
「怒られるぞ」
「チクらないでくださいね。
……いいですか、シュラウドくん。君は体験入学生として、暫くこの学校で暮らすのです。その間はさっき教えたように、主にこの人たちが君を助けてくれますからね。だからそう、先生の後ろに隠れずとも良いんですよ。先ずは話してみてご覧なさい。きっとお友達になれますよ。意地悪されたりはしませんとも。だからこれっ、もうそんなにギュッと握らなくていいんです。お尻がシワになってしまう。これっ。ズボンを脱がそうとしない!大丈夫ですから、案外やってみるもんですよ」
イデアはクロウリーの述べた展望とは全く異なり、見知らぬ若者より少し見知ったおじさんの方がよろしい様子。うんともすんとも言わないが、クロウリーのズボンの尻を力強く握って離れようとはしなかった。
「うーん、これはこれは……今日のところはとにかく君たち、自己紹介だけしてもらったら帰ってくだすっても結構。いや弱ったな、まさかこんなに懐かれるとは……私が優しいばっかりに……」
「学園長って不審なところしか無いのになあ」
「出会いがしら即採寸趣味着せ替えのサディスティック犬おじさんよりはマシなのかもしれません。それより僕達が彼らより取っつきにくいと思われている点に関しては全くの不本意なんですが……。」
「学園長。さっきはああ言ったけど一先ず今日のところはポムフィオーレに寄越してくれて構わないわ。学年と性別から見ても一番適任でしょう。ウチは寮設備も郷土色が強くないし、環境的にも不都合は少ない筈だから……」
「ありまくりでしょう、ポムフィオーレってデパートの化粧品売場と環境ほぼ変わらないじゃないですか。足を踏み入れた瞬間に美容部員が辻斬りの如く化粧を施してくる」
「サディスティック犬おじさんが駄目ならサディスティック美容オタクも駄目だろ。モノがおんなじようなもんじゃねえか」
「端的にヤクザ屋さんやら日がな一日記憶に固執してるようなアンタのところに行くより余っ程健康的で教育にもいいと思うけど?」
「誰の寝相がダリの絵だ」
「喧嘩しないで!!大きな声でびっくりするでしょうが!!」
「学園長の声が一番デカいぞ!!」
「ホントこの学園って家畜小屋よりうるさいわね……、いいこと?イデア、アタシはヴィル。ヴィル・シェーンハイト。アンタと友達になりたいの。
……さっき聞いた通り、今日アタシの部屋に来てみない?話してみて、アンタのこと、アタシのことをお互いに分かり合いましょう。アンタが明日からどう過ごすかを、決める手助けが出来たらうれしいわ」
――――――
結局、イデアはヴィルの手を取った。というか、学園長を先ず伺って……彼がイデアを手離したがっていることを了解したのだろう。おずおずと身を引いたと言う方が正しい。子供は随分と空気を読めるらしかった。
口数も随分少なくて……一言「お世話になります」と行儀よろしく告げて、それから己にわかりやすく友好的な素振りを見せるヴィルの手を取ったのだ。
そして参加各員に名前ばかりの自己紹介を受けて、今はポムフィオーレへの帰路である。「……その毛布はどうしたの?」とヴィルが問うた。
「えっ、あ、……あの、髪、髪が」
「髪?」
「た、たぶん僕の髪、へんなので……」
「あら、それは素敵ね。どんなのかしら」
「すてきじゃない……」
「……マトリョーシカみたいね」
子供は頭からくるまった毛布を顔だけ出し、胸元でぎゅっと握り合わせて、俯いて歩いていた。小さい丈である。元のイデアという女も確かに猫背であることに相違はなかったが、彼女自体は大層よくかさばっていたので、この慎ましやかさは物珍しい。ヴィルは小さな背丈の毛布越しの頭頂をつついた。
「ン、」
「貴方人の見てくれが気になって?」
「……ぇ、うん、はい、」
「素敵なご趣味じゃない。……貴方、さっき集まっていた皆のことは見た?」
「ん……」
「……黄色いベストを着ていた人は、頭に動物のお耳と尻尾がついていたわね。レオナはライオンの獣人。一番背が高かったお兄さんは頭に角が生えていたでしょう?マレウスは妖精。
この学園には他にも人魚なんかが暮らしてる。アタシはね、頭が燃えている人だって見たことあるわ。アタシやアンタみたいに肌の白い人や、レオナやカリムのような色素の濃い人もいる。ここには、いろんな見た目の人がいるの」
「……」
「難しい話じゃないわよ。いろんな見た目の人がいて、それでいいの。身だしなみはともかくとして、持って生まれた見てくれでの部分で人を否定するのはナンセンスだわ。少なくとも、アタシはそう信じてる。その方が格好いいから。」
「……ぇ、えと、……へんっておもわないってこと?」
「まず、変な人なんていないのよ。人には誰しも、仲良くなりやすい人、なりにくい人があって、そのどちらなのかは話してみるまでわからない。
……余程のおバカさんでない限りはね、人のことを、持って生まれた身体的特徴で判断したりはしないわ。もしそうされたら、そんな相手はこちらから願い下げで構わない。
アタシたちが友達になれるかは、話してみてから初めて、お互いに分かる。そうじゃなくて?」
「……髪、燃えててもいい?」
「勿論。お部屋で改めて自己紹介をしましょう。そこまでは仮のお友達。でもこうして手を繋いでいくから、安心していいわ」
――――――
と、そういう経緯があって、ヴィルとイデアは友達となった。
尤も事実としてヴィルはサディスティック美容ヲタクには違いなかったので、まずこの穢れを知らない(筈の)幼い子供を着せ替え人形にしてみたかった、下心があったことは否めないが、結論としては友達という立場の確約が双方の合意の末に締結された。
ヴィルのアツい説得により毛布を取り払ったイデアは、申告のあった通り人と違う己の見てくれを気にしていること、またそれが要因するものなのか、この年頃の子供として見たって"随分"な程度の引っ込み思案であったが、本質的には賢しい子供である。人の視線を必要以上に気にするように言葉の発露こそ遅いのであるが、気長に付き合ってやればもう既に大人顔負けの論理を立ててきた。
彼女は読みも妙に深い上、言葉遣い自体も大分大人びたものであって……それは生育環境によるものなのだろう。ともすれば18歳としての記憶を取り戻しているのではないかと思うような瞬間もザラにある。ただ、世俗に染まりきった所謂オタク的な喋りをしないので、その部分ばかりが彼女が子供であることを示していた。
とは言え何にせよとりわけ発語が遅い。これは知能に陰りが見られる場合のようなそれではないのだが、兎に角吃ったり、詰まったりしながら彼女はゆっくりゆっくり喋る。言葉途中に黙り込んでしまうようなことも多かった。そしてそれは場に同席者が多ければ多いほど加速する傾向にあったので、要するに過緊張が故なのだろう。
だからヴィルはこの子供のイデアと話す時、まずは彼女の横に座って、そして出来れば一対一で話すことを心掛けるようにしていた。
十八歳の彼女を相手にする時は兎も角として……このいかにも幼い子供に、社会的な礼儀の道理を説くのも無体かという思いがあったのである。かようにも、無条件に人と向き合うことに怯えるならば、正面切って面を突き合わせるのは悪手かと考えたのだ。その為講じた距離感であるが、これは存外功を奏したようだった。
つまるところ、イデアの利発な表情を引き出したのはヴィルの歩み寄りの結果得られたものであったし、これが無条件に外部に向けて解放されると言った成長を兼ね備えた進歩というわけでもない。ただ信頼を勝ちうることによりイデアの緊張を僅かなりとも解いて、会話を成り立たせることが個人単位で可能となっただけだ。そしてそれを対外的には友達と呼ぶ。
イデアは、まずはヴィルの前でなら。年相応に笑って、自発的にすら言葉を紡ぐようになった。
夜半である。「アンタ、魔法史に興味があるとか言っていたわね」と、顔面に熱心に保湿クリームを塗りこみながら、鏡台の前に座ったヴィルが言う。イデアはぽかんと欠伸を零した。
「眠たい?」
「……ぁ、うん、」
「明日、アタシは同席できないのだけれど。アズールとカリムが同じコマで魔法史に出席するから、良ければご一緒しませんか?って誘ってくれているのよ。どうかしら」
「ん……」
「まだ怖い?」
「……」
明日。イデアは考え込んだ。
さて、”体験入学生”と言えど彼女は基本的に暇である。というのも彼女は校内を出歩く時、基本的には初日に紹介を受けた寮長の内いずれかを必ず随伴として付けることを約束させられているからだった。
これはイデアの立場を偽造する為のアリバイ工作、ひいては口裏合わせといった大人の都合による所以であったが、内気な彼女にしてみたって連れ合いがいるというのは精神的に助かっている。
ともあれ、この付き添い(監視)システムというのが然しイデアの行動範囲においてはネックであった。
NRCというのは腐っても名門校であるからして、寮長たち属する二年、三年ともなれば危険の伴う高度な授業も多い。というより最早、召喚術や魔法薬学、実践課程を有するものは大体それに値すると言えよう。これは幾らイデアが優秀な子供であるといっても……支障となるのが体躯や体力面、肉体的ポテンシャルの不足である面が多い為、大事を取って参加させられないということをイデア自身も了承の上、予め定められている。
よって聴講が許可されているのは主に座学となるが、これだって検閲による情報規制が絡む。人間一人の記憶領域を侵さない情報の選抜というのは存外大変で、これには手すきの教師陣始め、養護教諭などを交えて協議の末当たり障りのないカリキュラムの選択が行われた。そして該当枠に元々出席予定だった寮長たち間でのシフトが組まれ、……とはいっても彼らの負担と言えばちょっとした送迎と授業中隣に座っての少しの監視、その程度である。
話を戻そう。つまるところ、こういった諸々の事情による介添えがないとイデアの外出というのは成立しなかった。ので、彼女はその機会というのに思案しているのだった。望んで居た機会であるのだし、何をと思うかもしれないが、悲しいかな人見知りはその一歩飛び込んでゆくのにも勇気がいる。
尚イデアに聴講の予定がない時、彼女は教員の誰かしらの研究室に座らされている。まさかヴィル不在時に部屋を借り受けるわけにもいかないので。そして出向した先で古い本などを与えられて、日がな一日それを読んで暮らすのだ。
この生活も悪くなかった。NRCの教員には研究畑の人間も多い。その巣窟へ踏み入れば、そんじょそこらではお目にかかれないような貴重な資料が山とある……。
「んん、……ぃ、行く。行きたいですって、お返事してくれる……?」
結局、イデアが返事をしたのはややあってのことである。
「いいわ。もし欲しければノートとペンを用意してあげる。教科書は、アタシは二年生用のものを今持ち合わせていないから、二人に見せてもらいなさい。二人もきっと嫌とは言わないから。できる?」
「うん、」
「よろしい。授業が終わったら、二人が責任を持ってアタシのところまで送るそうだから、怖いことはないわよ」
「ん、」
「……ふふ、もう寝ましょうか」
「……ふぁい、」
ヴィルがこのポムフィオーレの寮長室でベッド代わりに貸してやっている応接用のソファは、それでもイデアの小さな体には大きくて、寝心地は兎も角として寝苦しくは無さそうであった。
彼女は暫く前からもうずっと、そこに座ったまま眠たげに目をしょぼつかせていたから、ヴィルは手ずから大判の重たいふかふかの毛布を首元まで掛けてやるのだが、すると目を閉じたままもぞもぞと潜り込んでいく。これは気づいた時に直してやってもいつも、いつの間にかこうなっているので、多分彼女が元から持つ癖だったのだろう。
記憶との齟齬を無くすべく、なんのかんのと理由をつけて全ての電子機器類から引き離されて強制デジタル・デトックスを受けさせられているイデアは、こうして夜更かしの意味を失うと、まんま幼い子供の如くあった。慣れない環境にある気疲れもあるのだろう、存外待遇に駄々を捏ねることもなく、夜になれば大人しく眠ってしまう。これには美容睡眠を怠らないヴィルも大助かりで、この日も照明はあっさりと落とされた。ポムフィオーレの夜は早い。
――――――
なんなら朝も早い。故にイデア(小)はアズールとカリムに挟まれて教室の隅の席に座り、些か眠たげに目を平べったくしながら共有された教科書を眺めていた。
教科書と言うには厚く重たい、古めかしい装丁の本である。その見てくれと言えば教本というよりは一般書籍と言ったほうが正しいだろう。それもその筈、この授業で主だって使用されているのは市井にも流通のある古き良き……魔法史大全全三巻の二巻目、中世代についてが目録されている巻であった。魔法史の授業を受けるにあたっては、生徒は全員この魔法史大全全三巻を教科書代わりとして購入させられるのである。
そして授業の方も、この本に合わせカリキュラムが組まれることになっていた。例えば、一年生では一巻目、古代史についての授業を。二年生では二巻目、中世代についてを学ぶ。そういう進行となっている。尚三巻目には中世代の終わりから近代にかけての流れが収録されている。故に、ヴィルは三年目の教本をイデアに見せるつもりは無いようだった。
また、歴史の解釈というのは移ろいやすいもので、教師たるトレインは教本から逸れた学説の補足、教本に記載のある言論から、さらに踏み入った内容を他文献を用いながら説明したりなどをしてくれる。謂わば現行で最新とされる情報の、水先案内人ということだ。……本人が教本同様如何にも古めかしい上、刺激を求める若者には特に面白みもなく、睡魔を誘う授業をしていることだけが難点だが。
閑話休題。兎も角イデアは情報統制的観点から既知の時代に付いて叙述のみで構成された教本を与えられて、大人しくくったり座っていた。
アズールは姿勢正しく座り、トレインの提唱する完全に教本外の部分にある学説についての講釈をきっちりノートに取っていて、イデアを挟んで逆隣に座ったカリムはもうデスクへと突っ伏して爆睡していた。
彼女達は教室の一番後ろに座っていたが、イデアの座高が低くとも、黒板は容易に見えていた。講堂が座席ごとに段のつけられた形に設計されている妙は勿論あるのだが、それ以上に、カリムの如く突っ伏して爆睡している生徒が多い為である。前が一通り全て潰れているから抜けるように黒板が見えている。トレインは、このような生徒を授業中には吊し上げないので、抗いようもなく居眠り率は実に高いものであった。今この時が昼過ぎの麗らかな時分であることも、拍車をかけているのだろう。
イデアも昼食は食べさせられたが、それきりであった。眠たげではあるが、眠気には直結していない。それはこれが希望して臨んだ授業であるし、また思索がてら聞くことによってうまいこと気が紛れているという為であった。
「イデアさん、授業は面白いですか?」
と、ふとアズールが小声で問うた。イデアは拝借したカリムの教本をぱら、ぱらと捲り、眺めながら、これには「ウン」と曇りの無い返事をした。
「アズール、さん、……これ。」
「はい?」
「今日授業聞きながらノート書いた、ので、……僕がちゃんと書けてたか、あ、後で見てもらえますか」
「おや、いいですよ。僕もちゃんと取っていますから、後で答え合わせをしましょうか」
「ぁ、ううん、えっと、……答え合わせしてくれたら嬉しい、けど、ぼ、僕はいいので。ちゃんと書けてたら、これ、カリムさんにあげたい、です。あんまり字は上手じゃないけど、……き、教科書みせてくれたお礼……」
「おや。おやおやおや、イデアさんは親切ですねぇ。良いんですよ、彼どうせ眠っていて使っていなかったんですから……。逆にその親切に対価を請求したって良いくらいだ」
「ふ、ふひ、いらない……。あの、……連れてきてくれたのも、ありがとう……」
――――――
「……失礼。手を繋いでも?」
「あ、は、はい、」
「もし痛ければ、仰ってくださいね」
「はい、あの、……な、なんで敬語?ですか?
さ、……いしょの時、もう少し違うふうに、喋ってた」
「あ、あぁ。すまないね、……僕は年少のものを相手にするのに慣れていなくて……。少し緊張しているのかもしれない。怒っているわけではないよ。ただ貴方の安全確保ばかりは責務であるから、手を離すわけにはいかないんです。ここは人が多いから。」
「う、うん、」
「わかってくれてありがとう。……料理はマレウス先輩が代わりに運んでくださると仰っているから、貴方は僕の側を離れないように。皆あまり下方は見えていないから、人にぶつからないように気をつけて」
「はい、……」
リドルに手を引かれ、訪れたのは昼時の大食堂であった。
彼女は十八歳の時分にもそこまで丁寧に暮らしたことは無いのに、なかなかどうして、子供の体を手にしてからというもの強制的に食生活までもを改善されていた。流石に食事に補助が必要な齢では無いのだろうが、見るからに小さい生き物を放置して食事の面倒を見ないというのは心が痛むと誰が思ったのか。飯時となると手隙のものは自発的に、努めてイデアを探しにきて、彼女を大食堂へと連れ出すようになったのである。
そしてともするとノルマでも達成したかのように、これをこなした者はその旨を報告し合うらしく、今や何だかよくわからないが互助会のようなものが自然と形成されているという。寮長たちは抜け目なく、これのお陰で今のところ食いっぱぐれていることはない……。その中で、この日その役を担ったのが偶々リドルとマレウスであったらしい。
リドルは紅薔薇色の作り物の如く艶めくロングヘアを靡かせ威風堂々歩いていて、その手を握る力は申告通り些か強いものだった。手こそイデアにしてみれば、母や……或いは姉かと思うような、しっとり細く小ぶりな淑女の御手であるのだが、この様子を見る限り確かに人馴れしていないように思える。力のコントロールが妙なのだ。それでも彼女が大真剣のあまり気を張っていることだけは、見ていればよく伝わったのでイデアは大人しくし身を任せていた。
連れられてきたのは最奥部の……一段高いところに作られた、所謂ディアソムニア席では無いのだが、その手前の、地続きには一番奥の付近の端の席である。お出ましとなったのが烈火の暴君に続きあのマレウス・ドラコニアとなれば、近寄る云々より先にあまり関わりたくはないというもの。その為か同じ卓に同席するものはいなくて、イデアはやっぱり開けた席に三人ポツンと座る羽目になった。
「シュラウドは生ものが苦手と言ったか。今日のサラダには生肉がある。嫌なら残しても構わない」
「……な、なんで知って……?」
「……事前に聞いている」
「生肉?……あぁ、生ハムですか。確かに塩味の強すぎるものは幼い子供には相応しく無いかもしれないな。食堂の食事は大概強く味がつけられているし……君、あまり量を多く取りすぎないようにするのだよ。でも少しずつでも良いからバランスを意識して食べること。健康に害が出るといけない」
「り、リドルさん、厳しいね……先生みたい」
「ふふ、導く者にしては彼女には寛容性が足りない」
「……貴様、ハンバーグを食べているのかい!?第168条!!!!火曜日にハンバーグを食べるべからずと定められているのを忘れたのか!!!!!」
「ほらご覧」
リドルは前触れもなく突如立ち上がると己の胸ポケットからマジカルペンをひったくり、カンッと響き渡る大声で明後日の方角を爆発的に怒鳴りつけた。
……見れば少し離れた席で、ハーツラビュルの腕章をした生徒が確かにハンバーグを食べていたらしい。尤もイデアからしてみれば、リドルがその生徒の首を即座に刎ねたお陰で所在がわかる始末であるのだが……。
「はわわ……」
イカレ女の圧倒で食堂は一気に水を打ったように静まりかえる。その波紋のど真ん中で、元凶のリドルは処刑を終えると何事もなかったかのような美しい佇まいで着席をした。
背筋を伸ばし黙って目を伏すと、彼女は今朝方生まれた春薔薇の花のようである。然しこれにより際立った多重人格みたいなヒステリィは、どう考えても異常者以外の何物でもなかったのでイデアは余計に狼狽え、真向かいの女の素晴らしいマナーを眺めながら椅子の下にぶら下げた足を引けた。それによりマレウスの方に僅か寄るような格好になったので、気を良くしたのか彼は笑いながら言った。
「恐ろしいか、シュラウド。だが案ずることはない。お前が幾ら厳格の法律を破ろうと、この僕がついている限りローズハートに為せることなど何も無いからな」
「……マレウス先輩、お言葉ですがね。
教育に悪いことをお言いでないよ。それに幾ら貴方に実力があろうとも、法律というのは社会正義において絶対なのです。ましてや為政者たるべき貴方が無法の悪徳を賛美して何になろうというのか。貴方の生国は無頼漢の国ですか。さぞやお美しいのでしょうね。無法で成り立つ国家を僕は見たことがありませんが……今後開国の予定があるのであれば、その帝王学に社会学の分野を早急に加えられることをおすすめいたします」
「人の子、止まらないな」
マレウスには、リドルと真逆に寛容性が足りすぎているらしい。面と向かってこれほど捲し立てられても尚彼はその勢いに目を丸くする程度、気分を害した様子もなく、寧ろ空腹に耐えかねたのか、会話途中だというのに箸で生ハムを拾い上げるとひょいと摘んだ。
そしてのんびり咀嚼して飲み込むと、「ああそうだ」等と宣い改めてイデアに向き直る。
「シュラウド、今日は僕の友だちを持ってきたのだ。特別に紹介してやろう」
上着のポケットを漁って取り出したのは、拳より小さい程度のデジタルペットのおもちゃである。
「……!ドラコーンくん、」
「そうだ。……お前も随分と小さいから、小さい友だちができると良いだろう。これは僕のものだからくれてやることはできないが、少しばかり遊んでやってくれ」
「……マレウス先輩、大丈夫なんですか」
「確かめさせた」
さて、幾ら日頃大人しく過ごしているように見えていたとて、根本的にその性分というのはさして変わっていないらしい。デジタルペットを与えられたイデアは枯渇した植物がぐんぐん水を吸い上げるように、あっという間に小さな液晶に夢中になって……小さな爪のはまった指でチャカチャカ忙しくなにか操作をしている。巨大なマレウスは窮屈そうにその手元を覗き込みながら、「オオ……何をしている?それは。素早い……」などと言った。
「お二人とも、食事中に遊ぶものではありませんよ」
「大体テメエのオモチャ貸しといて何をテメエで分からねえことがあんだよ、バカじゃねえの」
「ムッ、……おやキングスカラー」
「どうも、仲良くオママゴトか?お三方。楽しい筈の団欒に全くの部外者如きが水を差しちまうこと、大変心苦しいが……、リドル・ローズハート、この書類にサインを頂いても?」
そこに現れたのは鮮やかな山吹色のベストの男である。イデアは華やかなその彩度とやっぱり巨大な体躯の圧にぎょっとして思わず身を縮めた。首をすくめて見上げると、書類を投げやりに差し出す彼の黒革グローブの掌の内に、やはり鮮やかなネコの目のように光るオレンジ色の輝石が見える。彼はその巨大な手の内に書類とマジカルペンを一掴みにしていたらしかった。
「……ああ、わかりました。この書類、期限は本日中の筈ですから忘れず必ず提出するように」
「……チッ」
「返事はハイ!」
「はいはい……」
そしてリドルのサインを確認すると卓の端に書類を置き、その続けざまにペンで何か書き込みはじめる。流れるような筆跡は粗野な態度に見合わず理知的で美しい。
「第一、貴方もそのオママゴトとやらに参加していただいて構わないんですよ。水を差すというが、そもそも貴方自らが責任者のポストとしての義務を果たしていないだけだ。何なら今ここに座っていかれますか。席を空けて差し上げましょう」
「ゾッとするようなことを言わないでくれ、お嬢さん。幸せ家族計画に組み込まれるなんて一生涯性に合わないもんで尻尾の毛が逆立っちまう……、見ろ、もうフワフワだ。この後は部活の方に用事があるんでね、ここいらで邪魔者は退散させていただくぜ」
「貴様、逃げ続けられるのも今のうちだぞ」
「はは、どうだろうなァ?」
結局、この無作法者がこの日、ちんまりと座る下方のイデアを顧みることは一度もなかった。
――――――
このようにして、最初はばかりはなんのかんのと文句をつけていた寮長たちも、今では小さな”体験入学生”と概ねうまいことやっていた。これにはやはり年長者・率いる者としての自覚や受け入れる器の素養もあろうが、大前提として子供が大変扱いやすい所謂利口な子供であったことも一つ、大きく関係しているのだろうと思う。
子供は大人しく、いっそ淑やかで、少しばかり自己主張の弱すぎるきらいがあるが本質的には利発で物事をよく理解する。面倒を見る側の都合を敏く捉えて正しく慮りまでするのだ。要は全く手がかからなかった。
おまけに世話を押し付けられた側にはイデアの本来の……十八である頃の人間性の記憶がそれはまア色濃く残っていたので……この”利口さ”の落差を鑑みれば新たに好感さえ覚えるほどである。
従って、勿論面白半分義務感半分の側面もあるにはあるが、寮長たちは然程文句も言わずこの小さな隣人と付き合って、まあまあうまいことやっていた。虚弱な子猫を拾ったので知り合い皆で面倒を見ている、言うなればそんな感じの心持ちである。然しその中には全く世話の場に現れず……協力する素振りすら頑なに見せない者もいた。それがレオナ・キングスカラーである。
レオナは世話どころか近頃では小さい隣人以外についての情報交換の場にすら殆ど姿を見せず(これは多分顔を出すと非協力的な態度を咎められるからだった)、イデアを連れている者があれば近寄ろうとさえしなかった。リドルにサインを貰いに来た折が唯一といった程である。そしてそれもイデアに拘らうつもりは徹底して無いようだった。なんでだかはよくわからないが……子守をしに来てんじゃねえ、などとありし日に学園長を野次っていた姿も確かである為。或いは子供を気に召さないのか。
ヴィルは本日のスケジュールについてをつらつら考えて、黙々手を動かしていた。朝のことである。彼女はイデアを部屋の長椅子に座らせて、その背後から髪を編んでいた。
煌々と燃え続ける青い炎は子供の背丈を巻く程に長大であり、金持ちの飼い猫のそれの如くふわふわと広がっている。かろうじて引きずるほどではないのだが……、そもそもその浮世離れしたデザインセンスの髪に魅了されていたヴィルは、元の持ち主たるイデアに手を触れることを許されていないフラストレーションも相まってここぞとばかりに理由をつけて、あれこれこねくり回しているのだからどうしようもない。この日は後ろで一つに編み込んで、飾りをつけて背中に垂らしてやろうと思っていたところ。イデアの髪を形成する炎は髪先なんかが透けて、実態を持たないように見えるのに、中頃ごと大きく纏めて捕まえるとそこには確かに質量が存在しているようで不思議だった。
そうしてどの程度夢中になりすぎていたのか、ヴィルはイデアに小さな声で呼ばれたように思い顔を上げた。
「どうしたの?ごめんなさい、今呼んだ?全く聞いていなかったわ」
「ぁ、うん、……」
「痛かったかしら?それとも何か、ご用事?」
「……」
さて今に逃げられなくなるといったローズハートの言に、何ぞと返したのはどこぞのキングスカラーか。彼女は何を思ったか。小さなイデアはしっかりたっぷり悩むと「レオナに会いたい」と言い出した。
「は?なんで?」
「ん……と、エト、……用事があり、ます」
「用事?なんの用事?それはアタシたちでは頼りにならないことかしら」
「ぅ、いや、ヴィルさんたちにはお世話になってるんですけど……、……レオナさんに聞きたいことがあるので、」
あの折リドルに未来が見えていたとは全く持って言い難いことであるのだが、結論からすればこのようにして、確かにレオナは逃げられなかったのである。
「アンタね、堂々とサボってるんじゃないわよ。まぁ今日は精々自分のその素晴らしい日課に感謝することだわね」
「は?」
ヴィルから「届け物がある」と言われ暫く、レオナは自室にイデアを送り届けられて当惑していた。
確かに通例の如く「談話室に来い、取りに行く」と返事をすると「届けに行くから部屋で待っていなさい」と打診され、おかしいとは思っていたのだが。レオナは安全を鑑みて、ヴィルを初めとした付き合いの女生徒を部屋まで招いたことはない。そしてヴィルだってそれを了解していた筈なのだ。だからおかしいとは思っていたが。まさか自室を託児所にされるとまでは思っていなかった。
ヴィルはイデアの前にしゃがみ込み視線を合わせると、「次の授業終わりに迎えに来るわ。虐められたり、変ないたずらをされたりしたらこの防犯ブザーを鳴らしなさい。特別製だから必ずアタシが助けに来るし、その前にまずレオナには魔法の雷が落ちて確実に仕留められるから」とかなんとか、怖いことを言ってちゃっちいオモチャを握らせている。レオナはどうしたらいいのか分からず、つい半笑いになって「は?」と言った。
「アンタも。こんなに小さい子供なんですからね、イジメるんじゃないわよ。アンタと話がしたいらしいから、相手をしてあげて」
「聞いてねえんだが?」
「アタシにはアンタと違って授業があるの。もう行くわね。たかが授業一コマ分だけど困ったら連絡しなさい。授業後にまた来るわ」
レオナはその場でこれ見よがしにスマホでヴィルに電話をかけたが無視される。ヴィルは肩に引っ掛けた帆布地のトートバッグの中から、iphoneの初期設定の着信音を流れるままにしつつ出ていった。
振り返ることは無かった。レオナは一つ舌打ちをして……部屋に戻る。関わり合いになりたくないからベッドへ戻ろうと考えたのだ。
従って、この際彼はイデアに一つだけ言葉を掛けた。関わり合いになりたくはないが、子供を部屋の戸口に立たせっぱなしにしておくのも忍びない。というかそんなことをしていては彼自身の沽券に関わる。なので「入れ。適当に座っとけ」とばかり言って部屋の扉を閉めさせた。
子供は受け入れられると小さな声で何かを言って、ペコリと頭を下げるとステステ……とすっとろい歩みで中に入り、……部屋内の、ベッドの置かれた小上がりの端っこにちょこんと腰を掛けた。レオナには背を向けているが、ベッドの真横辺りである。ソファでも、椅子でも座ろうと思えば座るための家具が部屋の中に幾つもあるのに、おまけに彼女はあの"人嫌いのイデア・シュラウド"と相違ない筈なのに。思ったところと全然違うふうに距離を詰められて、レオナはギョッとしてしまった。
改めて、コイツは俺に用があるのか……ということに思い至りこれに面食らったのである。だからと言って相手をするような気にはならないが……。レオナはその小上がりにちょこんと乗せられた尻の、猫背の細い背中を、良家のお嬢さんみたいな仕立ての小さな白いブラウスを。サスペンダーの金具を、髪長姫のように豊かに編み込まれたふわふわの青い炎を少し眺めて、毛先のカゲロウの薄靄のゆらめきにゆったりと眠たくなって欠伸をした。その時だった。やっぱり小さな声で、子供が何かモニャモニャと喋る。
「……」
「……えっと、あの、……」
「悪いなお嬢さん、俺ア進路相談テーマパークのお優しいキャストじゃねえんだ。今後の人生についての含蓄あるアドバイスを聞きてえなら他を当たってくれ」
「……、」
「……」
強めに会話を拒絶すると為されるがままに黙り込む。会話は一向に再び起こる気配を見せず、無言で少しだけレオナを振り返った子供は虐待されるばかりのような顔をしていた。
するとレオナはこの瞬間、大変不謹慎なことに不意にいっそ面白くなってしまった。
子供の姿が既知の女のものと全く異なっているように思われた為である。元からさしたる知り合いでもないが在りし日のイデアには、少なくとも異様な負けず嫌いの側面があったように思う。決してコミュニケーションの上手い女ではなかったが……かろうじて、打てば響くところはあったのだ。特に嫌味になじられてノッてこないことなどレオナの観測範囲内にはまず例が無い。寧ろ一度何か発すれば、彼女が一番うるさいまであった筈。嫌な学園である。
レオナは黙りこくった子供の、如何にも儚い憐れっぽい姿を見て顔を顰めると小虫を払うように耳を振るった。そしてふと、子どもの大きな瞳がそれを追って動くのを認める。
「……」
「……なんだ、耳だの尻尾だのに興味があるのか?」
十八歳のイデアに、レオナは植物園で幾度かはち会ったことがある。その彼女曰くの目的を思い出して……レオナは寝返ると横向きに体と肘を立てて、頬杖をついた。
「ぅ、はい、……」
「触ってくれるなよ。俺はこう見えても毒ライオンでね。耳から毒が出てるんだ、ガキが触ると死ぬ」
「……ふひ、絶対嘘」
お、と思う。吐息混じりに唇の端を吊り上げて笑うから溢れる緩い音は、既知の女からたまに聞くものと同じだった。
「いいや、死ぬ。お前なんざ一溜まりもねえ。毒だし爆発するからな。この学園で触れるのは学園長だけだ、ヴィルですら一回死んだことあるぜ。……用事はこれで済んだろ、もう帰れ。俺はこの耳の毒を治すのに忙しい」
「…………、……まだ、」
「は?」
レオナは枕元に放り出していたスマホを手にとって、既に無料チャットアプリを立ち上げていた。ヴィルに電話をかけようというのである。彼としては招かれざる客人に、早くお帰りいただきたいというのが変わらず望むところであり……。然しその手の内をガン見して、焦ったようにイデアは言った。
「ぼ、僕がここにいるの、おかしいですか」
「ああおかしいね、ここはエレメンタリースクールじゃないもんで」レオナは寮長連中で使っているチャットグループを開く。近頃ではそこに各々スケジュールを公開しているので、この後ヴィルが駄目なら手隙のものを呼びつけようと考えたのである。
「ぁ、えっと、ちがくて、……僕のこと、知ってましたか?」
「……?」
「……なにか、……隠し事してますか?」
レオナはふと手を止める。子供を見る。子供は小上がりの上に完全に振り返ってしまって、スカートなのに膝を立てて座ったまま、レオナの方を向いていた。
レオナはそれを見て反射的に、クチャクチャにして背中に敷いていたタオルケットを投げ落とす。
「……俺が?ほとんど喋る機会もなかったテメエに?」
「……エト、……」
イデアは喋り方がわからなくなってしまったとでも言うように、心細げに眉を落としていつまで経っても要領を得ない。床に捨てられたふにゃふにゃのタオルケットばかりを困ったようにただ、眺めている。レオナは布端を吊るよう魔法で持ち上げると、イデアの膝にかけてやった。
「……」
そしてせっかちにも、促してみるとイデアの言うにはこうである。
「……皆、さん優しくしてくれるんですけど、んと、まずは何て言うか……態度が少し変、と思って……」
「勘違い、かもしれないですけど……初めましてじゃなくて元から知ってたみたい、にされてる瞬間があって……」
「……僕は左利きなんです、けど、皆当たり前のように最初から右側に座ってきたり……、ごはんの好き嫌いを知ってたり……とか。あらかじめ、資料で知ってたとしても全員がちゃんと、わかった上でここまで対応できるものなのかな?と思って……だから……会ったことがあるのを僕が忘れてる?可能性が存在する、とまず思って……」
「あと、えっと……多分、僕はブガイシャなので見ていい物と悪いものがあると思うんですけど、……そういう情報の管理がかなりシビアかな、と思い、ました」
「部屋にいる時以外はいつも誰か、ついてきてくれるんですけど、ついてきてくれる人以外の声が聞こえなくて、えと、周りの、……顔見ると口は動いてて、喋ってるとは思うんで、だから魔法で聞こえる範囲の制御をされてるのかな?と思って」
「この学校エリート校なんだって聞いたんですけど、その割に観覧を許されてる出版物が精々数年単位で古いもの止まりだし……少なくとも僕の知る限りの最新のものではないみたいで……、それで監視みたいについてくる人たち、と、聞こえる範囲の情報、とかのことを考えると意図的に僕が知るべきものをコントロールされてるのかな?と思って、」
「後、それ……レオナさん、の持ち物ですか?通信可能な電子端末?ですよね、僕それ知らない、皆似てるものを持ってたけど多分僕は初めて見る型なんです、操作感どんな感じなんですか?気になります、見してください」
「待て待て待て……」
子供は己の胸元に垂れ落ちた燃える髪をもたもた弄りながら、眠たくなるような論法で喋っていたのだが、喋り進めるに連れどんどん元気になっていった。最終的に明らかに個人所有物である端末を貸せ、とまで来たので思いもよらぬ図々しさとその闊達さにレオナはつい話を遮ってしまう。
そうして端末を枕の下に隠した。流石にまずったと自覚したのである。
「これはダメだ。貸さない。……話の続きは?」
「ぁ、はい、エト……。一地域だけじゃなくて、えと、ここにはいろんな人がいて、多分皆おうちは別々のところにあるんだと思うんですけど。そういう、色んな人たちに普及してるシェア率の高い電子機器を僕が知らないっていうのはおかしい、と思ったので」
「周りの態度と、情報の開示状況と、えと、端末、……を総合的に見て、僕は、えっと、僕は過去から来たのかな?と思って。……だから僕がここにいるのはおかしくて、……もしかしたら皆さん、は、未来の僕を知ってた……?のかな、と思って……」
「……だけです」
「ヘエ。……大した推理じゃねえの」
「ウン、……魔法事故のことを考えると、魔法士養成学校でそういう事例が発生するのは不自然なことではない、のかもしれないし……」
「…………そうだな、……テメエが知りたいすべてを今ここで教えてやってもいい」
「ホント?」
「本当だとも。……教えてやるからこっちに来い。
靴を脱いでベッドに上がれ。開けてやるからここに横になれ」
「ぅ、ウン!」とイデアは呟いて、言われた通りに靴を脱いで並べると目をキラキラさせて立ち上がる。そして些か危うい体幹でレオナのキングサイズのベッドに……懸命によじよじ登って来て、全く物怖じもせず腰を下ろす。言われるがままに横になる。
レオナ気に入りの、オルテガ柄のカバーの掛けられた枕にちいさい頭をちょこんと乗せて、彼女は真っ白で細い、骨から柔らかそうな足を投げ出している。小さな紅葉の手を腹の上で組んで、大人しく男を待っていた。
レオナは自分で誘っておいて、それを見てやっと、このか弱そうな生き物に己が何だかとてつもなく悪い事を求めたように思えてきて……。彼女の小さい手の中に、ヴィルから渡されたオモチャの姿を探す。
「……一つ、聞いても?」
「?」
「なんで俺のところに来た。お前の面倒を十分に見る奴は、他に沢山いただろう」
「……貴方は僕を好きじゃないみたいだった、から?」
「ア?」
「好き嫌い、と言うか、興味がなかった?……僕を丁重に保護するべき子供、として扱ってない、と思った、ので」
「、」
「口を割るかと思って……」
レオナがこの後目論見通り、イデアを魔法で昏倒させて「おいコイツ気づいてるぞ、話が違うじゃねえか」とヴィルと学園長を呼びつけたのは言うまでもない。
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