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[Theme 01]3年目編

07

少し肌寒さを感じて、目が覚めた。

エアコンから吹き付ける風の冷たさに、慌ててサイドテーブルに手を伸ばす。
掴み取ったリモコンに目を凝らせば案の定、あまりの暑さに温度を下げたままにしていた。

そのうちいつもの温度に戻しておこうと思っていたのを、すっかり忘れて眠りに落ちていたようだ。

暗闇に慣れた目で隣を見れば、はるかが寒そうに掛け布団にくるまっていた。
ヘッドボードにかけていたブランケットを重ねて、そっと抱き締める。

「んん…」
「はるか…?」

かすかに声を上げたので、顔を覗き込んだが起きる様子はなかった。

はるかは一度眠ると、滅多なことでは起きない。

それなら、と一瞬、邪な考えが過った。

「はあ…」

静かに息を吐いて、どうにかそれを逃がす。


はるかのぬくもりが好きだ。

ピアノも、笑顔も、声も、言葉も、しぐさも──彼女のすべてが、あたたかい。

それを全部抱き締めたくてたまらないけど、形あるものにしかこの手は届かないから、せめてその小さな身体を抱き締めて。
触れたことのない場所などないほど、隅々まで触れて。

そして彼女の内側にまで潜り込む時、“赦し”のような感覚が身体中に満ちるのだ。

これまでよりもずっと近くにいるのに、はるかがどこか遠くへ行こうとしているように見えてしまう度、その感覚をどうしようもなく欲した。

「はるか…」

抱き締める腕に、力を込める。

「うん…?」

首の下に腕をねじ込んで、頭を抱え込むようにするとくぐもった声が聞こえた。

「…うわっ!こら、ちょっとちょっと!」

さすがに起こしてしまっただろうか、切羽詰まったような声に瑛も目を開ける。

「瑛くんっ!腕!腕!」
「え…」

しぶしぶ腕を緩めると、はるかは勢いよく身体を起こした。
寝起きのはるかとは思えない俊敏な動きに、目を見張る。

「ぎゅってしてくれるのは嬉しいけど、腕枕はダメ!痛めたら大変…!」

そう言いながらそっと瑛の腕を押し返すので、呆然としてしまった。

「えっ!?瑛くん、泣いてる…?」

視線が合わさったと思えば、慌てたようにサイドテーブルのライトを点けた。
やわらかな明かりに照らされて、はるかの瞳が揺れている。

「あ、よかった…気のせいだった…」
「…」
「…やっぱり…気のせいじゃ、ない…?」

ゆらゆら、またたくように揺れる瞳。

「“ぎゅってしてくれるのは嬉しい”って、ほんと…?」
「え…っ!は…はい。ほんとです…」

頬を染めるなり俯いたので、瞳の輝きが見えなくなってしまった。

「俺…はるかに触れると、全部欲しくなる」

ぴくり、華奢な肩が揺れた。

肌寒さで目が覚めた夜だったけど、今となっては全身が茹るように熱くて、もう一度眠れる気がしなかった。

熱に浮かされた目ではるかを見れば、はるかは俯いたまま、そっと頷いた。



夜が明けて、珍しく連休を迎えたその日、ふたりは郊外のショッピングモールに来ていた。

先日めでたく納車となった瑛の車を駐車場に停めて、そのまま降りようとした瑛の袖をはるかがそっと掴む。
振り向くと、もう片方の手でメガネを差し出していた。

「大丈夫だって」
「大丈夫じゃないよ、ひとりの時ならまだしも…!」

ふたりで出かける時は、ほぼ毎回このやりとりをしている気がする。

「気にし過ぎだって、高校の時から」
「もしもある日突然スターになったとして、その瞬間からスターの振る舞いができますか…?」
「…一理ある気がしたけど、やっぱ大袈裟すぎ」

そう言いつつも、結局最後には素直にメガネをかけるのだけど。

「ていうか、はるかは?」
「え?」
「はるかの方がよっぽど、テレビとか出てんじゃん」

あれ以来、はるかは度々テレビ番組に呼ばれるようになった。

数日前に撮影があった教養番組は、ついにはるか単体での出演だった。
番組ではジャズの歴史がテーマとなっていて、ドラマのヒットが若者たちにちょっとしたジャズブームを巻き起こしていると聞き、はるかとしても嬉しい限りだと話していた。

「でも、たぶんもうこないだので最後だろうし。観た人も顔まで覚えてないよ」
「はるかはある日突然“スターの振る舞い”ができるんですか?」
「あはは。わたしはそこまでなんないよ」

そう言って笑うはるかの瞳は、どことなく哀しげに揺れていた気がした。


一通り買い物を済ませた後、帰路につく前にリップを直してくると言ったはるかを待つため、ベンチに腰を下ろした。

「うそ、マジで?」
「いや絶対そう!絶対ヒノだって!」

暇つぶしに取り出したスマートフォンをぶん投げそうになった。

「え、一人?」
「見かけた時は一人だったけど、結構荷物持ってたし…ていうか、独り身でモールとか来る?」
「それは偏見じゃね?」

どうやら声の主は瑛とは背中合わせになっていて、今まさに本人がそこにいることには気付いていないらしい。

「女いんのかなー…え、待って無理ー…」
「一人なら違うんじゃない?車買ったらしいし、なんかまとまった買い物でもあったんじゃ?」
「そうかなー…ヒノに女いたらマジ終わる…」

──いるけど、普通に。ずっと前から。

「え、逆に誰なら許せる?」

その質問には、瑛もなんとなく興味が沸いた。

「えー、誰でも無理だけどー…うーん…スポーツ選手とか?それかマジで普通の一般人。芸能人はやだなー顔見るたび病みそう」
「そんなに?待って、ガチ恋じゃん」
「違う違う!そこまでなくても嫌じゃん、なんかー。テレビとかで観る度“この人と推しが…”って思わなきゃいけないの」

──くだらね。

聞き耳を立てることにも飽きてスマートフォンに視線を移すと、はるかからメッセージが来ていた。

“そのまま振り返らずに南側の出口に向かって”

危険な取引でもするかのような字面に、思わず顔を上げる。
既に出口へ向かっているはるかの背中が見えた。
その手はスマートフォンに何かを打ち込んでいる。

“瑛くんのうしろ、たぶんファンの子いる。背番号のアクキーつけてる”

よく分かったな、と素直に感心した。
あるいははるかも、同じものを持っているのだろうか。

「ごめんね、一人で待たせるなんて危険だったね…」
「んなことねえよ」

すぐに追いつくと、はるかは申し訳なさそうに眉を下げていた。

はるかがそんな顔をすることはない。
要人警護のSPじゃないんだし、何なら守るのは瑛の役目だと思っている。

「なあ、はるかも“推し”に女がいるかって、気になる?」

なんとなく、そんなことを尋ねてみた。

「え?うーん…わたしは気にならないけど、気にする人もいるっていうのは、重々承知してるよ…」

なぜだかさらにしょんぼりとさせてしまった。

「万が一明るみに出た時に、一人でも傷付く人の少ないわたしでいたいとは思ってるよ…」

そんなことまで口にするから、人目もはばからず抱き締めてしまいたくなった。

「…“万が一”ってなんだよ。そのうち絶対明るみには出ますけど?」
「出ない努力をしてください…!」
「今はそうだけど…」

言葉の途中で、はるかが袖を引いた。

今度は球団ロゴをあしらったTシャツを着た子供が、目の前を横切っていく。
その姿を見送りながら、はるかがほっと息をついた。

瑛がはるかといることが、まるで悪いことのようにふるまうのが、日に日に納得がいかないように感じていた。

いっそ週刊誌にでもすっぱ抜かれて、公表するしかない状況になった方が手っ取り早いんじゃないか。
そんなことまで考えていた。


──それもきっと、あと少し。

半ば無理やり自分に言い聞かせて、はるかの横顔を眺めた。
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