[Theme 01]3年目編
06
“帰りました”というはるかのメッセージに、今すぐ飛んでいきたい気持ちを必死で抑え込む。
ユニフォームを纏えば一気に脳が切り替わり、その日は打撃がパッとしなかったものの、守備では二度三度と投手のピンチを救うことができた。
はるかからもお褒めの言葉をいただけるはずだと、上機嫌で家路を急いだ。
「…はるか?」
静かな家の空気に、首を傾げる。
試合が長引いた日、翌朝が早い日は遠慮せず先に寝てくれと言ってあるが、リビングから灯りが漏れている。
そっと扉を開けると、はるかはテーブルに突っ伏していた。
開いたままのノートPCの画面に、難しそうな楽譜のソフトが立ち上がっている。
「はるか」
声をかけて、髪を撫でる。
抱き上げて寝室へ連れて行こうかと屈み込んだところで、ゆっくりとまぶたが開かれた。
「はよ。ただいま」
「んん…おかえりー…」
応える声がいつも通りだった──とんでもなく眠そうなのは別にして──ので、ほっとした。
昨晩居酒屋で送ったメッセージには、いつの間にか既読はついたものの、終ぞ返事はないままだったから。
「大丈夫?具合悪い?」
「ううん…すんごい眠かっただけ…」
「そっか。これ、今日やらないとマズいやつ?」
「そういうわけでは、ないよ…まだ全然…」
「じゃあ、もう終わりな。こんなとこで寝て、身体痛めたらダメだろ」
「…ふふ。はーい」
相変わらず眠たそうに、だけど嬉しそうに綻んだ頬に、キスを落とす。
「なに、急にニヤニヤして」
「だってなんか…アスリートっぽいなって。ふふ」
「そうか…?どっちかって言うと、ピアノに支障出るんじゃねーのって話なんだけど」
「うん。そういうところが、だよ」
だいぶ目が覚めたのか、はるかはまた笑って、PCを閉じた。
よく分からないけど喜んでもらえたのならいいか、と瑛もそれを眺めた。
「サッとシャワー浴びて寝るから、瑛くん先休んでて」
「は?」
「え?」
穏やかな雰囲気から一転、はるかの口から転がり出た言葉に、聞き返す声がつい鋭くなる。
「…やっと会えたのに、先に寝るなんて無理」
「え…ええ?瑛くんまさか…明日も試合でしょ?」
「そういうのもういいって言ったじゃん」
「そうだけど…」
ゆらゆらと泳ぐ瞳をしばらくじっと見つめれば、おずおずとこちらを見つめ返してくれた。
「…わかった。じゃあシャワー浴びてくるね」
「ん」
照れ隠しなのか、すぐに背中を向けたはるかを振り向かせて、またキスをした。
今度は頬ではなく、小さく開いた唇に。
後になって思えば、その唇は何かを言いたそうにしていたような気がする。
例のドラマ──“メロウ・ブルー”は、今を時めく俳優陣が揃い踏みということもあり、放送開始直後から大いに話題を呼んだ。
はるかの演奏は第1話からBGMとして流れていたが、昨夜はいよいよ演奏シーンが放送され、スタッフロールでも名優たちのすぐ後ろに名前が表示されていた。
それを目にしたのか、半日以上たった今でも鷺嶋の連中からのメッセージが後を絶たない。
そして今夜は、はるかにとって人生初のテレビ出演となる、バラエティ番組が放送される。
生放送ではないので本人も家にいるが、“絶対に観たくない”と言って寝室に籠っている。
そのため、瑛ひとりソファに座り、テレビを眺めていた。
CMが明け、はじまったのはお笑い芸人がMCを務めるグルメ番組。
ロケ映像が主体で、はるかたちはスタジオゲストという位置付けらしい。
『主人公・早見 玲奈役の平田 ひかりさんと、演奏吹き替えを担当されているピアニストの月城 はるかさんです!』
よく通る声に招かれ、二人の女性がセット裏から姿を現す。
慣れた様子で自己紹介をするひかりの横で、どこからどう見ても緊張しているはるかに、思わず頬が緩んだ。
『月城さんはテレビ初出演ということで!』
『あ、は…はい!』
『初出演にご一緒できて嬉しいです!』
素人丸出しな反応も、すかさずフォローに入ったひかりへの尊いものを見るような眼差しも、はるからしくてまた笑みがこぼれる。
だけど彼女はアメリカに渡ってから、そのピアノでみるみるうちに高みへと昇りつめていった。
現地のミュージシャンに招かれ、レコーディングに参加したという音源──瑛が登場曲に使用している──は、今も現地で高い評価を得ているという。
日本に戻っても決してその輝きは鈍らず、日に日に多くの人の心を掴んでいる。
だからこそドラマの話も舞い込んできたのだろうし、そんなものがなくても、彼女は既にピアニストとして唯一無二の存在として確立しつつあった。
プロのヘアメイクで引き立てられたその美貌もさることながら、芸能人たちに囲まれていても決して埋もれない存在感が、はるかという存在の大きさを感じさせた。
『はるかさん…って呼ばせてもらってるんですけど、私にとってはもう“相棒”ってかんじで。はるかさんの演奏を聴いて、私もより玲奈を理解していってるところがあって…』
その言葉の通り、ひかりは撮影現場で、はるかの演奏をとても熱心に聴いてくれていたという。
“ひらがなの名前”同士で仲良くしてくれるんだとも話していた。
『月城さんは、“演奏吹き替え”という形でのご出演、どのように感じてらっしゃいますか?』
MCの質問が飛び、はるかの目が見開かれる。
『…自分は、あくまで影の存在ですので。ひかりさんをはじめ、皆さんがつくられている作品の世界を決して壊さぬよう、とにかく自分にできることを精一杯やらせていただく所存でして…!』
おそらく用意していたであろう回答を必死になぞっている姿は、やっぱり笑ってしまった。
『なんや武士みたいになってますけど?』
そこに、はるかの隣に座っていた若手芸人から野次が飛ぶ。
スタジオが笑いに包まれる。
『初出演ですから!緊張してるんで、優しくしてください!』
ひかりがまたフォローを入れても尚、出演者たちは生暖かい視線を注いでいた。
これは寝室に引き籠りたくなるのも納得だ。
テレビ的にはかなりおいしいワンシーンだったのかもしれないけれど。
『…で、そこの武士はどう思います?』
MCまでもが乗っかって、はるかにコメントを求める度にそう口にしていたのには、瑛も“テレビって怖い”と感じざるを得なかった。
「あ、武士まだ起きてた?」
「…瑛くん…!」
寝室の扉を開けて、何やらスマートフォンを眺めていたはるかにそう言うと、ぎゅっと眉を寄せて睨まれた。
当然ながらかわいいだけだ。
「あの芸人、はるかのこと狙ってね?」
「そんなわけないでしょ…もー!みんなそればっかり…!」
後ろから抱き締めながら画面を覗き込めば、ずらりと通知が並んでいる。
“武士おはる、地上波に見参!”
“テレビ観ました!びっくりです!”
“裏番長の次は武士?忙しいね”
おちょくっていないのは渚くらいだろうか。
千景はまだしも、鷺嶋野球部ではるかと連絡先を交換していた輩がこんなにいたとは、と勝手に画面をスクロールしながら眉根を寄せる。
「あ?」
“今度撮影で神岡行くんですけど、お会いできませんか?”
メッセージアプリではなくSNSの通知に綴られた一言。
差出人は──
「うそ、まりんちゃん…!」
──またそいつか。
「すごくない?どうしよう!」
はるかが腕の中ではしゃいでいるのはかわいいけれど、それが瑛のためじゃないのが何とも腹立たしい。
「…やめてくれよな」
「うん?」
「これで芸能人の知り合いとか増えて、いつの間にかはるかまでそっち側になったりとか」
最近はインフルエンサーだのティック何とかだの、ほとんど一般人でもいつの間にか脚光を浴びるような時代だ。
既にはるかは片足を突っ込んでいるようなものだろう。
「それは、こっちのセリフだよ」
思いがけない反論に、瞬きをする。
「モデルのエリさん、日坂選手のこと狙ってるそうですけど?」
掲げてきた画面を見れば、見覚えのない女性が瑛のタオルを持ってポーズを決めていた。
「誰だそれ…」
心底不審に思いながらその写真を眺めていると、はるかはなぜだか、どこか安堵したように微笑んでいた。
“帰りました”というはるかのメッセージに、今すぐ飛んでいきたい気持ちを必死で抑え込む。
ユニフォームを纏えば一気に脳が切り替わり、その日は打撃がパッとしなかったものの、守備では二度三度と投手のピンチを救うことができた。
はるかからもお褒めの言葉をいただけるはずだと、上機嫌で家路を急いだ。
「…はるか?」
静かな家の空気に、首を傾げる。
試合が長引いた日、翌朝が早い日は遠慮せず先に寝てくれと言ってあるが、リビングから灯りが漏れている。
そっと扉を開けると、はるかはテーブルに突っ伏していた。
開いたままのノートPCの画面に、難しそうな楽譜のソフトが立ち上がっている。
「はるか」
声をかけて、髪を撫でる。
抱き上げて寝室へ連れて行こうかと屈み込んだところで、ゆっくりとまぶたが開かれた。
「はよ。ただいま」
「んん…おかえりー…」
応える声がいつも通りだった──とんでもなく眠そうなのは別にして──ので、ほっとした。
昨晩居酒屋で送ったメッセージには、いつの間にか既読はついたものの、終ぞ返事はないままだったから。
「大丈夫?具合悪い?」
「ううん…すんごい眠かっただけ…」
「そっか。これ、今日やらないとマズいやつ?」
「そういうわけでは、ないよ…まだ全然…」
「じゃあ、もう終わりな。こんなとこで寝て、身体痛めたらダメだろ」
「…ふふ。はーい」
相変わらず眠たそうに、だけど嬉しそうに綻んだ頬に、キスを落とす。
「なに、急にニヤニヤして」
「だってなんか…アスリートっぽいなって。ふふ」
「そうか…?どっちかって言うと、ピアノに支障出るんじゃねーのって話なんだけど」
「うん。そういうところが、だよ」
だいぶ目が覚めたのか、はるかはまた笑って、PCを閉じた。
よく分からないけど喜んでもらえたのならいいか、と瑛もそれを眺めた。
「サッとシャワー浴びて寝るから、瑛くん先休んでて」
「は?」
「え?」
穏やかな雰囲気から一転、はるかの口から転がり出た言葉に、聞き返す声がつい鋭くなる。
「…やっと会えたのに、先に寝るなんて無理」
「え…ええ?瑛くんまさか…明日も試合でしょ?」
「そういうのもういいって言ったじゃん」
「そうだけど…」
ゆらゆらと泳ぐ瞳をしばらくじっと見つめれば、おずおずとこちらを見つめ返してくれた。
「…わかった。じゃあシャワー浴びてくるね」
「ん」
照れ隠しなのか、すぐに背中を向けたはるかを振り向かせて、またキスをした。
今度は頬ではなく、小さく開いた唇に。
後になって思えば、その唇は何かを言いたそうにしていたような気がする。
例のドラマ──“メロウ・ブルー”は、今を時めく俳優陣が揃い踏みということもあり、放送開始直後から大いに話題を呼んだ。
はるかの演奏は第1話からBGMとして流れていたが、昨夜はいよいよ演奏シーンが放送され、スタッフロールでも名優たちのすぐ後ろに名前が表示されていた。
それを目にしたのか、半日以上たった今でも鷺嶋の連中からのメッセージが後を絶たない。
そして今夜は、はるかにとって人生初のテレビ出演となる、バラエティ番組が放送される。
生放送ではないので本人も家にいるが、“絶対に観たくない”と言って寝室に籠っている。
そのため、瑛ひとりソファに座り、テレビを眺めていた。
CMが明け、はじまったのはお笑い芸人がMCを務めるグルメ番組。
ロケ映像が主体で、はるかたちはスタジオゲストという位置付けらしい。
『主人公・早見 玲奈役の平田 ひかりさんと、演奏吹き替えを担当されているピアニストの月城 はるかさんです!』
よく通る声に招かれ、二人の女性がセット裏から姿を現す。
慣れた様子で自己紹介をするひかりの横で、どこからどう見ても緊張しているはるかに、思わず頬が緩んだ。
『月城さんはテレビ初出演ということで!』
『あ、は…はい!』
『初出演にご一緒できて嬉しいです!』
素人丸出しな反応も、すかさずフォローに入ったひかりへの尊いものを見るような眼差しも、はるからしくてまた笑みがこぼれる。
だけど彼女はアメリカに渡ってから、そのピアノでみるみるうちに高みへと昇りつめていった。
現地のミュージシャンに招かれ、レコーディングに参加したという音源──瑛が登場曲に使用している──は、今も現地で高い評価を得ているという。
日本に戻っても決してその輝きは鈍らず、日に日に多くの人の心を掴んでいる。
だからこそドラマの話も舞い込んできたのだろうし、そんなものがなくても、彼女は既にピアニストとして唯一無二の存在として確立しつつあった。
プロのヘアメイクで引き立てられたその美貌もさることながら、芸能人たちに囲まれていても決して埋もれない存在感が、はるかという存在の大きさを感じさせた。
『はるかさん…って呼ばせてもらってるんですけど、私にとってはもう“相棒”ってかんじで。はるかさんの演奏を聴いて、私もより玲奈を理解していってるところがあって…』
その言葉の通り、ひかりは撮影現場で、はるかの演奏をとても熱心に聴いてくれていたという。
“ひらがなの名前”同士で仲良くしてくれるんだとも話していた。
『月城さんは、“演奏吹き替え”という形でのご出演、どのように感じてらっしゃいますか?』
MCの質問が飛び、はるかの目が見開かれる。
『…自分は、あくまで影の存在ですので。ひかりさんをはじめ、皆さんがつくられている作品の世界を決して壊さぬよう、とにかく自分にできることを精一杯やらせていただく所存でして…!』
おそらく用意していたであろう回答を必死になぞっている姿は、やっぱり笑ってしまった。
『なんや武士みたいになってますけど?』
そこに、はるかの隣に座っていた若手芸人から野次が飛ぶ。
スタジオが笑いに包まれる。
『初出演ですから!緊張してるんで、優しくしてください!』
ひかりがまたフォローを入れても尚、出演者たちは生暖かい視線を注いでいた。
これは寝室に引き籠りたくなるのも納得だ。
テレビ的にはかなりおいしいワンシーンだったのかもしれないけれど。
『…で、そこの武士はどう思います?』
MCまでもが乗っかって、はるかにコメントを求める度にそう口にしていたのには、瑛も“テレビって怖い”と感じざるを得なかった。
「あ、武士まだ起きてた?」
「…瑛くん…!」
寝室の扉を開けて、何やらスマートフォンを眺めていたはるかにそう言うと、ぎゅっと眉を寄せて睨まれた。
当然ながらかわいいだけだ。
「あの芸人、はるかのこと狙ってね?」
「そんなわけないでしょ…もー!みんなそればっかり…!」
後ろから抱き締めながら画面を覗き込めば、ずらりと通知が並んでいる。
“武士おはる、地上波に見参!”
“テレビ観ました!びっくりです!”
“裏番長の次は武士?忙しいね”
おちょくっていないのは渚くらいだろうか。
千景はまだしも、鷺嶋野球部ではるかと連絡先を交換していた輩がこんなにいたとは、と勝手に画面をスクロールしながら眉根を寄せる。
「あ?」
“今度撮影で神岡行くんですけど、お会いできませんか?”
メッセージアプリではなくSNSの通知に綴られた一言。
差出人は──
「うそ、まりんちゃん…!」
──またそいつか。
「すごくない?どうしよう!」
はるかが腕の中ではしゃいでいるのはかわいいけれど、それが瑛のためじゃないのが何とも腹立たしい。
「…やめてくれよな」
「うん?」
「これで芸能人の知り合いとか増えて、いつの間にかはるかまでそっち側になったりとか」
最近はインフルエンサーだのティック何とかだの、ほとんど一般人でもいつの間にか脚光を浴びるような時代だ。
既にはるかは片足を突っ込んでいるようなものだろう。
「それは、こっちのセリフだよ」
思いがけない反論に、瞬きをする。
「モデルのエリさん、日坂選手のこと狙ってるそうですけど?」
掲げてきた画面を見れば、見覚えのない女性が瑛のタオルを持ってポーズを決めていた。
「誰だそれ…」
心底不審に思いながらその写真を眺めていると、はるかはなぜだか、どこか安堵したように微笑んでいた。