[Theme 02]4年目編
51
「ピアノって、どこで弾くの?うちにあんの?」
瑛にピアノというものを教えた次の日、わざわざはるかのクラスまでやってきて、そんなことを聞いてきた。
「おうちにもあるし、セッションでも弾くよ」
「殺生?」
「セッション。カナリアっていうお店でね、みんな好きな楽器を持ってきてみんなで弾くの!」
「ピアノももってくの?」
「ううん、ピアノはお店にあるのだよ。あした、いっしょにいく?」
そう言うと瑛は瞳を輝かせて、頷いた。
「これまたかわいいお客さんだねえ。その子も何か楽器を?」
「ううん、瑛くんは聞きにきたの!」
「そっか。じゃあ、お眼鏡にかなうように頑張らなきゃね」
いつも小さなはるかをセッションの輪に入れてくれる大人たちは、瑛のことも歓迎してくれた。
瑛は少し不安そうにしながら、はるかの目の前の席に腰掛けていた。
いつだってただひたすらピアノが好き、演奏が楽しい、そんな気持ちを爆発させるばかりだったけれど、その時だけは心の隅にずっと瑛がいて。
大丈夫、こわくないよ。とっても楽しいよ。
こっちを見て!おんなじ音楽の中であそぼう!
そんなことを、ピアノの音で語りかけていた。
そうすれば彼はぱっと明るく笑って、はるかを見つめた。
誰かのためにピアノを弾くことが楽しいと、はじめて思った。
“父の代わり”を演じるよりも、ずっと。
「これまた有名人のお客さんだねえ」
店主はほくほくと笑って、ふたりを出迎えた。
「お休みだったんでしょ?ごめんね」
「いやいや。どうせ業者が今日しかダメって言うんで、他にも来る用事ができてよかったですよ」
「そっか。業者さんもう来た?」
「えらく遅くなったんですけどねえ、ついさっき帰っていきましたよ」
コーヒーを淹れながら語る横顔は、時が止まったのかと思うほど変わらない。
ここ数日で変わったもの、変わらないものをいくつも見てきたような気がする。
「はい、どうぞ。実は去年、贔屓の店が閉店しちゃって…味が変わっちゃってるんだけど許してね」
この店にも、その両方が共存しているようだ。
「ほんとだ。でも、美味しい!」
「全然分かんねー…」
「常連さんでもほとんど気付きませんよ。はるちゃんはコーヒーマニアだからねえ」
コーヒーカップから立ち上る湯気が、レコードの音にとけていくように、ふっと消えていく。
はるかも瑛もなんとなく、それをただじっと見つめていた。
「ああ、はるちゃん。ちょっとピアノ弾いてみてもらっていいかな」
「え?いいけどなんで?」
「さっき調律してもらったばかりでね。弾いてみてくださいって言われてちょろっと弾いたけど、よく分かんないからねえ」
「ああ、業者さんって調律師さんだったんだ」
飲みかけのコーヒーをもう一口だけ飲んで、はるかは席を立った。
アップライトピアノの前に腰掛けて、鍵盤の蓋を開ける。
気付けば瑛も後を追うようにこちらへ来ていて、はるかの目の前の席に腰を下ろした。
幼い頃、いつもそうしていたように。
「いろんなとこ弾いてみた方がいいよね?」
「いや、好きな曲でいいですよ。どうせ音程分かんないんで」
「ええ…それじゃ確認になんないよ」
くすりと笑って、鍵盤に視線を落とす。
そういうことなら特に気にせず頭に浮かんだ曲を、なんて思いつつも弾き始めるとやっぱり意識してしまう。
調律なんてそんなにしょっちゅうやるものではないだろうから。
どうやら問題はなさそうだと確信が持てたところで、ふと顔を上げてどきりとした。
ピアノを弾くはるかを見つめる、瑛の瞳。
あの時以来、こんなにはっきりと見たことはなかった。
いつもはひとたび鍵盤に手を伸ばせば、意識は音の世界に飛び込んでしまうから。
その中で、まぶたの裏に瑛の姿を思い描くことは、実は結構あるのだけど。
そうか、あなたはそんな瞳で。
はるかはそっと微笑んで、まぶたを閉じた。
「“カナリア”にぴったりの選曲ですね。いやはや素敵な演奏でした」
「音、大丈夫そうだったよ」
大切なものを宝箱にしまうように、鍵盤の蓋を閉じた。
あんなに大きく見えた、古いアップライトピアノ。
音が止んでも変わらず、真っ直ぐに見つめる瑛の瞳。
鷺嶋の家でも、藏崎の駅でも感じられなかったものが、いつの間にかじんわりと胸の奥を満たしていた。
「ここだったんだなあ、わたしの、ふるさと」
言葉にすればそれは、涙となって頬を伝った。
瑛が立ち上がって、はるかのもとへ歩み寄る。
すぐそばにしゃがみ込んで、はるかの涙を拭った。
「お幸せにね」
そんなふたりを見守っていた店主が、カウンター越しに微笑む。
窓のない店内になぜか、やわらかな陽の光がさしたような気がした。
「ピアノって、どこで弾くの?うちにあんの?」
瑛にピアノというものを教えた次の日、わざわざはるかのクラスまでやってきて、そんなことを聞いてきた。
「おうちにもあるし、セッションでも弾くよ」
「殺生?」
「セッション。カナリアっていうお店でね、みんな好きな楽器を持ってきてみんなで弾くの!」
「ピアノももってくの?」
「ううん、ピアノはお店にあるのだよ。あした、いっしょにいく?」
そう言うと瑛は瞳を輝かせて、頷いた。
「これまたかわいいお客さんだねえ。その子も何か楽器を?」
「ううん、瑛くんは聞きにきたの!」
「そっか。じゃあ、お眼鏡にかなうように頑張らなきゃね」
いつも小さなはるかをセッションの輪に入れてくれる大人たちは、瑛のことも歓迎してくれた。
瑛は少し不安そうにしながら、はるかの目の前の席に腰掛けていた。
いつだってただひたすらピアノが好き、演奏が楽しい、そんな気持ちを爆発させるばかりだったけれど、その時だけは心の隅にずっと瑛がいて。
大丈夫、こわくないよ。とっても楽しいよ。
こっちを見て!おんなじ音楽の中であそぼう!
そんなことを、ピアノの音で語りかけていた。
そうすれば彼はぱっと明るく笑って、はるかを見つめた。
誰かのためにピアノを弾くことが楽しいと、はじめて思った。
“父の代わり”を演じるよりも、ずっと。
「これまた有名人のお客さんだねえ」
店主はほくほくと笑って、ふたりを出迎えた。
「お休みだったんでしょ?ごめんね」
「いやいや。どうせ業者が今日しかダメって言うんで、他にも来る用事ができてよかったですよ」
「そっか。業者さんもう来た?」
「えらく遅くなったんですけどねえ、ついさっき帰っていきましたよ」
コーヒーを淹れながら語る横顔は、時が止まったのかと思うほど変わらない。
ここ数日で変わったもの、変わらないものをいくつも見てきたような気がする。
「はい、どうぞ。実は去年、贔屓の店が閉店しちゃって…味が変わっちゃってるんだけど許してね」
この店にも、その両方が共存しているようだ。
「ほんとだ。でも、美味しい!」
「全然分かんねー…」
「常連さんでもほとんど気付きませんよ。はるちゃんはコーヒーマニアだからねえ」
コーヒーカップから立ち上る湯気が、レコードの音にとけていくように、ふっと消えていく。
はるかも瑛もなんとなく、それをただじっと見つめていた。
「ああ、はるちゃん。ちょっとピアノ弾いてみてもらっていいかな」
「え?いいけどなんで?」
「さっき調律してもらったばかりでね。弾いてみてくださいって言われてちょろっと弾いたけど、よく分かんないからねえ」
「ああ、業者さんって調律師さんだったんだ」
飲みかけのコーヒーをもう一口だけ飲んで、はるかは席を立った。
アップライトピアノの前に腰掛けて、鍵盤の蓋を開ける。
気付けば瑛も後を追うようにこちらへ来ていて、はるかの目の前の席に腰を下ろした。
幼い頃、いつもそうしていたように。
「いろんなとこ弾いてみた方がいいよね?」
「いや、好きな曲でいいですよ。どうせ音程分かんないんで」
「ええ…それじゃ確認になんないよ」
くすりと笑って、鍵盤に視線を落とす。
そういうことなら特に気にせず頭に浮かんだ曲を、なんて思いつつも弾き始めるとやっぱり意識してしまう。
調律なんてそんなにしょっちゅうやるものではないだろうから。
どうやら問題はなさそうだと確信が持てたところで、ふと顔を上げてどきりとした。
ピアノを弾くはるかを見つめる、瑛の瞳。
あの時以来、こんなにはっきりと見たことはなかった。
いつもはひとたび鍵盤に手を伸ばせば、意識は音の世界に飛び込んでしまうから。
その中で、まぶたの裏に瑛の姿を思い描くことは、実は結構あるのだけど。
そうか、あなたはそんな瞳で。
はるかはそっと微笑んで、まぶたを閉じた。
「“カナリア”にぴったりの選曲ですね。いやはや素敵な演奏でした」
「音、大丈夫そうだったよ」
大切なものを宝箱にしまうように、鍵盤の蓋を閉じた。
あんなに大きく見えた、古いアップライトピアノ。
音が止んでも変わらず、真っ直ぐに見つめる瑛の瞳。
鷺嶋の家でも、藏崎の駅でも感じられなかったものが、いつの間にかじんわりと胸の奥を満たしていた。
「ここだったんだなあ、わたしの、ふるさと」
言葉にすればそれは、涙となって頬を伝った。
瑛が立ち上がって、はるかのもとへ歩み寄る。
すぐそばにしゃがみ込んで、はるかの涙を拭った。
「お幸せにね」
そんなふたりを見守っていた店主が、カウンター越しに微笑む。
窓のない店内になぜか、やわらかな陽の光がさしたような気がした。
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■Lullaby of Birdland/George Shearing