[Theme 02]4年目編
49
事務室で受付を済ませてから、グラウンドに向かった。
聳え立つネットが近付いてくるたび、打球音や部員たちの声もはっきりと聞こえてくる。
卒業しても、プロの世界に入っても、きっと何年経っても忘れないこの空気。
ネット越しの視線には誰一人気付いていない。
瑛もそうだった。いつだって、目の前の白球に喰らい付くのに必死だった。
「あの、卒業生の方ですか…って、ああっ!」
ふたりのもとへ通りかかったのは、ネットの向こうの部員たちと同じ練習着姿の男子生徒。
瑛の顔を見るなり、大きく開けた口を押さえて仰け反った。
「あ…どーも。悪いんだけど、監督呼んでもらっていい?他の部員にはバレないように」
「えっと、は、はい…!」
彼は一目散に駆け出していった。
その背中を見送りながら、はるかが首を傾げる。
「内緒なの?みんなすっごく喜ぶだろうに」
「あー、今回はな。練習見てやれるわけでもねえし、ただ邪魔するだけになるから」
「そっか…確かに、大事な時期だもんね」
ネットの向こうで白球を追う部員たちの人数は、普段よりも少ない。
夏が終わり、新しいチームでのはじめての大会を経て、また次の夏への課題が浮き彫りになったところだろう。
春にはまた新しく一年生を迎えるが、それまでにしっかり土台をつくっておかなければならない。
今が彼らにとって大事な時期であることは、鷺嶋野球部を見守り続けていたはるかにもよく分かっていた。
「久しぶりだな」
しばらくの間部員たちの姿を眺めていると、樫井が姿を現した。
少し白髪が増えていて、全体的にさらに貫禄が増したような気がした。
「お久しぶりです。すいません、練習中に呼び出して」
「いや。気を遣わせてすまない。よくやっているようだな、優勝も日本一も先を越されたと柳木が悔しがっていた」
「拓さん、来たんすね」
「ああ。お前と同じように、部員には顔を見せずにな。お前たちが卒業してからどうにも不甲斐ないもので…」
口調だけは申し訳なさそうに、だけどその目は射抜くように鋭い。
それがとても懐かしかった。
「今年の夏は、とても熱い戦いを見せていただきました…!秋も、これからが楽しみな選手ばかりで!」
「月城…今でも見ていてくれているのか」
「もちろんです!」
「はは。有り難いことだ。あいつらにも言っておこう」
部員でも話しかけるのに委縮してしまう樫井にも、はるかは平気で情熱をぶつけている。
なんだかんだ度胸のある性格故か、昔からあまりに強過ぎる野球愛故か。
──贔屓は神岡エルビリンクハリアーズ、推しは背番号23・藤堂 貴文です!
無駄に堂々と宣言していた姿が懐かしい。
まさかそのチームへ自分が入るとは、思いもしなかったけれど。
「あの…監督。月城、と…結婚するので。それを言いに来ました」
言い慣れない呼び名とともに告げると、樫井は驚く様子もなく、ただ目を細めた。
この人もこんな表情をするのかと、少し驚いた。
「月城に対するお前の態度は、まったく問題にならなかったわけではない」
「えっ」
「士気が乱れるから指導して欲しいと言われたこともある。ああ一応言っておくが、最後まで一軍には上がらなかった部員で、お前と話しているのを見たこともない」
動揺する瑛と、それ以上に顔を真っ青にしているはるかを見ながら、樫井はほんのわずかに頬を緩めた。
「確かにお前は自分勝手で周りの目を顧みないところがある。だが、お前は一日だって練習を怠ったことはない。間違いなく、当時の誰よりも多くバットを振っていた。守備練習にも誰よりも執念深く取り組んでいた。ランメニューでもウェイトでも、とにかくお前が手を抜くのを見たことがなかった」
少し掠れた低い声が、瑛の記憶をなぞっていく。
「プロに行くのも、俺としては何ら不思議じゃなかった。立場上、当時は言えなかったけどな。とにかく…そこまでやった上での行動なら、さすがに何も言えなかった。何も社会のルールに反したことをしているわけでもないし」
「なんか…すいません…」
「もちろん試合で結果を出せないようなら、容赦なくメンバーから外すつもりでいた。それはどの部員も同じことだ。だがお前は高校球児としての最後の瞬間まで、レギュラーとして背番号を背負い、戦いの場に立っていた。そんなお前のことを、俺は誇りに思っている」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
「おめでとう。これからは選手としてだけでなく男としても、月城に応えてやりなさい」
12年振りの甲子園出場を決めた時も、夏が終わる瞬間も、卒業の日も──ただ真っ直ぐ瑛たちを見据えていた瞳が揺れるのを見たのは、それがはじめてだった。
帰りの新幹線の中でもはるかは、やっぱりほとんどずっと窓の外を眺めていた。
景色はもうずいぶんと暗くなり、そんなに熱心に見つめたって何も見えやしないだろうに。
「あ」
薄っすらと反射したはるかの顔に目を凝らすと、いつの間にかまぶたが閉じていた。
実物の顔を覗き込めば、アイシャドウのラメが上品に輝いた。
──めずらし。
寝つきの悪いはるかなので、移動中に居眠りしている姿は見たことがない。
環境が変わると眠れず、旅先でもよく苦労している。
そんな彼女がこんなに騒がしく、人の気配もある場所で眠ってしまうなんて。
それだけ、今日という日を終えてほっとしたのだろう。
こんな空間でも自分の隣なら安心できると思ってくれたのだとしたら、この上なく光栄なことだ。
荷物棚に載せていた上着をそっとはるかの膝にかけて、窓のシェードを閉めた。
それから瑛は時折はるかの寝顔を眺めながら、スマートフォンへ“来たるべき日”のための文章をしたためていた。
事務室で受付を済ませてから、グラウンドに向かった。
聳え立つネットが近付いてくるたび、打球音や部員たちの声もはっきりと聞こえてくる。
卒業しても、プロの世界に入っても、きっと何年経っても忘れないこの空気。
ネット越しの視線には誰一人気付いていない。
瑛もそうだった。いつだって、目の前の白球に喰らい付くのに必死だった。
「あの、卒業生の方ですか…って、ああっ!」
ふたりのもとへ通りかかったのは、ネットの向こうの部員たちと同じ練習着姿の男子生徒。
瑛の顔を見るなり、大きく開けた口を押さえて仰け反った。
「あ…どーも。悪いんだけど、監督呼んでもらっていい?他の部員にはバレないように」
「えっと、は、はい…!」
彼は一目散に駆け出していった。
その背中を見送りながら、はるかが首を傾げる。
「内緒なの?みんなすっごく喜ぶだろうに」
「あー、今回はな。練習見てやれるわけでもねえし、ただ邪魔するだけになるから」
「そっか…確かに、大事な時期だもんね」
ネットの向こうで白球を追う部員たちの人数は、普段よりも少ない。
夏が終わり、新しいチームでのはじめての大会を経て、また次の夏への課題が浮き彫りになったところだろう。
春にはまた新しく一年生を迎えるが、それまでにしっかり土台をつくっておかなければならない。
今が彼らにとって大事な時期であることは、鷺嶋野球部を見守り続けていたはるかにもよく分かっていた。
「久しぶりだな」
しばらくの間部員たちの姿を眺めていると、樫井が姿を現した。
少し白髪が増えていて、全体的にさらに貫禄が増したような気がした。
「お久しぶりです。すいません、練習中に呼び出して」
「いや。気を遣わせてすまない。よくやっているようだな、優勝も日本一も先を越されたと柳木が悔しがっていた」
「拓さん、来たんすね」
「ああ。お前と同じように、部員には顔を見せずにな。お前たちが卒業してからどうにも不甲斐ないもので…」
口調だけは申し訳なさそうに、だけどその目は射抜くように鋭い。
それがとても懐かしかった。
「今年の夏は、とても熱い戦いを見せていただきました…!秋も、これからが楽しみな選手ばかりで!」
「月城…今でも見ていてくれているのか」
「もちろんです!」
「はは。有り難いことだ。あいつらにも言っておこう」
部員でも話しかけるのに委縮してしまう樫井にも、はるかは平気で情熱をぶつけている。
なんだかんだ度胸のある性格故か、昔からあまりに強過ぎる野球愛故か。
──贔屓は神岡エルビリンクハリアーズ、推しは背番号23・藤堂 貴文です!
無駄に堂々と宣言していた姿が懐かしい。
まさかそのチームへ自分が入るとは、思いもしなかったけれど。
「あの…監督。月城、と…結婚するので。それを言いに来ました」
言い慣れない呼び名とともに告げると、樫井は驚く様子もなく、ただ目を細めた。
この人もこんな表情をするのかと、少し驚いた。
「月城に対するお前の態度は、まったく問題にならなかったわけではない」
「えっ」
「士気が乱れるから指導して欲しいと言われたこともある。ああ一応言っておくが、最後まで一軍には上がらなかった部員で、お前と話しているのを見たこともない」
動揺する瑛と、それ以上に顔を真っ青にしているはるかを見ながら、樫井はほんのわずかに頬を緩めた。
「確かにお前は自分勝手で周りの目を顧みないところがある。だが、お前は一日だって練習を怠ったことはない。間違いなく、当時の誰よりも多くバットを振っていた。守備練習にも誰よりも執念深く取り組んでいた。ランメニューでもウェイトでも、とにかくお前が手を抜くのを見たことがなかった」
少し掠れた低い声が、瑛の記憶をなぞっていく。
「プロに行くのも、俺としては何ら不思議じゃなかった。立場上、当時は言えなかったけどな。とにかく…そこまでやった上での行動なら、さすがに何も言えなかった。何も社会のルールに反したことをしているわけでもないし」
「なんか…すいません…」
「もちろん試合で結果を出せないようなら、容赦なくメンバーから外すつもりでいた。それはどの部員も同じことだ。だがお前は高校球児としての最後の瞬間まで、レギュラーとして背番号を背負い、戦いの場に立っていた。そんなお前のことを、俺は誇りに思っている」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
「おめでとう。これからは選手としてだけでなく男としても、月城に応えてやりなさい」
12年振りの甲子園出場を決めた時も、夏が終わる瞬間も、卒業の日も──ただ真っ直ぐ瑛たちを見据えていた瞳が揺れるのを見たのは、それがはじめてだった。
帰りの新幹線の中でもはるかは、やっぱりほとんどずっと窓の外を眺めていた。
景色はもうずいぶんと暗くなり、そんなに熱心に見つめたって何も見えやしないだろうに。
「あ」
薄っすらと反射したはるかの顔に目を凝らすと、いつの間にかまぶたが閉じていた。
実物の顔を覗き込めば、アイシャドウのラメが上品に輝いた。
──めずらし。
寝つきの悪いはるかなので、移動中に居眠りしている姿は見たことがない。
環境が変わると眠れず、旅先でもよく苦労している。
そんな彼女がこんなに騒がしく、人の気配もある場所で眠ってしまうなんて。
それだけ、今日という日を終えてほっとしたのだろう。
こんな空間でも自分の隣なら安心できると思ってくれたのだとしたら、この上なく光栄なことだ。
荷物棚に載せていた上着をそっとはるかの膝にかけて、窓のシェードを閉めた。
それから瑛は時折はるかの寝顔を眺めながら、スマートフォンへ“来たるべき日”のための文章をしたためていた。