[Theme 02]4年目編
48
「まあ、懐かしい。洋ちゃんと薫さんの時も書いたわねえ」
婚姻届を目にしたはるかの祖母は、懐かしそうに笑った。
その隣で薫がペンを持ち、証人の欄を見つめている。
「これって、こんなに緊張するもんなんだ…書き間違えたらどうしよう!」
「おじいさんは結局書いてあげなかったのよねえ」
「はて、何のことやら?」
おどけて首を傾げる祖父の姿に、先ほどのはるかの言葉を思い出す。
「ふふ。最後も“勝手にしろ”とだけ言って、私が書いたんですよ」
「そうだったんですか…」
「もちろん、薫さんがどうこうっていうんじゃなくてね。洋ちゃんはいきなりアメリカに飛び出して行ったかと思えば、今度は急に結婚なんて言ってくるもんだから…」
「ようやく顔見せたかと思えばそれですからね。びっくりしただけですよ!」
拗ねたように言う口ぶりが何だかかわいらしい。
だけどその横顔には、計り知れないほどの感情が滲んでいるように思えた。
「…瑛君、ちょっと」
「あ、はい」
視線に気付かれたのか、ふいに振り向いて手招きをする。
そのまま歩み寄ると、色紙とペンを差し出された。
「サインくださいな」
「えっ」
「いやー、夢だったんですよ。プロ野球選手のサイン!」
「その、自分でよければ…」
すっかり手癖で書けるようになったサインでも、はるかの祖父に宛てるとなると少し緊張してしまう。
ついいつもより丁寧に書いてしまった。
「はるちゃんのこと、よく見ててあげてね」
仕上げに背番号を書き添えたところで、そんな言葉をかけられた。
「薫さんによく似て、本当に頑張り屋さんだから」
「…はい。ちゃんと、見てます」
そう言って色紙を渡すと、その手を両手で包まれた。
あたたかい手だった。
月城家から出たふたりは、かつてのはるかの通学路を辿るように、高校へと足を向けた。
住宅地の風景も、等間隔の街灯も、何度か待ち合わせをしたコンビニも。
どれも何一つ変わらなくて、だけどなんとなく、別の場所のようにも感じた。
隣を歩くはるかの、パンプスのヒールがこつこつと鳴っている。
ヒールを履いてもやっぱりはるかは小さいけれど、穏やかな笑顔を見下ろすこの距離は、あの頃より少しだけ近くなった。
──そうか。変わったのはこの街の景色じゃなくて。
「え、あれ…?」
ふたりと入れ違いのように、正門からこちらへ向かう人影。
目が合ったその瞬間、懐かしい声が聞こえた。
「文谷君!どうしたの?」
はるかに名前を呼ばれ、渚はさらにあたふたとしてふたりの顔を見比べている。
球場で会うファンよりもよっぽど感激したようなリアクションだ。
「わあ、なんか…月城先輩も、瑛君も…いよいよ大物感が…!」
「そんなにか?はるかの母さんにも言われたんだけど」
「瑛くんはわかるけど、わたしはただの一般人だよ?」
「それはねーだろ」「それはないでしょう…」
息ぴったりで突っ込まれ、はるかは肩をすくめる。
「あ、えっと…僕は、橋本先生に挨拶してきたんです」
「そうだったんだ。あ、瑛くん知ってる?音楽の先生で、吹部の顧問」
「いや…」
「まあ、そっか。文谷君、よく来てるの?」
「“よく”ってほどではないですけど、節目節目には…」
些か不自然に言葉を切った渚は、少し考えるようなそぶりをした後、ふいに真剣な表情ではるかを見た。
「あの、僕…ボーカルの人と二人組で、メジャーデビューすることになったんです」
ボーカル。メジャーデビュー。
唐突に飛び出した言葉に瞬きをしていると、隣ではるかが声を上げた。
「そうなの!?文谷君、いつの間に…!」
「実は…大学入ってすぐから動画サイトとかで曲は出してて。そこで、今のボーカルの人と出会って…」
「ええっ、知らなかった…!」
「あ、すいません。僕…月城先輩には、ちゃんとメジャーで曲を出してから言いたかったんです」
そういうことなら、今ここで偶然顔を合わせてしまったのは少し都合が悪いことだったのだろうか。
瑛がそう思っていると、渚の視線が瑛を向いた。
「瑛君にもね」
「え?」
「ふたりはなんていうか…僕にとって、すごく特別なひとだから。胸を張って言えるようになるまで、黙っておこうと思ったんだ」
──恋愛感情とかじゃなくて、君たちがセットで好き。ふたりの世界が好き
いつだったか、球技大会に向けてキャッチボールをしていた時に聞いた言葉を思い出す。
あの時はどういう価値観なのかまったく分からず、はるかを前に“恋愛感情とかじゃなく”なんて本当にありえるのか、なんて困惑してしまったけれど。
自分やはるかを見上げる時の渚の瞳を見ていると、瑛にもなんとなくその意味が理解できるような気がしていた。
「これ、一応…最初に出る曲の音源です」
渚がそう言っておずおずと差し出したのは、小さなUSBメモリーだった。
「は?」
「あ、いや、その!最初はデジタルリリースで、CDになるのはもう少し先だから、渡せるものがデータしかなくて。そもそもCDは、聴ける環境があるか分からないし…ああっ、でも、月城先輩のPCならきっと読めますよね…」
「なんて…?デジタルリリース…?」
「ふふ、サブスクとかで出すってことだよ。文谷君、いいの?このままもらっちゃって」
「はい…!」
はるかが両手でUSBメモリーを受け取ると、渚はほっとしたように息を吐いた。
「教えてくれてありがとう、文谷君。おめでとう!」
「ありがとうございます!」
「…これからだろ、渚」
口をついて出たのは、そんな言葉。
それははるかがとびきりの笑顔を渚へ向けていることに腹が立ったからとかではない、たぶん。
「音楽のメジャーって、要は一軍みたいなもんだろ?これからだっていろいろあるからな。マジで」
「瑛くん…」
「その…お互い頑張ろう」
首を傾げていた渚はぱっと笑って、頷いた。
少し大人っぽくなった気もするけど、笑った顔はあの頃のままだ。
「ええと…おふたりは、樫井先生?」
「そうだな」
「そっか。あの…おめでとう、なのかな…?」
噂をすれば、遠くで金属バットの音が響きはじめた。
部員たちの力強い声も聞こえる。
メニューが変わっていなければ、ちょうどノックがはじまる時間だ。
「あ…違った…?」
「いや。やっぱすげーな、お前も」
「ふたり揃って来てるし、先輩のお母さんにも会ったふうだったから。そっか…そっか…!」
渚はとても嬉しそうに、噛み締めるように頷いた。
そんなリアクションをされるとどうにも照れくさくなってしまう。
それははるかも同じようで、微笑みながら微かに頬を染めていた。
「まだ籍は入れてないけどね。いろいろ済んだらちゃんと連絡するね」
「はい!ありがとうございます!」
「俺らもそろそろ行くか」
「うん。文谷君、またね」
はるかが小さく手を挙げると、渚は元気よくお辞儀をして、歩き出した。
ふいにその足を止めて、またこちらを見る。
「あの…おめでとうございます!」
あまりにも大きな声で、下校中の生徒たちがちらちらと振り返っていた。
「まあ、懐かしい。洋ちゃんと薫さんの時も書いたわねえ」
婚姻届を目にしたはるかの祖母は、懐かしそうに笑った。
その隣で薫がペンを持ち、証人の欄を見つめている。
「これって、こんなに緊張するもんなんだ…書き間違えたらどうしよう!」
「おじいさんは結局書いてあげなかったのよねえ」
「はて、何のことやら?」
おどけて首を傾げる祖父の姿に、先ほどのはるかの言葉を思い出す。
「ふふ。最後も“勝手にしろ”とだけ言って、私が書いたんですよ」
「そうだったんですか…」
「もちろん、薫さんがどうこうっていうんじゃなくてね。洋ちゃんはいきなりアメリカに飛び出して行ったかと思えば、今度は急に結婚なんて言ってくるもんだから…」
「ようやく顔見せたかと思えばそれですからね。びっくりしただけですよ!」
拗ねたように言う口ぶりが何だかかわいらしい。
だけどその横顔には、計り知れないほどの感情が滲んでいるように思えた。
「…瑛君、ちょっと」
「あ、はい」
視線に気付かれたのか、ふいに振り向いて手招きをする。
そのまま歩み寄ると、色紙とペンを差し出された。
「サインくださいな」
「えっ」
「いやー、夢だったんですよ。プロ野球選手のサイン!」
「その、自分でよければ…」
すっかり手癖で書けるようになったサインでも、はるかの祖父に宛てるとなると少し緊張してしまう。
ついいつもより丁寧に書いてしまった。
「はるちゃんのこと、よく見ててあげてね」
仕上げに背番号を書き添えたところで、そんな言葉をかけられた。
「薫さんによく似て、本当に頑張り屋さんだから」
「…はい。ちゃんと、見てます」
そう言って色紙を渡すと、その手を両手で包まれた。
あたたかい手だった。
月城家から出たふたりは、かつてのはるかの通学路を辿るように、高校へと足を向けた。
住宅地の風景も、等間隔の街灯も、何度か待ち合わせをしたコンビニも。
どれも何一つ変わらなくて、だけどなんとなく、別の場所のようにも感じた。
隣を歩くはるかの、パンプスのヒールがこつこつと鳴っている。
ヒールを履いてもやっぱりはるかは小さいけれど、穏やかな笑顔を見下ろすこの距離は、あの頃より少しだけ近くなった。
──そうか。変わったのはこの街の景色じゃなくて。
「え、あれ…?」
ふたりと入れ違いのように、正門からこちらへ向かう人影。
目が合ったその瞬間、懐かしい声が聞こえた。
「文谷君!どうしたの?」
はるかに名前を呼ばれ、渚はさらにあたふたとしてふたりの顔を見比べている。
球場で会うファンよりもよっぽど感激したようなリアクションだ。
「わあ、なんか…月城先輩も、瑛君も…いよいよ大物感が…!」
「そんなにか?はるかの母さんにも言われたんだけど」
「瑛くんはわかるけど、わたしはただの一般人だよ?」
「それはねーだろ」「それはないでしょう…」
息ぴったりで突っ込まれ、はるかは肩をすくめる。
「あ、えっと…僕は、橋本先生に挨拶してきたんです」
「そうだったんだ。あ、瑛くん知ってる?音楽の先生で、吹部の顧問」
「いや…」
「まあ、そっか。文谷君、よく来てるの?」
「“よく”ってほどではないですけど、節目節目には…」
些か不自然に言葉を切った渚は、少し考えるようなそぶりをした後、ふいに真剣な表情ではるかを見た。
「あの、僕…ボーカルの人と二人組で、メジャーデビューすることになったんです」
ボーカル。メジャーデビュー。
唐突に飛び出した言葉に瞬きをしていると、隣ではるかが声を上げた。
「そうなの!?文谷君、いつの間に…!」
「実は…大学入ってすぐから動画サイトとかで曲は出してて。そこで、今のボーカルの人と出会って…」
「ええっ、知らなかった…!」
「あ、すいません。僕…月城先輩には、ちゃんとメジャーで曲を出してから言いたかったんです」
そういうことなら、今ここで偶然顔を合わせてしまったのは少し都合が悪いことだったのだろうか。
瑛がそう思っていると、渚の視線が瑛を向いた。
「瑛君にもね」
「え?」
「ふたりはなんていうか…僕にとって、すごく特別なひとだから。胸を張って言えるようになるまで、黙っておこうと思ったんだ」
──恋愛感情とかじゃなくて、君たちがセットで好き。ふたりの世界が好き
いつだったか、球技大会に向けてキャッチボールをしていた時に聞いた言葉を思い出す。
あの時はどういう価値観なのかまったく分からず、はるかを前に“恋愛感情とかじゃなく”なんて本当にありえるのか、なんて困惑してしまったけれど。
自分やはるかを見上げる時の渚の瞳を見ていると、瑛にもなんとなくその意味が理解できるような気がしていた。
「これ、一応…最初に出る曲の音源です」
渚がそう言っておずおずと差し出したのは、小さなUSBメモリーだった。
「は?」
「あ、いや、その!最初はデジタルリリースで、CDになるのはもう少し先だから、渡せるものがデータしかなくて。そもそもCDは、聴ける環境があるか分からないし…ああっ、でも、月城先輩のPCならきっと読めますよね…」
「なんて…?デジタルリリース…?」
「ふふ、サブスクとかで出すってことだよ。文谷君、いいの?このままもらっちゃって」
「はい…!」
はるかが両手でUSBメモリーを受け取ると、渚はほっとしたように息を吐いた。
「教えてくれてありがとう、文谷君。おめでとう!」
「ありがとうございます!」
「…これからだろ、渚」
口をついて出たのは、そんな言葉。
それははるかがとびきりの笑顔を渚へ向けていることに腹が立ったからとかではない、たぶん。
「音楽のメジャーって、要は一軍みたいなもんだろ?これからだっていろいろあるからな。マジで」
「瑛くん…」
「その…お互い頑張ろう」
首を傾げていた渚はぱっと笑って、頷いた。
少し大人っぽくなった気もするけど、笑った顔はあの頃のままだ。
「ええと…おふたりは、樫井先生?」
「そうだな」
「そっか。あの…おめでとう、なのかな…?」
噂をすれば、遠くで金属バットの音が響きはじめた。
部員たちの力強い声も聞こえる。
メニューが変わっていなければ、ちょうどノックがはじまる時間だ。
「あ…違った…?」
「いや。やっぱすげーな、お前も」
「ふたり揃って来てるし、先輩のお母さんにも会ったふうだったから。そっか…そっか…!」
渚はとても嬉しそうに、噛み締めるように頷いた。
そんなリアクションをされるとどうにも照れくさくなってしまう。
それははるかも同じようで、微笑みながら微かに頬を染めていた。
「まだ籍は入れてないけどね。いろいろ済んだらちゃんと連絡するね」
「はい!ありがとうございます!」
「俺らもそろそろ行くか」
「うん。文谷君、またね」
はるかが小さく手を挙げると、渚は元気よくお辞儀をして、歩き出した。
ふいにその足を止めて、またこちらを見る。
「あの…おめでとうございます!」
あまりにも大きな声で、下校中の生徒たちがちらちらと振り返っていた。