[Theme 02]4年目編
47
鷺嶋に向かう新幹線の中ではるかは、ほとんどずっと窓の外を眺めていた。
退屈凌ぎにと駅で買っていたスポーツ新聞は膝の上に置いたまま、一度も開いていない。
トンネルに入るたびに窓に反射するはるかの表情は、思い詰めているようにも、ぼうっとしているだけのようにも見えた。
新聞紙の上で揃えられた手元に視線を落とす。
右手の薬指には上品なデザインのファッションリング。はるかのお気に入りだ。
左手の薬指は、まだ空いている。
ここに自分とお揃いの指輪が嵌まっているのを早く見たい。
ネックレスは使いやすさを考えたけれど、別に婚約指輪だって普段から着けてもらって構わないし、むしろ結婚指輪が手に入るまではそうして欲しいと伝えた。
しかしはるかには、万が一にもどこかに引っかけたら大変だと断られてしまった。
確かに、指輪のサイズはぴったりにしてあるけれど、あの大粒のダイヤモンドはこの細い指には重そうだ。
そう思いながら、そこへ撫でるように手を滑らせると、はるかが思い切り振り向いた。
直接顔を見たのは数時間ぶりな気がして、なんだか眩しい。
「あき…」
名前を呼ぼうとした唇を噤んで、はるかはふるふると首を振った。
視線に促され、しぶしぶ手を離す。
「大丈夫だろ、これくらい。ていうかさすがにもうよくねえ…?」
「ダメだよ!挨拶だってこれからなんだから」
そう言うなりはるかは、ここにきてはじめてスポーツ新聞を開いた。
その横顔はまた、窓の反射で見えたのと同じ表情を浮かべていた。
「遠本さん残留かあ。ホーンズファンは大歓喜だね!」
ホームに降り立つなり、はるかはそう呟いた。
そのニュースはでかでかと一面を飾っていたので、結局あの新聞はろくに読んでいなかったのかもしれない。
「乗り換えあっちか。このまますぐ向かって大丈夫?」
「あ、うん。はるかは?」
「わたしも大丈夫!」
はるかは朗らかに笑って、スマートフォンを手にとった。
実家に連絡を入れるのだろうか。
瑛は咄嗟に、その手を掴んだ。
「あの…やっぱ、コーヒーでも飲んでく?」
振り向いたその瞳が揺れていたのに、気付けてよかった。
駅構内のカフェで一杯だけコーヒーを飲んで、いよいよあの街へ向かう列車に乗り込んだ。
カフェでも何か大した話をしたわけではないのだけど、はるかは少し落ち着いたようだった。
「久しぶりだね。ふたりで、この路線に乗るの」
途中の駅で乗客がごっそりといなくなった後、隣ではるかが囁く。
今この車両にはふたりしかいない。
はじめてふたりの想いが通じ合った、あの時のように。
「俺は、卒業以来だな」
「そうなんだ。監督に会いに行ったりしてるのかなって思ってた」
「はるかは?帰ってきた時ぶり?」
「うん。だから結構最近だね」
アメリカから帰ったはるかは一週間ほど実家に戻り、それからあの開幕の夜、ふたりの家にやってきた。
去年の年末はふたりともギリギリまで仕事があったので、結局一緒に暮らしてからは一度も実家には帰っていない。
自分はどうせ帰っても騒がしい中年男性がいるだけなので構わないが、はるかには気にせず帰ってもいいと伝えるべきだったかもしれない。今更ながら申し訳ない心持になった。
「緊張、する?」
懐かしい風景に気が抜けたのか、少しだけ身を寄せてきたはるかと肩が触れ合う。
「んー、まあ?」
「ふふ。あんまりしてなさそう」
「正直、却下されるビジョンがあんまりないかも。しっかりしろとは言われるかもしれねえけど」
「脅すわけじゃないけど…お父さんとお母さんが結婚する時、最後まで反対してたのはおじいちゃんだったらしいよ」
「えっ」
あの彫りの深い顔を思い出して目を見張ると、はるかはくすくすと笑った。
「昔はよくケンカしてたんだって。お父さんとおじいちゃん。でも、瑛くんのこと大好きだからきっと大丈夫だよ」
それきりはるかはまた、窓の外に視線を向けた。
新幹線よりもずっとゆっくり通り過ぎていく景色を、いとおしむような瞳だった。
ついさっきまであんなことを言っていたのいうのに、いざその扉を前にすると急に心拍数が上がった。
はるかはもう鍵を持っていないのか、インターホンを鳴らした。
返答の代わりに物音が聞こえて、ゆっくりと扉が開いた。
「わあ…!」
顔を出したのは薫で、その奥には祖父母の姿もある。
三人ともあの頃とあまり変わらない様子で、驚いたように口を開けてふたりを見ている。
「な、何かな…?」
「やだもうふたりとも、なんかオーラ出てるよ!」
「え?」
「早くお入り!誰かに見つかったら大事だよっ」
「おじいちゃん大声出さないよ…」
きちんと挨拶をする間もなく、ぐいぐいとリビングへと押し込まれる。
なんだかこの空気感も懐かしい気がした。
「ええと、あの…お久しぶりです」
「いよっ!日本一!」
「はは…どうも…?」
「ますます大きくなったねえ。ほれほれ」
「おじいちゃん!大事な選手の身体ですよ!」
「あ、大丈夫っす…」
おかげで緊張は一瞬で解れたけれど、これはこれでやりづらい。
はるかも困ったように笑っていた。
「お義父さん、座ってください。瑛君もせっかくのプライベートなんですから」
先ほどは一緒になって騒いでいた薫だけど、お茶を手に戻ってきた頃には落ち着いてそう諭した。
やはりこの穏やかな雰囲気は、親子でよく似ている。
「…お気遣いありがとうございます。あの、今日は皆さんにお話ししたいことがありまして」
瑛がそう切り出すと、薫も祖父母も、そしてはるかも静かに息を呑んだ。
「まずは…はるかさんをずっと神岡にいさせたままで、すみません。たぶん自分に遠慮して帰ってなかったと思うんで」
「瑛くん…」
そんなことない、と言おうとしたはるかを視線で制する。
ここで庇ってもらうのではいけない気がした。
「それから、おじいさんが言ってくださった通り、今シーズンは日本一になれました」
「みんなで観てたよ。おめでとう!」
「ありがとうございます。でもそれは、はるかさんに言ってあげてください」
「え…?」
もう一度、隣で小さく声を漏らしたはるかの顔を見た。
そしてまた三人の顔を、それぞれ見渡す。
「今シーズンは…調子を崩して二軍に行っていた時期もありました。監督から言われた時は正直、絶望しました。やっとここまで来れたのに、一瞬で全部が崩れ落ちていくみたいでした」
冷静に考えれば、不調時に二軍調整となるのは決して珍しいケースではない。
しかしまだプロ入り4年目で、ようやくスタメンを勝ち取ったばかりの瑛には、かなり衝撃的な出来事だった。
悪い意味でも、それから良い意味でも。
「はるかさんはそれでも、変わらずにいてくれました。一軍に上がる前も、高校時代も、それから出会った頃も…はるかさんはずっと、自分を守ってくれていました。だからチームが日本一になって、そこに自分の力が貢献できていたとするならそれは、間違いなくはるかさんのおかげです。はるかさんがいなければ、自分はここまで来れてないと思います」
──お互いだけが、お互いの世界にならないように
薫との約束には、思い切り背を向けてしまうけれど。
「これからは自分が、はるかさんを守りたいです。何があってもそばにいたいです。はるかさんと、結婚させてください」
真っ直ぐに伝えて、頭を下げた。
視界の隅ではるかの手が震えていて、そこへ小さな雫が落ちるのが見えた。
「…はるちゃんは?」
長い沈黙を破ったのは、やわらかな薫の声だった。
「はるちゃんは、どうしたい?」
「わたし…わたしは、瑛くんのそばにいたい。瑛くんのそばで、指が動かなくなる日までピアノを弾いて、その日が来たら…」
頭を下げたまま、覗き込むようにはるかの顔を見上げた。
「楽しかったねって、笑っていたい」
笑顔の中で、星の瞳がきらきらと瞬いていた。
「そっか…」
息を吐くように、薫が呟いた。
「そうだね。はるちゃん。私も、楽しかった。はるちゃんとお父さんと三人で暮らせて、楽しかったよ」
はるかと同じ、ぽろぽろと涙が溢れる薫の瞳が、瑛を見た。
「瑛君。はるちゃんと、素敵な家族になってね」
その言葉は、ぎゅっと胸が詰まるほど重たかった。
当然だ。これはひと一人の人生を、自分に預けてくれと言っているのと同じだから。
「はい。必ず」
はるかを幸せにするだけでは足りない。
この決断を後悔させないために自分は生きてゆくのだと、魂に刻み込むように頷いた。
鷺嶋に向かう新幹線の中ではるかは、ほとんどずっと窓の外を眺めていた。
退屈凌ぎにと駅で買っていたスポーツ新聞は膝の上に置いたまま、一度も開いていない。
トンネルに入るたびに窓に反射するはるかの表情は、思い詰めているようにも、ぼうっとしているだけのようにも見えた。
新聞紙の上で揃えられた手元に視線を落とす。
右手の薬指には上品なデザインのファッションリング。はるかのお気に入りだ。
左手の薬指は、まだ空いている。
ここに自分とお揃いの指輪が嵌まっているのを早く見たい。
ネックレスは使いやすさを考えたけれど、別に婚約指輪だって普段から着けてもらって構わないし、むしろ結婚指輪が手に入るまではそうして欲しいと伝えた。
しかしはるかには、万が一にもどこかに引っかけたら大変だと断られてしまった。
確かに、指輪のサイズはぴったりにしてあるけれど、あの大粒のダイヤモンドはこの細い指には重そうだ。
そう思いながら、そこへ撫でるように手を滑らせると、はるかが思い切り振り向いた。
直接顔を見たのは数時間ぶりな気がして、なんだか眩しい。
「あき…」
名前を呼ぼうとした唇を噤んで、はるかはふるふると首を振った。
視線に促され、しぶしぶ手を離す。
「大丈夫だろ、これくらい。ていうかさすがにもうよくねえ…?」
「ダメだよ!挨拶だってこれからなんだから」
そう言うなりはるかは、ここにきてはじめてスポーツ新聞を開いた。
その横顔はまた、窓の反射で見えたのと同じ表情を浮かべていた。
「遠本さん残留かあ。ホーンズファンは大歓喜だね!」
ホームに降り立つなり、はるかはそう呟いた。
そのニュースはでかでかと一面を飾っていたので、結局あの新聞はろくに読んでいなかったのかもしれない。
「乗り換えあっちか。このまますぐ向かって大丈夫?」
「あ、うん。はるかは?」
「わたしも大丈夫!」
はるかは朗らかに笑って、スマートフォンを手にとった。
実家に連絡を入れるのだろうか。
瑛は咄嗟に、その手を掴んだ。
「あの…やっぱ、コーヒーでも飲んでく?」
振り向いたその瞳が揺れていたのに、気付けてよかった。
駅構内のカフェで一杯だけコーヒーを飲んで、いよいよあの街へ向かう列車に乗り込んだ。
カフェでも何か大した話をしたわけではないのだけど、はるかは少し落ち着いたようだった。
「久しぶりだね。ふたりで、この路線に乗るの」
途中の駅で乗客がごっそりといなくなった後、隣ではるかが囁く。
今この車両にはふたりしかいない。
はじめてふたりの想いが通じ合った、あの時のように。
「俺は、卒業以来だな」
「そうなんだ。監督に会いに行ったりしてるのかなって思ってた」
「はるかは?帰ってきた時ぶり?」
「うん。だから結構最近だね」
アメリカから帰ったはるかは一週間ほど実家に戻り、それからあの開幕の夜、ふたりの家にやってきた。
去年の年末はふたりともギリギリまで仕事があったので、結局一緒に暮らしてからは一度も実家には帰っていない。
自分はどうせ帰っても騒がしい中年男性がいるだけなので構わないが、はるかには気にせず帰ってもいいと伝えるべきだったかもしれない。今更ながら申し訳ない心持になった。
「緊張、する?」
懐かしい風景に気が抜けたのか、少しだけ身を寄せてきたはるかと肩が触れ合う。
「んー、まあ?」
「ふふ。あんまりしてなさそう」
「正直、却下されるビジョンがあんまりないかも。しっかりしろとは言われるかもしれねえけど」
「脅すわけじゃないけど…お父さんとお母さんが結婚する時、最後まで反対してたのはおじいちゃんだったらしいよ」
「えっ」
あの彫りの深い顔を思い出して目を見張ると、はるかはくすくすと笑った。
「昔はよくケンカしてたんだって。お父さんとおじいちゃん。でも、瑛くんのこと大好きだからきっと大丈夫だよ」
それきりはるかはまた、窓の外に視線を向けた。
新幹線よりもずっとゆっくり通り過ぎていく景色を、いとおしむような瞳だった。
ついさっきまであんなことを言っていたのいうのに、いざその扉を前にすると急に心拍数が上がった。
はるかはもう鍵を持っていないのか、インターホンを鳴らした。
返答の代わりに物音が聞こえて、ゆっくりと扉が開いた。
「わあ…!」
顔を出したのは薫で、その奥には祖父母の姿もある。
三人ともあの頃とあまり変わらない様子で、驚いたように口を開けてふたりを見ている。
「な、何かな…?」
「やだもうふたりとも、なんかオーラ出てるよ!」
「え?」
「早くお入り!誰かに見つかったら大事だよっ」
「おじいちゃん大声出さないよ…」
きちんと挨拶をする間もなく、ぐいぐいとリビングへと押し込まれる。
なんだかこの空気感も懐かしい気がした。
「ええと、あの…お久しぶりです」
「いよっ!日本一!」
「はは…どうも…?」
「ますます大きくなったねえ。ほれほれ」
「おじいちゃん!大事な選手の身体ですよ!」
「あ、大丈夫っす…」
おかげで緊張は一瞬で解れたけれど、これはこれでやりづらい。
はるかも困ったように笑っていた。
「お義父さん、座ってください。瑛君もせっかくのプライベートなんですから」
先ほどは一緒になって騒いでいた薫だけど、お茶を手に戻ってきた頃には落ち着いてそう諭した。
やはりこの穏やかな雰囲気は、親子でよく似ている。
「…お気遣いありがとうございます。あの、今日は皆さんにお話ししたいことがありまして」
瑛がそう切り出すと、薫も祖父母も、そしてはるかも静かに息を呑んだ。
「まずは…はるかさんをずっと神岡にいさせたままで、すみません。たぶん自分に遠慮して帰ってなかったと思うんで」
「瑛くん…」
そんなことない、と言おうとしたはるかを視線で制する。
ここで庇ってもらうのではいけない気がした。
「それから、おじいさんが言ってくださった通り、今シーズンは日本一になれました」
「みんなで観てたよ。おめでとう!」
「ありがとうございます。でもそれは、はるかさんに言ってあげてください」
「え…?」
もう一度、隣で小さく声を漏らしたはるかの顔を見た。
そしてまた三人の顔を、それぞれ見渡す。
「今シーズンは…調子を崩して二軍に行っていた時期もありました。監督から言われた時は正直、絶望しました。やっとここまで来れたのに、一瞬で全部が崩れ落ちていくみたいでした」
冷静に考えれば、不調時に二軍調整となるのは決して珍しいケースではない。
しかしまだプロ入り4年目で、ようやくスタメンを勝ち取ったばかりの瑛には、かなり衝撃的な出来事だった。
悪い意味でも、それから良い意味でも。
「はるかさんはそれでも、変わらずにいてくれました。一軍に上がる前も、高校時代も、それから出会った頃も…はるかさんはずっと、自分を守ってくれていました。だからチームが日本一になって、そこに自分の力が貢献できていたとするならそれは、間違いなくはるかさんのおかげです。はるかさんがいなければ、自分はここまで来れてないと思います」
──お互いだけが、お互いの世界にならないように
薫との約束には、思い切り背を向けてしまうけれど。
「これからは自分が、はるかさんを守りたいです。何があってもそばにいたいです。はるかさんと、結婚させてください」
真っ直ぐに伝えて、頭を下げた。
視界の隅ではるかの手が震えていて、そこへ小さな雫が落ちるのが見えた。
「…はるちゃんは?」
長い沈黙を破ったのは、やわらかな薫の声だった。
「はるちゃんは、どうしたい?」
「わたし…わたしは、瑛くんのそばにいたい。瑛くんのそばで、指が動かなくなる日までピアノを弾いて、その日が来たら…」
頭を下げたまま、覗き込むようにはるかの顔を見上げた。
「楽しかったねって、笑っていたい」
笑顔の中で、星の瞳がきらきらと瞬いていた。
「そっか…」
息を吐くように、薫が呟いた。
「そうだね。はるちゃん。私も、楽しかった。はるちゃんとお父さんと三人で暮らせて、楽しかったよ」
はるかと同じ、ぽろぽろと涙が溢れる薫の瞳が、瑛を見た。
「瑛君。はるちゃんと、素敵な家族になってね」
その言葉は、ぎゅっと胸が詰まるほど重たかった。
当然だ。これはひと一人の人生を、自分に預けてくれと言っているのと同じだから。
「はい。必ず」
はるかを幸せにするだけでは足りない。
この決断を後悔させないために自分は生きてゆくのだと、魂に刻み込むように頷いた。