[Theme 02]4年目編
46
はるかのピアノは、まるではるか自身のようだと、生で演奏を聴く度に思う。
家の小さな防音室で弾いている時も、コンサートホールで弾いている時も、纏う空気は何も変わらない。
ただ純粋に音楽を愛し、そして音楽に愛されているようなその姿。
はるかは瑛にふさわしい自分でいられるかを、悩んでいた。
戦う場所が変わっていくだけで自分は何一つ変わらない気でいたけれど、それははるかがどこまでも遠くへ羽ばたいていってしまうようなこの感覚と似ていたのかもしれない。
その日も約2,000人の観客がホールを埋め尽くし、直前でチケットを取った瑛に与えられた場所はステージからは程遠い3階席の奥だった。
はるかに言えばもっと良い席に行けたかもしれないが、球場で関係者席を使いたがらないはるかの気持ちが少し分かった気がしたのだった。
それでもはるかのピアノは、まるですぐそばにいるような温度で、この手で触れあっているような質感で、瑛を包んでくれた。
アメリカのジャズ・クラブでの、あの夜のように。
どこか神秘的なまでに美しくて、やさしいぬくもりが、彼女の小さな指先から遠く離れたこの場所まで響き渡る。
こんなにもこの胸を焦がす存在は、はるかただひとりしかいないと実感する。
曲の最後にはいつも、はるかはその瞳に切なさを浮かべていた。
終わりたくない、そんな名残惜しさを感じさせるように。
だけどその時は、遠目にもどこか晴れやかな横顔に見えた。
一年越しに彼女に贈った12本のバラ 。
その答えが涙じゃなくて、本当によかった。
「そういえば湯川さんのテレビ今日だったよね?」
「あー、なんか出る時録画動いてたな」
「瑛くんは今年はいつ出るの?」
帰ってきたはるかは思ったよりいつも通りで、早速他の男の名前を口にする始末だ。
テレビのリモコンを持ったその手を、咄嗟に捕まえる。
「うん…?」
こちらを見上げたはるかの瞳はゆらゆらと揺れていて、やっぱり彼女もそわそわしていたのかもしれない。
そう思うと余計に落ち着かなくなった。
「あのさ。やっぱりもっと、はるかのライブ行きたい」
口をついて出たのは、まったく別の話で。
だけどこれも伝えようと思っていたので、そのまま続ける。
「俺だって、月城 はるかさんが“推し”で生きがいなんですけど?」
肩を抱くだけで未だに強張る小さな身体が、いとおしい。
そのまま顔を近付ければ、ほんのりと頬が染まる。
それを同じ家で、こんなに近くで見つめていられることが、ただただ幸せだと思った。
「結婚してください」
思えばあの時は本当に、自分の気持ちを押し付けるばかりだったと思う。
はるかが涙を流すまで、その胸の内に気付いてやれなかった。
結局今もまだまだ自分のことで精一杯で、だけどはるかの気持ちを置いていくようなことだけはしないようにしたい。
今度は悲しみや苦しみでなく流してくれたこの涙も、大切にしたい。
「はい。よろしくお願いします」
はるかははらはらと涙を流しながら、微笑んだ。
次の瞬間には、思い切り抱き締めていた。
「はー…」
全身から力が抜けていく。
はるかを包む腕の力だけは、ぎゅっと強いままで。
「待たせてごめんね。ありがとう」
「おい…」
はるかがそんなことまで口にするので、一気に視界が歪んだ。
まずいと思ってももう遅く、涙が頬を伝う。
ふたりしてぐずぐずと鼻をすする羽目になった。
「ふ、はは…」
「…何だよ」
腕を緩めて、ふいに笑い出したはるかの顔を覗き込む。
「ふふ。変なシチュエーションだなあって」
「あ…」
視線をずらせば、テレビ画面の中では薄っすらと見覚えのある芸人が街歩きをしていて、ずっと掴んでいたはるかの手にはリモコンが握られたままだった。
ホテルの最上階のレストランで、膝をついて指輪を差し出した一年前とは大違いだ。
「あ、指輪…!」
慌てて立ち上がり、あれからずっとクローゼットの奥にしまい込んでいた小箱を迎えに行く。
もう一つ、細長い箱も一緒に。
リビングに戻るとはるかはテレビを消して、さり気なく居住まいを正していた。
瑛も思い出したように涙を拭う。
「これ、あの…買い直そうかとも思ったんだけど」
おずおずと開けた小箱の中、一年越しの輝きがはるかの瞳を照らした。
「うん。これがいい。あの時の瑛くんの気持ちも、ちゃんと大事に受け留めたいから」
はるかは心底大切そうにその小箱を受けとって、またやわらかな微笑みを向けてくれた。
一度緩んだ涙腺はもうどうにもならないらしく、またしても視界がぐらつく。
はるかの顔をしっかり見ていたいのにもったいない。
そんなことを思いながら、もう一つの箱を差し出した。
「指輪買い直さなかった代わりに、これ」
「え…」
それは婚約指輪よりも少し小ぶりなダイヤモンドのネックレス。
はるかは目を丸くして瑛を見上げた。
「か、代わりにって、え、えええ…!!」
「使って欲しいから控えめにしたけど」
「控えてない、控えてない!!指輪と合わせたら国が買えてしまうのでは…?」
「んなわけねーだろ」
自宅にグランドピアノ置いてるやつが何言ってんだか。
そう呟きながら、箱からネックレスを取り出した。
「待って待って…!人としての格が追い付かな…」
「今の俺の気持ちだって、ちゃんと大事に受け留めて欲しいんですが」
そう言えばはるかはひゅっと息を呑んで、その隙に華奢な首元にダイヤモンドを飾った。
思った通りよく似合う。
「あ、ありがとう…!いただいておいて使わないのが一番もったいないと思うので、頑張ります…!」
「そうしてくれ。ライブの時も、絶対つけて」
これで瑛がその場にいられない時でも、はるかのそばにいられるような気がした。
「結婚指輪は、はるかが好きなの選びに行こう」
「わ、わあ…」
「明日行く?」
「明日!?」
「テレビとかイベント出る時、着けたい」
あたふたと落ち着かないはるかを抱き締めながら言うと、余計に動揺してしまったようだ。
せっかくの夫婦の証なのに、試合中は着けられないので、結局一年のほとんどは飾って過ごすことになるのだ。
せめてオフシーズンの間に一日でも長く身に着けていたい。
婚約指輪もオーダーしてから時間がかかった記憶があるので、あまり時間はないのだ。
「その前に、えっと、入籍日とか…挨拶とか、ね…?」
「あ」
あとははるかの気持ちだけだと思うあまり、すっかり頭から抜けていた。
相変わらずな自分に頭を抱える。
「ごめん…」
「あはは。まあいろいろと時間がないのはほんとかもね。手続きとかもオフシーズンの間にしとかなきゃだろうし、そうこう言ってるとすぐキャンプだし」
「とりあえず…まずは、鷺嶋行くか」
瑛の提案に、はるかはまた息を呑む。
「…そうだね。明日の朝、お母さんたちに連絡入れてみるよ」
「俺も父さんに軽く話しとく」
鷺嶋も、藏崎も、ふたりにとって大切な場所。
どちらもはるかとともに訪れるのは、高校時代以来になる。
はるかを抱き締める手に、自然と力がこもった。
はるかのピアノは、まるではるか自身のようだと、生で演奏を聴く度に思う。
家の小さな防音室で弾いている時も、コンサートホールで弾いている時も、纏う空気は何も変わらない。
ただ純粋に音楽を愛し、そして音楽に愛されているようなその姿。
はるかは瑛にふさわしい自分でいられるかを、悩んでいた。
戦う場所が変わっていくだけで自分は何一つ変わらない気でいたけれど、それははるかがどこまでも遠くへ羽ばたいていってしまうようなこの感覚と似ていたのかもしれない。
その日も約2,000人の観客がホールを埋め尽くし、直前でチケットを取った瑛に与えられた場所はステージからは程遠い3階席の奥だった。
はるかに言えばもっと良い席に行けたかもしれないが、球場で関係者席を使いたがらないはるかの気持ちが少し分かった気がしたのだった。
それでもはるかのピアノは、まるですぐそばにいるような温度で、この手で触れあっているような質感で、瑛を包んでくれた。
アメリカのジャズ・クラブでの、あの夜のように。
どこか神秘的なまでに美しくて、やさしいぬくもりが、彼女の小さな指先から遠く離れたこの場所まで響き渡る。
こんなにもこの胸を焦がす存在は、はるかただひとりしかいないと実感する。
曲の最後にはいつも、はるかはその瞳に切なさを浮かべていた。
終わりたくない、そんな名残惜しさを感じさせるように。
だけどその時は、遠目にもどこか晴れやかな横顔に見えた。
一年越しに彼女に贈った
その答えが涙じゃなくて、本当によかった。
「そういえば湯川さんのテレビ今日だったよね?」
「あー、なんか出る時録画動いてたな」
「瑛くんは今年はいつ出るの?」
帰ってきたはるかは思ったよりいつも通りで、早速他の男の名前を口にする始末だ。
テレビのリモコンを持ったその手を、咄嗟に捕まえる。
「うん…?」
こちらを見上げたはるかの瞳はゆらゆらと揺れていて、やっぱり彼女もそわそわしていたのかもしれない。
そう思うと余計に落ち着かなくなった。
「あのさ。やっぱりもっと、はるかのライブ行きたい」
口をついて出たのは、まったく別の話で。
だけどこれも伝えようと思っていたので、そのまま続ける。
「俺だって、月城 はるかさんが“推し”で生きがいなんですけど?」
肩を抱くだけで未だに強張る小さな身体が、いとおしい。
そのまま顔を近付ければ、ほんのりと頬が染まる。
それを同じ家で、こんなに近くで見つめていられることが、ただただ幸せだと思った。
「結婚してください」
思えばあの時は本当に、自分の気持ちを押し付けるばかりだったと思う。
はるかが涙を流すまで、その胸の内に気付いてやれなかった。
結局今もまだまだ自分のことで精一杯で、だけどはるかの気持ちを置いていくようなことだけはしないようにしたい。
今度は悲しみや苦しみでなく流してくれたこの涙も、大切にしたい。
「はい。よろしくお願いします」
はるかははらはらと涙を流しながら、微笑んだ。
次の瞬間には、思い切り抱き締めていた。
「はー…」
全身から力が抜けていく。
はるかを包む腕の力だけは、ぎゅっと強いままで。
「待たせてごめんね。ありがとう」
「おい…」
はるかがそんなことまで口にするので、一気に視界が歪んだ。
まずいと思ってももう遅く、涙が頬を伝う。
ふたりしてぐずぐずと鼻をすする羽目になった。
「ふ、はは…」
「…何だよ」
腕を緩めて、ふいに笑い出したはるかの顔を覗き込む。
「ふふ。変なシチュエーションだなあって」
「あ…」
視線をずらせば、テレビ画面の中では薄っすらと見覚えのある芸人が街歩きをしていて、ずっと掴んでいたはるかの手にはリモコンが握られたままだった。
ホテルの最上階のレストランで、膝をついて指輪を差し出した一年前とは大違いだ。
「あ、指輪…!」
慌てて立ち上がり、あれからずっとクローゼットの奥にしまい込んでいた小箱を迎えに行く。
もう一つ、細長い箱も一緒に。
リビングに戻るとはるかはテレビを消して、さり気なく居住まいを正していた。
瑛も思い出したように涙を拭う。
「これ、あの…買い直そうかとも思ったんだけど」
おずおずと開けた小箱の中、一年越しの輝きがはるかの瞳を照らした。
「うん。これがいい。あの時の瑛くんの気持ちも、ちゃんと大事に受け留めたいから」
はるかは心底大切そうにその小箱を受けとって、またやわらかな微笑みを向けてくれた。
一度緩んだ涙腺はもうどうにもならないらしく、またしても視界がぐらつく。
はるかの顔をしっかり見ていたいのにもったいない。
そんなことを思いながら、もう一つの箱を差し出した。
「指輪買い直さなかった代わりに、これ」
「え…」
それは婚約指輪よりも少し小ぶりなダイヤモンドのネックレス。
はるかは目を丸くして瑛を見上げた。
「か、代わりにって、え、えええ…!!」
「使って欲しいから控えめにしたけど」
「控えてない、控えてない!!指輪と合わせたら国が買えてしまうのでは…?」
「んなわけねーだろ」
自宅にグランドピアノ置いてるやつが何言ってんだか。
そう呟きながら、箱からネックレスを取り出した。
「待って待って…!人としての格が追い付かな…」
「今の俺の気持ちだって、ちゃんと大事に受け留めて欲しいんですが」
そう言えばはるかはひゅっと息を呑んで、その隙に華奢な首元にダイヤモンドを飾った。
思った通りよく似合う。
「あ、ありがとう…!いただいておいて使わないのが一番もったいないと思うので、頑張ります…!」
「そうしてくれ。ライブの時も、絶対つけて」
これで瑛がその場にいられない時でも、はるかのそばにいられるような気がした。
「結婚指輪は、はるかが好きなの選びに行こう」
「わ、わあ…」
「明日行く?」
「明日!?」
「テレビとかイベント出る時、着けたい」
あたふたと落ち着かないはるかを抱き締めながら言うと、余計に動揺してしまったようだ。
せっかくの夫婦の証なのに、試合中は着けられないので、結局一年のほとんどは飾って過ごすことになるのだ。
せめてオフシーズンの間に一日でも長く身に着けていたい。
婚約指輪もオーダーしてから時間がかかった記憶があるので、あまり時間はないのだ。
「その前に、えっと、入籍日とか…挨拶とか、ね…?」
「あ」
あとははるかの気持ちだけだと思うあまり、すっかり頭から抜けていた。
相変わらずな自分に頭を抱える。
「ごめん…」
「あはは。まあいろいろと時間がないのはほんとかもね。手続きとかもオフシーズンの間にしとかなきゃだろうし、そうこう言ってるとすぐキャンプだし」
「とりあえず…まずは、鷺嶋行くか」
瑛の提案に、はるかはまた息を呑む。
「…そうだね。明日の朝、お母さんたちに連絡入れてみるよ」
「俺も父さんに軽く話しとく」
鷺嶋も、藏崎も、ふたりにとって大切な場所。
どちらもはるかとともに訪れるのは、高校時代以来になる。
はるかを抱き締める手に、自然と力がこもった。