[Theme 02]4年目編
45
──はるかにはもらってばっかだから、何か一つでも返してやりたくて
満月の夜、瑛が囁いた言葉。
あの花のサプライズもその一つなんだろうか。
12本のバラ 。
それは去年の誕生日、ダイヤモンドの指輪とともに差し出されたのと同じ。
あの時のはるかは、それに応えることができなかった。
だけど今なら。
トリオのメンバーが中座し、そこはたったひとりのステージになった。
白と黒の世界に手を伸ばせば、雫のように音が跳ねては消えていく。
ふつふつと、静かな空気の中にとけていく。
幼い頃はそれが寂しくて、絶え間なく音を鳴らしていたかったように思う。
音が止んだらすべてが幻だったみたいに、目の前から消えていきそうな気がして。
ピアノを弾く父がいて、穏やかに微笑む母がいて──そんな日常が、ある日突然消えてしまったように。
だけどいつからか、自分はその雫の中に閉じこもっていたのかもしれない。
いつだって過去に縛られて、そこから連れ出そうとする瑛の手をとったかと思えば、そのままそこでうずくまって。
次の音は、ちゃんとうまく鳴るだろうか。ちゃんと、きれいに。
その雫を打ち砕いてくれたのはあの夜、満月の下に鳴り響いた打球音だった。
あの時気付いた。
過去に引きずられては、性懲りもなく何度も何度も立ち止まる自分の迷いを、彼は何度だって弾き飛ばしてくれた。
あまりに真っ直ぐな思いで。あまりに強く、熱い瞳で。
迷いのないスイングが奏でる、世界でもっとも美しい音楽で。
“うまく”だとか、“きれいに”なんて考える前に、自然と指が踊る。
ピアノを弾いている時は、なんて素直に息をしていられるんだろう。
きっともう、それでいいんだ。
今またとけていった雫も、次に奏でるのも、過去に消えていった無数のそれも。
全部が“続き”だから。
テーマの続き。さっきの曲の続き。
あの夏の続き。
家族で過ごした微かな日常の、続き。
この音が止んだら、彼のもとに帰るだけ。
自分もまた、彼にとっての帰る場所でいるだけ。
ただそれだけできっと、わたしたちは“家族”になれる。
──一年かけて分からせてやる
“降参”です。
胸の奥でそう呟いて、最後の雫を見送った。
「ごめん、開けてもらっていい…?」
インターホンを鳴らしてそう言うと、すぐに扉が開いた。
真っ赤なバラを抱えたはるかを見下ろして、瑛は得意げに微笑んだ。
「おかえり」
「ただいま…」
なんとなく照れくさくて、瑛が開けてくれた扉をそそくさと潜り抜ける。
暖房で傷むといけないので、アレンジメントはそのまま玄関に飾ることにした。
「あの…ありがとね。びっくりした」
「時々そうやって持って帰ってくるの、ちょっとムカついてたから」
「えっ!?」
さすがに全部は持って帰れないのを忍びなく思いながら、いつも少しずつ抜き取ったものを持って帰っていた。
まさかそれが瑛の気に障っていたとは、と目を泳がせる。
「でも今日は、俺のだけなんだな」
そう言う瑛は満足げなので、今日はとりあえずそれでいいことにした。
「ふう、ちょっとだけ緊張しちゃった。自分の“スイング”ができないとこだった!」
「嘘つけ。相変わらずすげーよな、はるかのピアノ」
「ええ…ジャズと野球をかけた渾身のギャグだったんだけど…」
「ん?」
くだらないことを話しながら、リビングに向かう。
瑛はひょこひょこと後ろをついてくる。
高校時代よりさらに大きくなったのに、こういうところは子犬のようだ。
「そういえば湯川さんのテレビ今日だったよね?」
「あー、なんか出る時録画動いてたな」
「瑛くんは今年はいつ出るの?」
オフシーズンに突入して早々、選手たちはテレビやトークイベントに引っ張りだこだ。
録画一覧に溜まったラインナップを確認しようと、はるかはソファに座ってリモコンを手にとる。
その手にふと、瑛の手が重なった。
「うん…?」
はるかのすぐ隣に腰を下ろした瑛は、言葉を探すように視線を巡らせていた。
「あのさ。やっぱりもっと、はるかのライブ行きたい」
「えっ」
「単純に観たいのももちろんだけど…はるかはいつも応援してくれてるのに、俺だけ全然行かないのはやっぱナシだろって」
「そんな!わたしが勝手に生きがいを謳歌してるだけなので、お気になさらず…」
「俺だって、月城 はるかさんが“推し”で生きがいなんですけど?」
言葉に詰まった隙にするり、と肩を抱かれた。
「シーズン中はやっぱり厳しいけど、せめてオフの間は。そばにいて応援してくれることがどんなに有り難いか、思い知ったつもりだから」
精悍な顔が近付いてきて、鼓動が跳ねる。
すっかり日常に変わった部屋の中、流れる空気が変わった。
「今シーズンもいろいろ…マジでいろいろあったけど、応援してくれてありがとう」
「うん」
「たくさん悩みながらでも、そばにいてくれてありがとう」
「…うん」
「出会ってくれてありがとう。はるか、その…愛してる」
あの夏の蜃気楼のように、きらきらと揺らいだ視界。
「結婚してください」
またひとつ、雫がこぼれた。
──はるかにはもらってばっかだから、何か一つでも返してやりたくて
満月の夜、瑛が囁いた言葉。
あの花のサプライズもその一つなんだろうか。
それは去年の誕生日、ダイヤモンドの指輪とともに差し出されたのと同じ。
あの時のはるかは、それに応えることができなかった。
だけど今なら。
トリオのメンバーが中座し、そこはたったひとりのステージになった。
白と黒の世界に手を伸ばせば、雫のように音が跳ねては消えていく。
ふつふつと、静かな空気の中にとけていく。
幼い頃はそれが寂しくて、絶え間なく音を鳴らしていたかったように思う。
音が止んだらすべてが幻だったみたいに、目の前から消えていきそうな気がして。
ピアノを弾く父がいて、穏やかに微笑む母がいて──そんな日常が、ある日突然消えてしまったように。
だけどいつからか、自分はその雫の中に閉じこもっていたのかもしれない。
いつだって過去に縛られて、そこから連れ出そうとする瑛の手をとったかと思えば、そのままそこでうずくまって。
次の音は、ちゃんとうまく鳴るだろうか。ちゃんと、きれいに。
その雫を打ち砕いてくれたのはあの夜、満月の下に鳴り響いた打球音だった。
あの時気付いた。
過去に引きずられては、性懲りもなく何度も何度も立ち止まる自分の迷いを、彼は何度だって弾き飛ばしてくれた。
あまりに真っ直ぐな思いで。あまりに強く、熱い瞳で。
迷いのないスイングが奏でる、世界でもっとも美しい音楽で。
“うまく”だとか、“きれいに”なんて考える前に、自然と指が踊る。
ピアノを弾いている時は、なんて素直に息をしていられるんだろう。
きっともう、それでいいんだ。
今またとけていった雫も、次に奏でるのも、過去に消えていった無数のそれも。
全部が“続き”だから。
テーマの続き。さっきの曲の続き。
あの夏の続き。
家族で過ごした微かな日常の、続き。
この音が止んだら、彼のもとに帰るだけ。
自分もまた、彼にとっての帰る場所でいるだけ。
ただそれだけできっと、わたしたちは“家族”になれる。
──一年かけて分からせてやる
“降参”です。
胸の奥でそう呟いて、最後の雫を見送った。
「ごめん、開けてもらっていい…?」
インターホンを鳴らしてそう言うと、すぐに扉が開いた。
真っ赤なバラを抱えたはるかを見下ろして、瑛は得意げに微笑んだ。
「おかえり」
「ただいま…」
なんとなく照れくさくて、瑛が開けてくれた扉をそそくさと潜り抜ける。
暖房で傷むといけないので、アレンジメントはそのまま玄関に飾ることにした。
「あの…ありがとね。びっくりした」
「時々そうやって持って帰ってくるの、ちょっとムカついてたから」
「えっ!?」
さすがに全部は持って帰れないのを忍びなく思いながら、いつも少しずつ抜き取ったものを持って帰っていた。
まさかそれが瑛の気に障っていたとは、と目を泳がせる。
「でも今日は、俺のだけなんだな」
そう言う瑛は満足げなので、今日はとりあえずそれでいいことにした。
「ふう、ちょっとだけ緊張しちゃった。自分の“スイング”ができないとこだった!」
「嘘つけ。相変わらずすげーよな、はるかのピアノ」
「ええ…ジャズと野球をかけた渾身のギャグだったんだけど…」
「ん?」
くだらないことを話しながら、リビングに向かう。
瑛はひょこひょこと後ろをついてくる。
高校時代よりさらに大きくなったのに、こういうところは子犬のようだ。
「そういえば湯川さんのテレビ今日だったよね?」
「あー、なんか出る時録画動いてたな」
「瑛くんは今年はいつ出るの?」
オフシーズンに突入して早々、選手たちはテレビやトークイベントに引っ張りだこだ。
録画一覧に溜まったラインナップを確認しようと、はるかはソファに座ってリモコンを手にとる。
その手にふと、瑛の手が重なった。
「うん…?」
はるかのすぐ隣に腰を下ろした瑛は、言葉を探すように視線を巡らせていた。
「あのさ。やっぱりもっと、はるかのライブ行きたい」
「えっ」
「単純に観たいのももちろんだけど…はるかはいつも応援してくれてるのに、俺だけ全然行かないのはやっぱナシだろって」
「そんな!わたしが勝手に生きがいを謳歌してるだけなので、お気になさらず…」
「俺だって、月城 はるかさんが“推し”で生きがいなんですけど?」
言葉に詰まった隙にするり、と肩を抱かれた。
「シーズン中はやっぱり厳しいけど、せめてオフの間は。そばにいて応援してくれることがどんなに有り難いか、思い知ったつもりだから」
精悍な顔が近付いてきて、鼓動が跳ねる。
すっかり日常に変わった部屋の中、流れる空気が変わった。
「今シーズンもいろいろ…マジでいろいろあったけど、応援してくれてありがとう」
「うん」
「たくさん悩みながらでも、そばにいてくれてありがとう」
「…うん」
「出会ってくれてありがとう。はるか、その…愛してる」
あの夏の蜃気楼のように、きらきらと揺らいだ視界。
「結婚してください」
またひとつ、雫がこぼれた。
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■ライブの曲
My One and Only Love/Guy Wood