[Theme 02]4年目編
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『マジでごめん…身体冷えたよな…服とかも、大丈夫…?』
電話越しに聞こえる声は、日本一になりたてホヤホヤの選手とは思えないほど弱々しかった。
「あはは、それは大丈夫だよ。でも反省してください」
『申し訳ありません…』
「偉い人たちやマスコミの人だっていっぱいいたのに!むしろそっちが大丈夫なの…?」
『あー、それは平気』
どうやら瑛の危険な動向を察知した後輩たちが、咄嗟にTシャツを脱ぎだしてカメラマンたちの視線を集めていたらしい。
冷たい風が吹き抜ける中、文字通り一肌脱いで瑛を救ったのだと思うと胸が痛む。
「あったかい飲み物でも差し上げて…」
『大丈夫だろ、あいつらバカだし』
「瑛くん」
『ハイ…』
しゅんと縮こまる声の奥では、バタバタと慌ただしい気配がしている。
あれからスタッフが“そのまま捨ててもいい”という上着を貸してくれたので、はるかはそれを着てホテルに戻った。
すぐにシャワーを浴びて、着ていた服も手洗いすればシミもにおいも残らなかった。
そうこうしているうちにとっくに日付が変わっているが、瑛たちはまだこれから各メディアでのインタビューが続く。
そしてほとんど寝る間もないまま帰路につくことだろう。
おそらくはるかが先に帰り着くことになるので、瑛が帰ってきたらとにかくゆっくり休ませてあげたい。
「あの…瑛くん」
その前に、どうしても気がかりなことがあった。
『うん?』
「身体、なんともないんだよね…?」
『え?』
9回裏、球場を沸かせたジャンピングキャッチ。
しっかりと白球を掴んだままフィールドを転がるその姿には、奇しくも瑛の一軍デビューのきっかけとなった“あの出来事”が重なってしまった。
自力で起き上がれず担架で運び出された彼とは違い、瑛はすぐに起き上がり日本一の瞬間までプレーを続けていた。
祝勝会の様子を見ても、特に異変は感じられなかった。
それでも、どうしても胸がざわざわと落ち着かなかった。
『ああ、あれは全然!すっ転ぶのには慣れてるしな』
「ほんとに…?」
その言葉で思い出すのは、まだ野球をはじめたばかりの頃の瑛。
今では考えられないほど守備に苦戦し、しょっちゅうグラウンドを転がっていた。
『ホント。そんなに心配ならレントゲンでも何でも撮ってくるけど?』
「そこまで言うなら、大丈夫か…」
ほっと、安堵の息が漏れる。
これでようやく、心から日本一を祝える気がした。
「おめでとう、瑛くん。お疲れさま」
自然と笑みを浮かべながらそう言うと、電話の向こうで鼻をすする音がした。
そしてすぐに、微笑むような吐息が伝わる。
『ありがとう』
その声音につられるように、はるかの視界もじわりと滲んだ。
藤堂 貴文、引退。
その知らせは“日本一”の文字と並び、連日多くのメディアを埋め尽くしていた。
──(引退宣言の)撤回を求める声が多かったが?
それ(撤回)はないです。もう自分にできることはやり尽くしました。今の選手たち、これからの世代に託します。
そんな彼の言葉が報じられても尚、SNSでは貴文の現役続行を願う声が止まない。
一方ではるかは、彼の決断を少しずつ受け入れはじめていた。
──いいのいいの。もうじゅうぶん!
あの夜、朗らかに笑った直子の瞳は、わずかに揺れていた。
それが彼と、誰よりも彼のそばにいた彼女にしか知り得ない何かを物語っている気がしたから。
「月城さん大丈夫?正気?」
ノックもなしに楽屋の扉が開けられたと思えば、先輩ミュージシャンが心配そうに尋ねてきた。
“推し”に何かがあればまるで自分のことのように周りから声をかけられるのは、誰かを推している者の宿命でもある。
「おはようございます。日本一よりもそっちが先ですか…」
「いやー、どっちの感情が勝つのかなと思って」
「どっちも“おめでとう”ですよ。ファンにできるのは、推しが決めたことを黙って応援することだけですから…」
「相変わらず漢だねえ、月城さん」
先輩はけらけらと笑って、じゃあまたあとで、と踵を返した。
ところが、ドアノブに伸ばした手を止めて振り返る。
「ねえねえ、えらく情熱的なお花があったけど…やっぱり彼氏?」
「はい…?」
「今日来るの?楽しみー!」
瑛がはるかのライブに姿を現すことはほとんどない。
シーズン中はとてもそんな時間はないし、オフであろうとはるかが丁重にお断りしている。
“ジャズ好き”のイメージが定着している瑛ならジャズライブの場にいても何らおかしくはないのだが、彼がボロを出さないとは思えないのだ。
ただし今日のようにコンサートホールで行われるライブならば、演者が観客と接することもなくボロの出しようがないので、どうしてもと言われたらOKしている。
ところが今日は瑛にも予定があると言っていたし、実際朝早くから家を出ていた。
先輩を見送った後で通路に出てみると、通路にはフラワースタンドやアレンジメントが並んでいた。
自分宛のものは一通り送り主を確認したので、どれも一度見たものだ。
ひとつだけ、異様に目立つ“それ”以外は。
「こ、これは…」
カラフルな楽屋花の中で明らかに浮いている、深い赤色。
12本のバラと白いカスミソウだけのシンプルなアレンジメントは、先ほどは見かけなかったものだった。
「わー、素敵!なになに?誰?」
先輩の“情熱的”という言葉にも頷けるそれを前に、通りかかった他のミュージシャンも声を上げた。
頬が熱くなる。正直かなり恥ずかしい。
「何?暗号…?」
“祝ご出演 月城 はるか様”とお決まりの文字列に添えられていたのは、名前ではなく数字。
今シーズンも本拠地で、時には二軍の地で、そして最後は甲子園で見つめ続けた、瑛の背番号だった。
『マジでごめん…身体冷えたよな…服とかも、大丈夫…?』
電話越しに聞こえる声は、日本一になりたてホヤホヤの選手とは思えないほど弱々しかった。
「あはは、それは大丈夫だよ。でも反省してください」
『申し訳ありません…』
「偉い人たちやマスコミの人だっていっぱいいたのに!むしろそっちが大丈夫なの…?」
『あー、それは平気』
どうやら瑛の危険な動向を察知した後輩たちが、咄嗟にTシャツを脱ぎだしてカメラマンたちの視線を集めていたらしい。
冷たい風が吹き抜ける中、文字通り一肌脱いで瑛を救ったのだと思うと胸が痛む。
「あったかい飲み物でも差し上げて…」
『大丈夫だろ、あいつらバカだし』
「瑛くん」
『ハイ…』
しゅんと縮こまる声の奥では、バタバタと慌ただしい気配がしている。
あれからスタッフが“そのまま捨ててもいい”という上着を貸してくれたので、はるかはそれを着てホテルに戻った。
すぐにシャワーを浴びて、着ていた服も手洗いすればシミもにおいも残らなかった。
そうこうしているうちにとっくに日付が変わっているが、瑛たちはまだこれから各メディアでのインタビューが続く。
そしてほとんど寝る間もないまま帰路につくことだろう。
おそらくはるかが先に帰り着くことになるので、瑛が帰ってきたらとにかくゆっくり休ませてあげたい。
「あの…瑛くん」
その前に、どうしても気がかりなことがあった。
『うん?』
「身体、なんともないんだよね…?」
『え?』
9回裏、球場を沸かせたジャンピングキャッチ。
しっかりと白球を掴んだままフィールドを転がるその姿には、奇しくも瑛の一軍デビューのきっかけとなった“あの出来事”が重なってしまった。
自力で起き上がれず担架で運び出された彼とは違い、瑛はすぐに起き上がり日本一の瞬間までプレーを続けていた。
祝勝会の様子を見ても、特に異変は感じられなかった。
それでも、どうしても胸がざわざわと落ち着かなかった。
『ああ、あれは全然!すっ転ぶのには慣れてるしな』
「ほんとに…?」
その言葉で思い出すのは、まだ野球をはじめたばかりの頃の瑛。
今では考えられないほど守備に苦戦し、しょっちゅうグラウンドを転がっていた。
『ホント。そんなに心配ならレントゲンでも何でも撮ってくるけど?』
「そこまで言うなら、大丈夫か…」
ほっと、安堵の息が漏れる。
これでようやく、心から日本一を祝える気がした。
「おめでとう、瑛くん。お疲れさま」
自然と笑みを浮かべながらそう言うと、電話の向こうで鼻をすする音がした。
そしてすぐに、微笑むような吐息が伝わる。
『ありがとう』
その声音につられるように、はるかの視界もじわりと滲んだ。
藤堂 貴文、引退。
その知らせは“日本一”の文字と並び、連日多くのメディアを埋め尽くしていた。
──(引退宣言の)撤回を求める声が多かったが?
それ(撤回)はないです。もう自分にできることはやり尽くしました。今の選手たち、これからの世代に託します。
そんな彼の言葉が報じられても尚、SNSでは貴文の現役続行を願う声が止まない。
一方ではるかは、彼の決断を少しずつ受け入れはじめていた。
──いいのいいの。もうじゅうぶん!
あの夜、朗らかに笑った直子の瞳は、わずかに揺れていた。
それが彼と、誰よりも彼のそばにいた彼女にしか知り得ない何かを物語っている気がしたから。
「月城さん大丈夫?正気?」
ノックもなしに楽屋の扉が開けられたと思えば、先輩ミュージシャンが心配そうに尋ねてきた。
“推し”に何かがあればまるで自分のことのように周りから声をかけられるのは、誰かを推している者の宿命でもある。
「おはようございます。日本一よりもそっちが先ですか…」
「いやー、どっちの感情が勝つのかなと思って」
「どっちも“おめでとう”ですよ。ファンにできるのは、推しが決めたことを黙って応援することだけですから…」
「相変わらず漢だねえ、月城さん」
先輩はけらけらと笑って、じゃあまたあとで、と踵を返した。
ところが、ドアノブに伸ばした手を止めて振り返る。
「ねえねえ、えらく情熱的なお花があったけど…やっぱり彼氏?」
「はい…?」
「今日来るの?楽しみー!」
瑛がはるかのライブに姿を現すことはほとんどない。
シーズン中はとてもそんな時間はないし、オフであろうとはるかが丁重にお断りしている。
“ジャズ好き”のイメージが定着している瑛ならジャズライブの場にいても何らおかしくはないのだが、彼がボロを出さないとは思えないのだ。
ただし今日のようにコンサートホールで行われるライブならば、演者が観客と接することもなくボロの出しようがないので、どうしてもと言われたらOKしている。
ところが今日は瑛にも予定があると言っていたし、実際朝早くから家を出ていた。
先輩を見送った後で通路に出てみると、通路にはフラワースタンドやアレンジメントが並んでいた。
自分宛のものは一通り送り主を確認したので、どれも一度見たものだ。
ひとつだけ、異様に目立つ“それ”以外は。
「こ、これは…」
カラフルな楽屋花の中で明らかに浮いている、深い赤色。
12本のバラと白いカスミソウだけのシンプルなアレンジメントは、先ほどは見かけなかったものだった。
「わー、素敵!なになに?誰?」
先輩の“情熱的”という言葉にも頷けるそれを前に、通りかかった他のミュージシャンも声を上げた。
頬が熱くなる。正直かなり恥ずかしい。
「何?暗号…?」
“祝ご出演 月城 はるか様”とお決まりの文字列に添えられていたのは、名前ではなく数字。
今シーズンも本拠地で、時には二軍の地で、そして最後は甲子園で見つめ続けた、瑛の背番号だった。