[Theme 02]4年目編
42
優勝目前で足踏みを重ねた昨シーズンとは対照的に、マジックナンバー点灯後はスムーズに駆け抜けることができた。
「あの場所で、正也が待ってるよ」
最終シリーズへの道を切り開いたその瞬間、千景が言った。
彼が帰れば逆転だった。
「去年の君とは違うって、ちゃんと納得させてよ。じゃないともう、大人しく見守ってなんかやらないから」
瑛の背中を叩いて、千景は去っていく。
──最初から、大人しくなんかしてないくせに。
「走る気だったの知ってますよ!」
とっくに監督を取り囲んで集まっている仲間のもとへ駆け出しながら、千景の背中に叫ぶ。
千景は一度だけ立ち止まって、いつもの笑顔を見せた。
ナイター照明に照らされたその場所は、記憶の中の姿とはあまりに違っていた。
頭上には吸い込まれそうなほど深い暗闇が広がり、浜風はひんやりと冷たい。
それでも目を閉じればすぐに、あの夏の記憶がよみがえる。
目が潰れそうに眩しくて、とにかく死ぬほど暑くて、汗に張り付く黒土が煩わしくて。
よく正気でいられたものだと思う──いや、正気ではなかったのかもしれない。
歓声と、吹奏楽の音と、金属バットの打球音は今でも脳裏に焼き付いて、きっと一生忘れないだろう。
マウンドでは相手ピッチャーが猛威を振るっていた。
レギュラーシーズンでは完全試合も経験し、このシリーズ第一戦でも打ち崩せなかった圧倒的エース。
まるで精密機械のようなコントロールと、ベテランキャッチャーの配球の妙に、ハリアーズ打線はまたしても翻弄されていた。
対する相手打線は、フィールドを取り囲む凄まじい声援の後押しもあってか、序盤に2点を先制。
しかしその後を何とか抑えているのもまた、ベテランキャッチャーである貴文のリードだった。
その貴文が今、打席に向かう。
敵地に駆け付けたファンたちから、期待と祈りを込めた声援が贈られる。
日本一を争う試合で彼の姿を見るのは、今回が最後だ。
「あんたが打つしかねえっすよ、フミさん…!」
瑛の隣で、達史が呟いた。
今のメンバーでは最も長く彼とチームメイトとしての時間を過ごした人物だ。
一際冷たい風が、北東へと吹きすさぶ。
その一撃は、夜空を切り裂く雷光のようだった。
打球は風に逆らい、ライトスタンドへ。
球場全体がどよめき、タッチアップに備えていた佑人も唖然としている。
「は…マジで…?」
静まり返ったベンチでまた、達史が声を漏らす。
それを皮切りに、選手たちは口々に貴文の名を叫んだ。
試合は一気に振り出しへ。
こちらには頼りになるリリーフ陣が控えている。
彼らを信じて攻め続ければ必ず勝機が見えるはずだ。
しかし、それは相手も同じこと。
一体、何の因果だろうか。
同点に並んだ直後のイニングをしっかり抑え、流れは追い風のまま再びハリアーズの攻撃。
そこでマウンドに上がったのは、瑛にとってもはや腐れ縁ともいえるこの男。
『ピッチャー、笹部に替わりまして、高原。8番、ピッチャー、高原。背番号──』
明らかに緊張が滲むその表情は、何年経っても相変わらずで。
しかし腕の振りから、球の勢いから、もうあの頃の正也ではないことを思い知らされるようだった。
中学時代、この男が厳しい状況をあっさりと切り抜けてベンチへ帰っていくのを何度も見てきた。
投手のくせに口も顔もうるさくて集中力も続かない彼がエースナンバーを背負う姿なんて、出会った頃は想像もできなかった。
だけどいつの間にか、その背中を守ることが当たり前になった。
二度も彼とともにこの甲子園のグラウンドに立ち、同じ夏を駆け抜けた。
──日本一を争って元チームメイト対決とか、アツいな…!
今だって、そんなことを思っていそうなのがそのまま表情に出ている。
“アツい”なんて思うには、まだまだお互いプロとしての経験が浅過ぎるだろう。
──なあ、まだまだこれからだろ。
カウント2-2から投げ込まれたのは、あまりに正也らしい真っ直ぐだった。
駆け出した瑛を取り囲む360°の悲鳴と、歓喜。
打球は寒空の下、声を枯らして声援を送ってくれていたハリアーズファンが待つレフトスタンドへ。
より一層力強いトランペットの音がそれに応えた。
気付けば柄にもなく、拳を突き上げていた。
瑛の勝ち越し弾を経て、迎えた9回裏。
貴文が扇の要に座し、マスクを被る。
24年間繰り返してきたその所作を、ハリアーズファンだけでなく球場の全員が、じっと静かに見届けていた。
これで終わらせない、そんな気迫を全身に漲らせたバッターたちを前に、バッテリーは強気だった。
マウンドに立つのは貴文がプロ入りした頃に生まれ、彼に憧れ続けた一人だった若手投手。
クローザーとして目覚ましい成長を遂げた選手だが、このシチュエーションでは力むなと言う方が無理な話だ。
甘く入った球を逃さず捕らえた、痛烈な当たり。
瑛は駆け出し、迷わず地を蹴った。
掴み取った感触とともに、黒土から芝の上へと転がる。
どよめきの中起き上がった、そのグラブにはしっかりと白球を捕らえたままだった。
まずは、ワンナウト。
ガッツポーズで振り返る投手も、これで腹を括ってくれたようだ。
マスク越しに、貴文と視線がぶつかる。
瑛はしっかりと頷いた。
交わされるサインが、鳴り響くミットの音が、一つ一つ“その瞬間”に近付いていく。
また一人、バッターが倒れる。
4番の意地のフルスイングも、ふらふらと勢いのない当たり。
グラブに収めたのは、達史だった。
ホーム球場かと思うほどの歓声の中、試合が終わる。
ベンチから選手やコーチ陣、そして監督が飛び出してくる。
抱擁を交わすバッテリーを、あっという間に取り囲んだ。
達史はセカンドフライを掴んだその場所から、一歩も動いていない。
瑛は駆け寄り、その横顔に息を呑んだ。
「達!」
もみくちゃにされていたはずの貴文が、輪を抜け出して駆けてくる。
黙って涙を流す達史を、力強く抱き締めた。
「ヒノも、ありがとな」
貴文の手が瑛にも伸びて、思い切り頭を掴まれる。
ぐしゃぐしゃと撫で回されて、幼い頃に父親にもこんなふうにされていたことを今になって思い出した。
優勝目前で足踏みを重ねた昨シーズンとは対照的に、マジックナンバー点灯後はスムーズに駆け抜けることができた。
「あの場所で、正也が待ってるよ」
最終シリーズへの道を切り開いたその瞬間、千景が言った。
彼が帰れば逆転だった。
「去年の君とは違うって、ちゃんと納得させてよ。じゃないともう、大人しく見守ってなんかやらないから」
瑛の背中を叩いて、千景は去っていく。
──最初から、大人しくなんかしてないくせに。
「走る気だったの知ってますよ!」
とっくに監督を取り囲んで集まっている仲間のもとへ駆け出しながら、千景の背中に叫ぶ。
千景は一度だけ立ち止まって、いつもの笑顔を見せた。
ナイター照明に照らされたその場所は、記憶の中の姿とはあまりに違っていた。
頭上には吸い込まれそうなほど深い暗闇が広がり、浜風はひんやりと冷たい。
それでも目を閉じればすぐに、あの夏の記憶がよみがえる。
目が潰れそうに眩しくて、とにかく死ぬほど暑くて、汗に張り付く黒土が煩わしくて。
よく正気でいられたものだと思う──いや、正気ではなかったのかもしれない。
歓声と、吹奏楽の音と、金属バットの打球音は今でも脳裏に焼き付いて、きっと一生忘れないだろう。
マウンドでは相手ピッチャーが猛威を振るっていた。
レギュラーシーズンでは完全試合も経験し、このシリーズ第一戦でも打ち崩せなかった圧倒的エース。
まるで精密機械のようなコントロールと、ベテランキャッチャーの配球の妙に、ハリアーズ打線はまたしても翻弄されていた。
対する相手打線は、フィールドを取り囲む凄まじい声援の後押しもあってか、序盤に2点を先制。
しかしその後を何とか抑えているのもまた、ベテランキャッチャーである貴文のリードだった。
その貴文が今、打席に向かう。
敵地に駆け付けたファンたちから、期待と祈りを込めた声援が贈られる。
日本一を争う試合で彼の姿を見るのは、今回が最後だ。
「あんたが打つしかねえっすよ、フミさん…!」
瑛の隣で、達史が呟いた。
今のメンバーでは最も長く彼とチームメイトとしての時間を過ごした人物だ。
一際冷たい風が、北東へと吹きすさぶ。
その一撃は、夜空を切り裂く雷光のようだった。
打球は風に逆らい、ライトスタンドへ。
球場全体がどよめき、タッチアップに備えていた佑人も唖然としている。
「は…マジで…?」
静まり返ったベンチでまた、達史が声を漏らす。
それを皮切りに、選手たちは口々に貴文の名を叫んだ。
試合は一気に振り出しへ。
こちらには頼りになるリリーフ陣が控えている。
彼らを信じて攻め続ければ必ず勝機が見えるはずだ。
しかし、それは相手も同じこと。
一体、何の因果だろうか。
同点に並んだ直後のイニングをしっかり抑え、流れは追い風のまま再びハリアーズの攻撃。
そこでマウンドに上がったのは、瑛にとってもはや腐れ縁ともいえるこの男。
『ピッチャー、笹部に替わりまして、高原。8番、ピッチャー、高原。背番号──』
明らかに緊張が滲むその表情は、何年経っても相変わらずで。
しかし腕の振りから、球の勢いから、もうあの頃の正也ではないことを思い知らされるようだった。
中学時代、この男が厳しい状況をあっさりと切り抜けてベンチへ帰っていくのを何度も見てきた。
投手のくせに口も顔もうるさくて集中力も続かない彼がエースナンバーを背負う姿なんて、出会った頃は想像もできなかった。
だけどいつの間にか、その背中を守ることが当たり前になった。
二度も彼とともにこの甲子園のグラウンドに立ち、同じ夏を駆け抜けた。
──日本一を争って元チームメイト対決とか、アツいな…!
今だって、そんなことを思っていそうなのがそのまま表情に出ている。
“アツい”なんて思うには、まだまだお互いプロとしての経験が浅過ぎるだろう。
──なあ、まだまだこれからだろ。
カウント2-2から投げ込まれたのは、あまりに正也らしい真っ直ぐだった。
駆け出した瑛を取り囲む360°の悲鳴と、歓喜。
打球は寒空の下、声を枯らして声援を送ってくれていたハリアーズファンが待つレフトスタンドへ。
より一層力強いトランペットの音がそれに応えた。
気付けば柄にもなく、拳を突き上げていた。
瑛の勝ち越し弾を経て、迎えた9回裏。
貴文が扇の要に座し、マスクを被る。
24年間繰り返してきたその所作を、ハリアーズファンだけでなく球場の全員が、じっと静かに見届けていた。
これで終わらせない、そんな気迫を全身に漲らせたバッターたちを前に、バッテリーは強気だった。
マウンドに立つのは貴文がプロ入りした頃に生まれ、彼に憧れ続けた一人だった若手投手。
クローザーとして目覚ましい成長を遂げた選手だが、このシチュエーションでは力むなと言う方が無理な話だ。
甘く入った球を逃さず捕らえた、痛烈な当たり。
瑛は駆け出し、迷わず地を蹴った。
掴み取った感触とともに、黒土から芝の上へと転がる。
どよめきの中起き上がった、そのグラブにはしっかりと白球を捕らえたままだった。
まずは、ワンナウト。
ガッツポーズで振り返る投手も、これで腹を括ってくれたようだ。
マスク越しに、貴文と視線がぶつかる。
瑛はしっかりと頷いた。
交わされるサインが、鳴り響くミットの音が、一つ一つ“その瞬間”に近付いていく。
また一人、バッターが倒れる。
4番の意地のフルスイングも、ふらふらと勢いのない当たり。
グラブに収めたのは、達史だった。
ホーム球場かと思うほどの歓声の中、試合が終わる。
ベンチから選手やコーチ陣、そして監督が飛び出してくる。
抱擁を交わすバッテリーを、あっという間に取り囲んだ。
達史はセカンドフライを掴んだその場所から、一歩も動いていない。
瑛は駆け寄り、その横顔に息を呑んだ。
「達!」
もみくちゃにされていたはずの貴文が、輪を抜け出して駆けてくる。
黙って涙を流す達史を、力強く抱き締めた。
「ヒノも、ありがとな」
貴文の手が瑛にも伸びて、思い切り頭を掴まれる。
ぐしゃぐしゃと撫で回されて、幼い頃に父親にもこんなふうにされていたことを今になって思い出した。