[Theme 02]4年目編
40
ぼんやりとした視界の中で、融け出しそうなほど熱い視線が降り注ぐ。
ようやく落ち着いた呼吸を塞ぐように重ねられた唇に、思わず身構えた。
「あの…まだ平気?」
「えっ」
それはやっぱり、そういうことなのか。
はるかが真っ赤な顔で目を白黒させていると、瑛まで視線を泳がせた。
「あ、いや、そうじゃなくて…ちょっと、話したくて」
はるかに覆い被さっていた身体を起こして、瑛は照れくさそうに微笑んだ。
あらぬ勘違いをしてしまったことの恥ずかしさと、ここからそんな展開になることへの驚きとで、余計にあたふたしてしまう。
それでもはるかは何とか気を取り直して、瑛を見た。
「とりあえず、服を着てもいいですか…!」
「別にそのままでもいいけど」
「瑛くんも着てね」
お互い元通りに服を着ても、乱れたシーツや火照った身体はそのままで、とても改まった話をするような空気ではない。
だけど瑛は何も気にならないようで、ヘッドボードに背中を預けて座るはるかの隣に並び、足元に布団をかけてくれた。
「今日、来てくれてありがと」
「えっ、うん。こちらこそ贅沢な席をどうも…?」
「はは。周り誰かいた?」
「ううん。見かけてないだけかもだけど」
瑛の手がはるかの手に重なって、ぎゅっと絡められた。
親指が手の甲を撫でるのは無意識だろうか。
「打ててよかった。マジで」
それはひどく安堵したような声だった。
「ほんとにホームラン増えたよね。スイングスピードとパワーが段違い。それで守備の動きも良くなってるんだから、意味が分からない…」
「まあ、筋力もあるけど身体の使い方かな。今日のはゴリ押しだったけど」
ふいに、顔を覗き込まれる。
はるかが首を傾げると、瑛は笑った。
「はるかにはもらってばっかだから、何か一つでも返してやりたくて」
スタンドライトのほのかな灯りに照らされたその表情は、いつもよりやわらかく見えた。
「わたしが、瑛くんに…?」
「うん。もらってばっかだし、してやられてばっか。たまにははるかのことも驚かせてやりたかったんだよ」
瑛はおもむろに顔を上げて、今度ははるかの頭の上にそれを預けてきた。
その重みが不思議と心地いい。
「はるか」
ぽつり、と名前を呼ぶ声。
「はるかは、“家族”を知らないから…怖いって、言ったよな」
それは瑛がプロポーズをしてくれた日、はるかが語った言葉。
ずっと昔から胸の奥に根を張ったままの葛藤。
「俺も、ずっと父さんと二人で育って。だけど俺は、それを何か特別なことだと思ったことはないし、寂しいと思うこともなかった。それは、はるかがいてくれたからなんだと思う」
穏やかな声で囁かれたはずの言葉が、鋭く胸に刺さった。
まるで自分の業が浮き彫りになっていくようで。
「出会った時からずっと、俺ははるかに守られ続けてきたんだ。俺のことで心を動かしてくれて、俺のことずっと見ていてくれて…それに俺は、何一つ返せていなかった」
「それは…」
「そうなんだよ。俺はいつまでも、自分のことで精一杯なまんまだよな…ホントに。一年間見てろよなんて言っといて、二軍落ちするし」
力なく自嘲する瑛に、また胸が痛む。
それだって本当は、自分のせいかもしれないから。
「だからこれから、たくさん返していきたい。はるかのこと、ちゃんと守ってやりたい。だから…はるかが心の中に抱え込んでること、教えて欲しいんだ」
じわりと、視界が滲んだ。
ダメだ、ここで泣くなんて。
自分が泣くのは違う。
「返すだなんて…それはわたしが、勝手に押し付けてきたものだから」
「ん…?」
「本当に瑛くんのことを思うなら、瑛くんが望むままにずっとそばにいることは、間違っていたのかもしれない」
瑛が身じろぎをして、またはるかの顔を覗き込んできた。
今は見ないで欲しい。そんな、真っ直ぐな瞳で。
「…あの頃、瑛くんに出会ったのがわたしじゃなくて…もっと普通の子だったら。瑛くんの未来はもっと違っていたかもしれないって思うんだ」
「何言って…」
「でも、思うだけなんだ。やっぱり」
ぐらぐらと揺れる視界の中に、瑛だけがいる。
それがどうしようもなく嬉しくて、そんな自分が情けない。
「自分が正しかったのか間違っていたのか、そんなこといくら考えても…わたしの気持ちは、なんにも変わらないの」
瞬きをしたら、堪えていた涙があふれてしまった。
「瑛くんのそばにいたいよ。あの頃から、ずっと。これから先も…わたしだけが、瑛くんのそばにいたい」
熱い指先が頬に触れる。
人生の半分以上、バットを振って白球を放ってきた指先。
こんな自分を求めてくれる指先。
「だから、わたしは…」
「うん」
その指先をそっと引き寄せて、両手で包み込んだ。
心の奥によみがえったのは、数時間前、月のもとまで響き渡ったあの音。
「腹を括ろうと思います」
目の前で、は、と短い息が漏れた。
「出会ったのがわたしじゃなければ、なんて考えたって、もうここには瑛くんとわたしが出会った世界線しかありません」
「そうだな…」
「その結果、瑛くんがわたしをそばに置いてくれて、これからも一緒にいたいと思ってくれるなら…わたしは責任持って瑛くんのことを幸せにするしかないんじゃないかって」
瑛は目を丸くしたまま、じっとはるかを見つめている。
「きっと考えても仕方のないことをぐるぐる考えていたのは、覚悟が足りなかったんだと思う。“ふさわしさ”とかも…自分じゃない何かになろうとして、逃げていたんだとも思う」
世間一般がどうとか。他の選手の奥さんがどうとか。
そんなことより瑛自身の望むものは何なのかを、考えるべきだったのに。
「だからわたしは瑛くんを、全力で幸せにします…!」
出会いが間違いだったかもしれないならば、これから正解にしていけるように。
繋いだ指先に力を込めて、瑛を見つめた。
唖然としていた瑛の顔が、くしゃりと緩む。
「お前さ…それ、プロポーズ?」
「えっ!ちが、わない…?でもこんな、ベッドで…やっぱり違います!!」
「マジでもー…はるかは男前過ぎんの。俺がいつまで経っても情けねーの、はるかのせい?」
「わ…っ」
繋いでいた手が引かれて、瑛の胸に倒れ込んでしまう。
力強い腕にしっかりと抱き留められた。
「腹括ってくれんのは有難いけど、無理はすんなよ」
「ええと…」
「悩んでること、無理やり押し殺したりしなくていい。ちゃんと解決していこう。ふたりで」
もぞもぞと見上げれば、少し不機嫌そうに眉を寄せた顔が見下ろしていた。
「プロポーズ上書きされたら、俺失敗のまま終わり?」
「今のは承諾されたの…?」
「当たり前だろ。もうずっと幸せなんだから、俺は」
止まったはずの涙が、また込み上げてきそうだった。
「あれ、これってもしかしてもう言っていいやつ…?」
「え?」
「はるかとのこと。世の中に」
瞳を輝かせて言う瑛に、瞬きをする。
「…約束したでしょ。日本一になって、監督胴上げしてからね」
けじめは大事だと思うから。
自分にとっても、瑛にとっても。
「くそ…余計な事言わなきゃよかった…」
「“日本一の遊撃手”の奥さんって、いいな。名乗りたいな」
「お前なあ」
噛み付くような口付けが降ってきた。
どさくさに紛れてシャツの中へ滑り込もうとした手をやんわりと押し返す。
「もうこんな時間ですからね」
「ん…」
「ちなみに、なんでこんなタイミングでこの話を…?」
気になっていたことを口にすると、瑛はあっけらかんと答えた。
「その方が、はるかも思ったことそのまま話しやすいかなって」
「スパイの手法…!」
思わぬ策略に仰け反ってしまったけれど、それだけ普段の自分は言葉足らずだったということかもしれない。
──見習わなきゃなあ、瑛くんのこと。
ずるずると布団に潜り込めば、瑛も追いかけるように擦り寄ってきた。
その顔がとてもやさしくて、少しだけ目を閉じるのが惜しい気がした。
ぼんやりとした視界の中で、融け出しそうなほど熱い視線が降り注ぐ。
ようやく落ち着いた呼吸を塞ぐように重ねられた唇に、思わず身構えた。
「あの…まだ平気?」
「えっ」
それはやっぱり、そういうことなのか。
はるかが真っ赤な顔で目を白黒させていると、瑛まで視線を泳がせた。
「あ、いや、そうじゃなくて…ちょっと、話したくて」
はるかに覆い被さっていた身体を起こして、瑛は照れくさそうに微笑んだ。
あらぬ勘違いをしてしまったことの恥ずかしさと、ここからそんな展開になることへの驚きとで、余計にあたふたしてしまう。
それでもはるかは何とか気を取り直して、瑛を見た。
「とりあえず、服を着てもいいですか…!」
「別にそのままでもいいけど」
「瑛くんも着てね」
お互い元通りに服を着ても、乱れたシーツや火照った身体はそのままで、とても改まった話をするような空気ではない。
だけど瑛は何も気にならないようで、ヘッドボードに背中を預けて座るはるかの隣に並び、足元に布団をかけてくれた。
「今日、来てくれてありがと」
「えっ、うん。こちらこそ贅沢な席をどうも…?」
「はは。周り誰かいた?」
「ううん。見かけてないだけかもだけど」
瑛の手がはるかの手に重なって、ぎゅっと絡められた。
親指が手の甲を撫でるのは無意識だろうか。
「打ててよかった。マジで」
それはひどく安堵したような声だった。
「ほんとにホームラン増えたよね。スイングスピードとパワーが段違い。それで守備の動きも良くなってるんだから、意味が分からない…」
「まあ、筋力もあるけど身体の使い方かな。今日のはゴリ押しだったけど」
ふいに、顔を覗き込まれる。
はるかが首を傾げると、瑛は笑った。
「はるかにはもらってばっかだから、何か一つでも返してやりたくて」
スタンドライトのほのかな灯りに照らされたその表情は、いつもよりやわらかく見えた。
「わたしが、瑛くんに…?」
「うん。もらってばっかだし、してやられてばっか。たまにははるかのことも驚かせてやりたかったんだよ」
瑛はおもむろに顔を上げて、今度ははるかの頭の上にそれを預けてきた。
その重みが不思議と心地いい。
「はるか」
ぽつり、と名前を呼ぶ声。
「はるかは、“家族”を知らないから…怖いって、言ったよな」
それは瑛がプロポーズをしてくれた日、はるかが語った言葉。
ずっと昔から胸の奥に根を張ったままの葛藤。
「俺も、ずっと父さんと二人で育って。だけど俺は、それを何か特別なことだと思ったことはないし、寂しいと思うこともなかった。それは、はるかがいてくれたからなんだと思う」
穏やかな声で囁かれたはずの言葉が、鋭く胸に刺さった。
まるで自分の業が浮き彫りになっていくようで。
「出会った時からずっと、俺ははるかに守られ続けてきたんだ。俺のことで心を動かしてくれて、俺のことずっと見ていてくれて…それに俺は、何一つ返せていなかった」
「それは…」
「そうなんだよ。俺はいつまでも、自分のことで精一杯なまんまだよな…ホントに。一年間見てろよなんて言っといて、二軍落ちするし」
力なく自嘲する瑛に、また胸が痛む。
それだって本当は、自分のせいかもしれないから。
「だからこれから、たくさん返していきたい。はるかのこと、ちゃんと守ってやりたい。だから…はるかが心の中に抱え込んでること、教えて欲しいんだ」
じわりと、視界が滲んだ。
ダメだ、ここで泣くなんて。
自分が泣くのは違う。
「返すだなんて…それはわたしが、勝手に押し付けてきたものだから」
「ん…?」
「本当に瑛くんのことを思うなら、瑛くんが望むままにずっとそばにいることは、間違っていたのかもしれない」
瑛が身じろぎをして、またはるかの顔を覗き込んできた。
今は見ないで欲しい。そんな、真っ直ぐな瞳で。
「…あの頃、瑛くんに出会ったのがわたしじゃなくて…もっと普通の子だったら。瑛くんの未来はもっと違っていたかもしれないって思うんだ」
「何言って…」
「でも、思うだけなんだ。やっぱり」
ぐらぐらと揺れる視界の中に、瑛だけがいる。
それがどうしようもなく嬉しくて、そんな自分が情けない。
「自分が正しかったのか間違っていたのか、そんなこといくら考えても…わたしの気持ちは、なんにも変わらないの」
瞬きをしたら、堪えていた涙があふれてしまった。
「瑛くんのそばにいたいよ。あの頃から、ずっと。これから先も…わたしだけが、瑛くんのそばにいたい」
熱い指先が頬に触れる。
人生の半分以上、バットを振って白球を放ってきた指先。
こんな自分を求めてくれる指先。
「だから、わたしは…」
「うん」
その指先をそっと引き寄せて、両手で包み込んだ。
心の奥によみがえったのは、数時間前、月のもとまで響き渡ったあの音。
「腹を括ろうと思います」
目の前で、は、と短い息が漏れた。
「出会ったのがわたしじゃなければ、なんて考えたって、もうここには瑛くんとわたしが出会った世界線しかありません」
「そうだな…」
「その結果、瑛くんがわたしをそばに置いてくれて、これからも一緒にいたいと思ってくれるなら…わたしは責任持って瑛くんのことを幸せにするしかないんじゃないかって」
瑛は目を丸くしたまま、じっとはるかを見つめている。
「きっと考えても仕方のないことをぐるぐる考えていたのは、覚悟が足りなかったんだと思う。“ふさわしさ”とかも…自分じゃない何かになろうとして、逃げていたんだとも思う」
世間一般がどうとか。他の選手の奥さんがどうとか。
そんなことより瑛自身の望むものは何なのかを、考えるべきだったのに。
「だからわたしは瑛くんを、全力で幸せにします…!」
出会いが間違いだったかもしれないならば、これから正解にしていけるように。
繋いだ指先に力を込めて、瑛を見つめた。
唖然としていた瑛の顔が、くしゃりと緩む。
「お前さ…それ、プロポーズ?」
「えっ!ちが、わない…?でもこんな、ベッドで…やっぱり違います!!」
「マジでもー…はるかは男前過ぎんの。俺がいつまで経っても情けねーの、はるかのせい?」
「わ…っ」
繋いでいた手が引かれて、瑛の胸に倒れ込んでしまう。
力強い腕にしっかりと抱き留められた。
「腹括ってくれんのは有難いけど、無理はすんなよ」
「ええと…」
「悩んでること、無理やり押し殺したりしなくていい。ちゃんと解決していこう。ふたりで」
もぞもぞと見上げれば、少し不機嫌そうに眉を寄せた顔が見下ろしていた。
「プロポーズ上書きされたら、俺失敗のまま終わり?」
「今のは承諾されたの…?」
「当たり前だろ。もうずっと幸せなんだから、俺は」
止まったはずの涙が、また込み上げてきそうだった。
「あれ、これってもしかしてもう言っていいやつ…?」
「え?」
「はるかとのこと。世の中に」
瞳を輝かせて言う瑛に、瞬きをする。
「…約束したでしょ。日本一になって、監督胴上げしてからね」
けじめは大事だと思うから。
自分にとっても、瑛にとっても。
「くそ…余計な事言わなきゃよかった…」
「“日本一の遊撃手”の奥さんって、いいな。名乗りたいな」
「お前なあ」
噛み付くような口付けが降ってきた。
どさくさに紛れてシャツの中へ滑り込もうとした手をやんわりと押し返す。
「もうこんな時間ですからね」
「ん…」
「ちなみに、なんでこんなタイミングでこの話を…?」
気になっていたことを口にすると、瑛はあっけらかんと答えた。
「その方が、はるかも思ったことそのまま話しやすいかなって」
「スパイの手法…!」
思わぬ策略に仰け反ってしまったけれど、それだけ普段の自分は言葉足らずだったということかもしれない。
──見習わなきゃなあ、瑛くんのこと。
ずるずると布団に潜り込めば、瑛も追いかけるように擦り寄ってきた。
その顔がとてもやさしくて、少しだけ目を閉じるのが惜しい気がした。