[Theme 02]4年目編
38
「はっきり申し上げますが、ものすごく怒っております…!」
ブラックアウトした配信画面の向こう側。
東峰某所の居酒屋の個室は、配信中とは打って変わって静まり返っていた。
「そ、そのようですね…!」
「瑛くんにも、みんなにも、何かあったらどうするんですか!?しかも、企業さんの案件で…!」
「えっ!?そっちっすか?」
「いきなり不審な女がしゃしゃり出てきて、嫌な思いしたファンの方がいっぱいいると思います!」
はるかはわなわなと拳を握って、四人を見回した。
「分かってたら、絶対来なかったのに!」
「うん、ごめん。だから内緒で呼び出したんだ」
「悪質…!」
「それと、予定よりはるかちゃんの情報出しちゃったのもごめん。ねえ、正也?」
「ヒイ…!すいません!マジで申し訳ありません!!」
テーブルに頭をぶつけそうな勢いで頭を下げる正也に、肩をすくめる。
「もう…拓真君までどうしてこんな…」
「悪い。SNSとか、そういうのに疎くて…正直今何が行われたのかよく分かってない」
「ええ…」
拓真までどことなくしゅんとした雰囲気を見せるので、はるかはそれ以上怒る気をなくしてしまった。
事の重大さを考えると、もっと本気で文句を言った方がいいのかもしれないけれど。
「まあ瑛先輩は“巻き込まれキャラ”としてお馴染みなので、月城さんが心配するほどのダメージはないと思います。悪く思う人がいたとして、高校時代の青春エピソードに目くじら立てるようじゃ大人気ないというか」
「後からそれが彼女だったって知ったら、“何を見せられてたんだ”ってなるでしょ…」
「知られる予定があるんですか?」
真正面にいる冬真からの鋭い問いかけに、息を呑む。
頭を下げたままだった正也も、ゆるゆるとはるかを見た。
両脇から拓真と千景の視線も感じる。
「や、その…もしもバレちゃったら…?」
「“バレる”だけですか?おふたりの口から公表する可能性は?」
「え…っ」
形勢逆転。
今度ははるかが縮こまって、乾いた笑いを浮かべた。
「すいません、月城さんを責める意図はありません。事情は、瑛先輩から聞いてます」
「あ、そ…そうなんだ…?」
「そうだよ。どっちかっていうと、僕らはるかちゃんの味方だから安心して」
「それもそれで…」
けらけらと笑う千景にどこかほっとしつつも、胸のざわめきはそのまま。
自分にとってだけでなく、彼らにとっても大切な仲間である瑛に対して、ひどいことをしている自覚はあったから。
「でも、それと同時に…なんだかんだであいつがかわいい後輩っていうのも、ホントなんだよね。今の立場じゃ、“先輩”だけど」
だからその言葉は鈍い痛みを伴って、胸に突き刺さった。
「ねえ、はるかちゃん」
それなのに、自分を呼ぶ千景の声の、なんてやさしいことだろうか。
「僕、言ったよね。卒業式の日──君を好きでいて、僕は幸せだったって」
時が止まって、するすると巻き戻っていった。
図書室の倉庫で、突然告げられた千景の気持ち。
その深さと強さに、いつだって凪いだ海のようだったその瞳が、小さく揺れるのを見つめることしかできなかったあの日。
あの日のようにはるかは呆然と目を見開いて、それは他の三人も同じだった。
当然だろう、思いもしないタイミングでこんな事実を知らされたのだから。
「君はきっと僕以外にも、たくさんの人を幸せにしてきたはずだよ。鷺嶋野球部の連中だってそう。吹部の子たちにもずいぶん慕われてたよね。それに今はこんなに立派なピアニストになって、はるかちゃん自身も知らない誰かの心を動かしてるだろうね」
そんなことはない、なんてセリフは口にできなかった。
それもあの時と同じ。
「そんな君のそばにいられる瑛は、この世で一番の幸せ者だよ。心の底から羨ましいくらい」
ふと背中があたたかくなって、千景に触れられているんだと気付いた。
「だからそろそろ、はるかちゃんも幸せになっていいと思わない?」
す、と細められた瞳も、あの時と同じように揺らいでいて。
「ていうか、なってもらわないと困るな。君が泣いてると、集中できない」
「えっ」
「君たちもそうでしょ?」
急に視線を向けられて、各々少しうろたえながらも、やがてしっかりと頷く。
正也に至っては首がもげそうな勢いだ。何をするにも勢いがすごい。
「“月城先輩のおかげ”って、全然社交辞令とかじゃないっすから。俺の話も聞いてくれたし、涼のヤツも頭上がんねえなって言ってました。あいつ、あれからちゃんとお礼言いました!?」
「え、いや、特には…」
「マジか!あのヤロー、今度絶対連れてきます!」
「僕も、瑛先輩と親しくなれたのは、月城さんのおかげだと思ってます。あと、今後活用したいネタがあるのでそろそろ公になってもらえると助かります」
「ネタ…?」
あたふたとするはるかを眺める四人は皆、どこかあたたかい表情で。
あの夏からずいぶん大人になったんだなと思うのに、そこに寂しさはなくて。
自分もいい加減、大人にならなきゃいけないのかもしれない。
いろいろと激動だった会もお開きとなり、店先に出るとじっとりとした熱気が肌に纏わりついた。
今夜も熱帯夜になりそうだ。
SNS用にと四人の写真を撮ってあげた後、はるかも入らないかと言われたが丁重にお断りしておいた。
複数の球団ファンから恨みを買うようなことはしたくない。はるかだってプロ野球をこよなく愛するひとりなのだから。
拓真と冬真は自宅に帰り、正也は友人宅に泊まるという。
はるかと千景は、同じ沿線にホテルをとっているようだった。
「送るよ」
「それは危険では…!」
「瑛にも連絡入れといた。ひとりで帰らせるよりはマシって許してもらえたよ」
「瑛くん…」
「そういうことだから、行こうか」
ここは眠らない街で、電車も動いているような時間だ。
野球選手と二人で歩いている方がよっぽどいろんな意味で危険な気はするが、拒否権はないようだ。
はるかの周りの選手たちはどうにも強引な気がする。そうでもなければ勝負の世界で生き残っていけないのかもしれないけれど。
「クラスメイトとか、会ったりする?」
「杏里ちゃんなら、何回か。一度アメリカにも遊びに来てくれたよ」
「へえ。さすがだね」
「でも今年社会人になって、ものすごく忙しそう」
「ああ、そうか。もうそういう歳なんだね、僕たち」
杏里と同じで昨年まで大学に通っていた千景がそんなふうに言うのは、些か違和感があった。
だけどあくまで野球を生活の中心にしていた彼にとっては、同じ4年間でも就職していった同級生とは違う時間軸に感じるのかもしれない。
「3年で出たんだっけ、はるかちゃんは」
「うん。追い出されちゃった」
「あはは。楽しかった?向こうの大学は」
「うーん、そうだね。すごいミュージシャンがいくらでもいる中で自分の場所を見つけていくのは…大変だけど、楽しかった。そう思うよ」
結局その場所はアメリカでも日本のどこかでもなくて、たったひとりの隣だったわけだけど。
「でも…ほんとにそこにいていいのか、わかんない。そもそもそこは、ほんとにわたしの場所だったのか…」
無意識にそんなことを口走ってしまったのは、知らず知らずのうちに酔っていたということなのだろうか。
出先ではいつも一、二杯にしているのだけど。
「それは…なんとなく、野球のポジションに似てるかもね」
「え?」
見上げれば、千景は涼やかに微笑んでいた。
高校時代にも何度も見た笑顔だった。
「ユーティリティもいるけど、ここでは置いといて。例えば僕はセンターだけど、球団には当然僕以外にもセンターを守れるやつはいるよね」
「そうだね…」
アマチュアでもプロでも、よっぽどチームメイトが少なくない限り、野球には常にポジション争いが付き物だ。
プロの球団ともなれば、その戦いはかなり熾烈になる。
「今だってほとんどの試合でそこを守るのは、別の選手だよ。僕はそのポジションをなんとか奪えるように必死こいてる。そして僕がそこに辿り着いた時、その選手はそこから弾き出されることになるよね」
「うん…」
「そしてもちろん、僕がダメになったら、また別の選手がやってくる。だからさ、センターっていう場所は誰のものでもないとも言えるし、その時守ってる選手のものとも言える。少なくとも監督が“そこにいろ”っていう限りは、自分だけにその場所に立つ権利があるし、そこに必死でしがみつくしかない。はるかちゃんには、何を今更ってかんじかな?」
千景の言う通り、それははるかもよく分かっていることだけど。
「はるかちゃんも、たくさん悩んで頑張って、“その場所”を見つけて。でもそれは、本当は誰のものでもないのかもしれない。だけどはるかちゃんがそこにいる限りは、はるかちゃんだけのものだよ」
それが今のはるかの葛藤に重なっていくのは、予想だにしない発想だった。
「野球と違うのは、“その場所”もはるかちゃんに“ここにいて欲しい”って思ってるってこと。それから…そこにいていいかどうかを決めるのは監督みたいな第三者じゃなくて、はるかちゃん自身ってこと」
足を止めると、自転車が突っ込んで来た。
咄嗟に避けた身体がよろけて、千景の背中にぶつかる。
そこは少し汗ばんで、シャツが貼り付いていた。
「大丈夫?ごめん、気持ち悪かったでしょ」
「ううん!わたしの方がごめん!えっと、その…」
「ふふ。なんかぶった切られちゃったね」
千景はあの頃と変わらない微笑みに、照れくさそうな色を滲ませた。
「やっぱり、ポジションに例えるのは違うかも」
「ええ…」
「だって“その場所”ははるかちゃん以外、守れる人いないよ」
感情の読めない人だな、と思った。
はじめは勝負の世界とは縁遠いようにすら見えた、凪のような空気感。
そうではなくて今は、あまりにいろいろな感情が混ざり合っているように見えて、うまく読み取れなかった。
「ねえ。あの時言えなかったこと、今言わせてよ」
「うん…?」
「はるかちゃんも、頑張って」
千景の言葉はホテルの部屋に帰ってもまだ、しばらく頭の中をぐるぐると漂っていた。
「はっきり申し上げますが、ものすごく怒っております…!」
ブラックアウトした配信画面の向こう側。
東峰某所の居酒屋の個室は、配信中とは打って変わって静まり返っていた。
「そ、そのようですね…!」
「瑛くんにも、みんなにも、何かあったらどうするんですか!?しかも、企業さんの案件で…!」
「えっ!?そっちっすか?」
「いきなり不審な女がしゃしゃり出てきて、嫌な思いしたファンの方がいっぱいいると思います!」
はるかはわなわなと拳を握って、四人を見回した。
「分かってたら、絶対来なかったのに!」
「うん、ごめん。だから内緒で呼び出したんだ」
「悪質…!」
「それと、予定よりはるかちゃんの情報出しちゃったのもごめん。ねえ、正也?」
「ヒイ…!すいません!マジで申し訳ありません!!」
テーブルに頭をぶつけそうな勢いで頭を下げる正也に、肩をすくめる。
「もう…拓真君までどうしてこんな…」
「悪い。SNSとか、そういうのに疎くて…正直今何が行われたのかよく分かってない」
「ええ…」
拓真までどことなくしゅんとした雰囲気を見せるので、はるかはそれ以上怒る気をなくしてしまった。
事の重大さを考えると、もっと本気で文句を言った方がいいのかもしれないけれど。
「まあ瑛先輩は“巻き込まれキャラ”としてお馴染みなので、月城さんが心配するほどのダメージはないと思います。悪く思う人がいたとして、高校時代の青春エピソードに目くじら立てるようじゃ大人気ないというか」
「後からそれが彼女だったって知ったら、“何を見せられてたんだ”ってなるでしょ…」
「知られる予定があるんですか?」
真正面にいる冬真からの鋭い問いかけに、息を呑む。
頭を下げたままだった正也も、ゆるゆるとはるかを見た。
両脇から拓真と千景の視線も感じる。
「や、その…もしもバレちゃったら…?」
「“バレる”だけですか?おふたりの口から公表する可能性は?」
「え…っ」
形勢逆転。
今度ははるかが縮こまって、乾いた笑いを浮かべた。
「すいません、月城さんを責める意図はありません。事情は、瑛先輩から聞いてます」
「あ、そ…そうなんだ…?」
「そうだよ。どっちかっていうと、僕らはるかちゃんの味方だから安心して」
「それもそれで…」
けらけらと笑う千景にどこかほっとしつつも、胸のざわめきはそのまま。
自分にとってだけでなく、彼らにとっても大切な仲間である瑛に対して、ひどいことをしている自覚はあったから。
「でも、それと同時に…なんだかんだであいつがかわいい後輩っていうのも、ホントなんだよね。今の立場じゃ、“先輩”だけど」
だからその言葉は鈍い痛みを伴って、胸に突き刺さった。
「ねえ、はるかちゃん」
それなのに、自分を呼ぶ千景の声の、なんてやさしいことだろうか。
「僕、言ったよね。卒業式の日──君を好きでいて、僕は幸せだったって」
時が止まって、するすると巻き戻っていった。
図書室の倉庫で、突然告げられた千景の気持ち。
その深さと強さに、いつだって凪いだ海のようだったその瞳が、小さく揺れるのを見つめることしかできなかったあの日。
あの日のようにはるかは呆然と目を見開いて、それは他の三人も同じだった。
当然だろう、思いもしないタイミングでこんな事実を知らされたのだから。
「君はきっと僕以外にも、たくさんの人を幸せにしてきたはずだよ。鷺嶋野球部の連中だってそう。吹部の子たちにもずいぶん慕われてたよね。それに今はこんなに立派なピアニストになって、はるかちゃん自身も知らない誰かの心を動かしてるだろうね」
そんなことはない、なんてセリフは口にできなかった。
それもあの時と同じ。
「そんな君のそばにいられる瑛は、この世で一番の幸せ者だよ。心の底から羨ましいくらい」
ふと背中があたたかくなって、千景に触れられているんだと気付いた。
「だからそろそろ、はるかちゃんも幸せになっていいと思わない?」
す、と細められた瞳も、あの時と同じように揺らいでいて。
「ていうか、なってもらわないと困るな。君が泣いてると、集中できない」
「えっ」
「君たちもそうでしょ?」
急に視線を向けられて、各々少しうろたえながらも、やがてしっかりと頷く。
正也に至っては首がもげそうな勢いだ。何をするにも勢いがすごい。
「“月城先輩のおかげ”って、全然社交辞令とかじゃないっすから。俺の話も聞いてくれたし、涼のヤツも頭上がんねえなって言ってました。あいつ、あれからちゃんとお礼言いました!?」
「え、いや、特には…」
「マジか!あのヤロー、今度絶対連れてきます!」
「僕も、瑛先輩と親しくなれたのは、月城さんのおかげだと思ってます。あと、今後活用したいネタがあるのでそろそろ公になってもらえると助かります」
「ネタ…?」
あたふたとするはるかを眺める四人は皆、どこかあたたかい表情で。
あの夏からずいぶん大人になったんだなと思うのに、そこに寂しさはなくて。
自分もいい加減、大人にならなきゃいけないのかもしれない。
いろいろと激動だった会もお開きとなり、店先に出るとじっとりとした熱気が肌に纏わりついた。
今夜も熱帯夜になりそうだ。
SNS用にと四人の写真を撮ってあげた後、はるかも入らないかと言われたが丁重にお断りしておいた。
複数の球団ファンから恨みを買うようなことはしたくない。はるかだってプロ野球をこよなく愛するひとりなのだから。
拓真と冬真は自宅に帰り、正也は友人宅に泊まるという。
はるかと千景は、同じ沿線にホテルをとっているようだった。
「送るよ」
「それは危険では…!」
「瑛にも連絡入れといた。ひとりで帰らせるよりはマシって許してもらえたよ」
「瑛くん…」
「そういうことだから、行こうか」
ここは眠らない街で、電車も動いているような時間だ。
野球選手と二人で歩いている方がよっぽどいろんな意味で危険な気はするが、拒否権はないようだ。
はるかの周りの選手たちはどうにも強引な気がする。そうでもなければ勝負の世界で生き残っていけないのかもしれないけれど。
「クラスメイトとか、会ったりする?」
「杏里ちゃんなら、何回か。一度アメリカにも遊びに来てくれたよ」
「へえ。さすがだね」
「でも今年社会人になって、ものすごく忙しそう」
「ああ、そうか。もうそういう歳なんだね、僕たち」
杏里と同じで昨年まで大学に通っていた千景がそんなふうに言うのは、些か違和感があった。
だけどあくまで野球を生活の中心にしていた彼にとっては、同じ4年間でも就職していった同級生とは違う時間軸に感じるのかもしれない。
「3年で出たんだっけ、はるかちゃんは」
「うん。追い出されちゃった」
「あはは。楽しかった?向こうの大学は」
「うーん、そうだね。すごいミュージシャンがいくらでもいる中で自分の場所を見つけていくのは…大変だけど、楽しかった。そう思うよ」
結局その場所はアメリカでも日本のどこかでもなくて、たったひとりの隣だったわけだけど。
「でも…ほんとにそこにいていいのか、わかんない。そもそもそこは、ほんとにわたしの場所だったのか…」
無意識にそんなことを口走ってしまったのは、知らず知らずのうちに酔っていたということなのだろうか。
出先ではいつも一、二杯にしているのだけど。
「それは…なんとなく、野球のポジションに似てるかもね」
「え?」
見上げれば、千景は涼やかに微笑んでいた。
高校時代にも何度も見た笑顔だった。
「ユーティリティもいるけど、ここでは置いといて。例えば僕はセンターだけど、球団には当然僕以外にもセンターを守れるやつはいるよね」
「そうだね…」
アマチュアでもプロでも、よっぽどチームメイトが少なくない限り、野球には常にポジション争いが付き物だ。
プロの球団ともなれば、その戦いはかなり熾烈になる。
「今だってほとんどの試合でそこを守るのは、別の選手だよ。僕はそのポジションをなんとか奪えるように必死こいてる。そして僕がそこに辿り着いた時、その選手はそこから弾き出されることになるよね」
「うん…」
「そしてもちろん、僕がダメになったら、また別の選手がやってくる。だからさ、センターっていう場所は誰のものでもないとも言えるし、その時守ってる選手のものとも言える。少なくとも監督が“そこにいろ”っていう限りは、自分だけにその場所に立つ権利があるし、そこに必死でしがみつくしかない。はるかちゃんには、何を今更ってかんじかな?」
千景の言う通り、それははるかもよく分かっていることだけど。
「はるかちゃんも、たくさん悩んで頑張って、“その場所”を見つけて。でもそれは、本当は誰のものでもないのかもしれない。だけどはるかちゃんがそこにいる限りは、はるかちゃんだけのものだよ」
それが今のはるかの葛藤に重なっていくのは、予想だにしない発想だった。
「野球と違うのは、“その場所”もはるかちゃんに“ここにいて欲しい”って思ってるってこと。それから…そこにいていいかどうかを決めるのは監督みたいな第三者じゃなくて、はるかちゃん自身ってこと」
足を止めると、自転車が突っ込んで来た。
咄嗟に避けた身体がよろけて、千景の背中にぶつかる。
そこは少し汗ばんで、シャツが貼り付いていた。
「大丈夫?ごめん、気持ち悪かったでしょ」
「ううん!わたしの方がごめん!えっと、その…」
「ふふ。なんかぶった切られちゃったね」
千景はあの頃と変わらない微笑みに、照れくさそうな色を滲ませた。
「やっぱり、ポジションに例えるのは違うかも」
「ええ…」
「だって“その場所”ははるかちゃん以外、守れる人いないよ」
感情の読めない人だな、と思った。
はじめは勝負の世界とは縁遠いようにすら見えた、凪のような空気感。
そうではなくて今は、あまりにいろいろな感情が混ざり合っているように見えて、うまく読み取れなかった。
「ねえ。あの時言えなかったこと、今言わせてよ」
「うん…?」
「はるかちゃんも、頑張って」
千景の言葉はホテルの部屋に帰ってもまだ、しばらく頭の中をぐるぐると漂っていた。
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【ユーティリティ】さまざまなポジションを守ることのできる選手。