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[Theme 02]4年目編

36

二度目に目覚めた時、起き上がろうと身じろぎしたはるかを咎めるような唸り声に、笑みがこぼれた。

あれから電池が切れたようにぱたりと眠ってしまった瑛の腕は、無意識とは思えない力ではるかを捕らえている。
それでも起きている時よりは何とか太刀打ちできそうだったので、無理な力を加えないよう慎重に解いてそこから抜け出す。
ふと悪戯心が芽生えて、元通りにした腕の中に、変わり身のように枕を差し込んでおいた。



リビングでテレビをつけると、いきなり貴文の姿が映し出されて声を上げそうになった。
それは昨夜、持ち前の強肩で盗塁を阻止したシーン。
捕球から送球への目にも止まらぬモーションも、待ち構えるグラブまで一直線の軌道も、もはや芸術。
彼が40歳を超えていることも、今シーズン限りで引退してしまうことも、見れば見るほど信じられない。
攻守で痺れるプレーを放つ度、SNSでは引退撤回を願う声が相次いでいる。

「おい」

リビングの扉を開けた瑛は、とてつもなく不機嫌な顔を覗かせていた。
拓真と千景の対決を観ていたあの時のようだ。

「ふふ。おはよう」
「こんなんで俺のこと騙して何やってんの?」

ぽふ、と押し付けられたのは、先ほど瑛の腕の中に残してきた枕。
わざわざ持ってきたのがおかしくて、また笑ってしまう。

「瑛くんの見事なベースカバーを見てました」
「…それはズルいだろ」

つんと唇を突き出して、はるかの隣に腰を下ろす。
流れ落ちる前髪が少し跳ねていた。

「ほんとのことだよ。強肩だけじゃ盗塁は刺せないですからね」
「ふん、まあな」

鼻を鳴らして、リモコンを取る。
断りもなしにチャンネルを変えて、何もねえな、なんて呟いてまたローテーブルに放る。
こういうところは嫌がる人もいるだろうな、とぼんやり思った。
はるかはさほど気にもならないけれど──ピアノの蓋を勝手に開けていたのには、怒りはしないものの少し驚いた──。
むしろこうしていると、世間一般的にはまだ大学生の歳であることを実感するようで、どこか微笑ましくも感じた。

──この先何があっても、引退しても、ずっと

瑛からその言葉が出たのは、意外だった。

野球に限らず、アスリートの選手生命は短い。
サラリーマンならまだまだ若手に数えられるような年齢で“中堅”的な立場になり、一般的にはようやく役職が付くか付かないか、という頃に選手たちはもう引退を迎える。
もとい、そこまで続けられるのは貴文のような一握りの存在で、それ以前に成績が伸び悩むか、調子を落として現役を去ってしまう選手の方が多いだろう。

どんなに優秀な選手でも、どんなに努力をしても、“肉体の限界”からは誰も逃れられない。

はるかは、自分がピアノを弾けなくなる日のことを考えると、耐えられないほどにおそろしかった。

“肉体の限界”までは、アスリートよりはずっと長い時間を与えられているだろう。
だけど、ただ鍵盤を押して音を出せるだけでは、“ピアニスト”とは呼べない。
その演奏が世間に評価されなくなった瞬間が、ピアニストとしての終わり。
そういう意味では、年齢などまったく関係なく、ある日突然その日を迎える可能性だってあるのだ。

自分からピアノをとったら、一体何が残るというのか。
人としての死を思うよりも、ずっとおそろしかった。
そしてそれは、瑛にとっての野球も同じなんじゃないかと、当たり前のように考えていた。
はるかと同じように、“野球をやる以外に生き方を知らない”とまで言った彼だから。

「瑛くんは…引退するの、怖くないの?」

まだこれからの選手にぶつけるには、あまりに不適切な質問だと思う。
だけど瑛は、気にするそぶりも見せずに視線をどこか遠くへ投げた。

そしてすぐにまたはるかを見つめて、穏やかに笑うのだった。


「はるかがいるから、怖くない」

迷いも疑いもない、真っ直ぐな力強い瞳で。


はるかは何も言えなくて、ただ瑛を見上げていた。
そうしていると瑛は少し照れくさそうに身じろぎをする。

「まあ、何したらいいんだろうとは思うけどな」
「…何も、しなくていいんじゃない?最後までしっかり稼いだら」
「いくら貯金があっても、働いてるはるかの横で何もしねえのもな。もう表には出たくねえし…マネージャーとしてはるかに雇ってもらおうかな?」
「それじゃ家の中でお金動かしてるだけだから、家計は増えなくない?」
「確かに…」

まともに目を丸くする瑛をくすくすと笑って、押し付けられたまま抱えていた枕を持って立ち上がる。

寝室のベッドの上にそれを戻して、カーテンを開けた。
まだ早朝と呼べる時間なのに、目が眩むほどに日が高い。

そんな夏の日差しを身体中に取り込むように、大きく息を吸った。



数日後、はるかは東峰の小さなジャズ・クラブでのセッションに参加していた。
観客よりも演者の方が多く、間違いなく採算が取れていないようなイベント。
それでも会場には、音楽と笑い声が溢れていた。

「もうマスター、この人にお酒出しちゃダメだってば!」

誰かがそう言って、また笑いが起こる。
輪の中心では、老人が満足そうに微笑んでいる。その手のサックスはほとんど抱えているだけのような状態で。

「次はねえ、A列車がいいねえ」
「まだやるの?あんたさっきからもう吹いてないでしょ!」
「もうー。はるちゃーん、あたしもう指しんどいから、いい?」
「あ、はい!」

同じ楽器のミュージシャンも何人かいて、適当に代わる代わる演奏していた。
はるかもその夜何度目かの出番が回ってきたようで、ピアノへ駆け寄った。

イントロを奏でれば、すぐに軽快なメロディが重なる。
老人は舟を漕ぐように身体を揺らしながら、時折サックスを吹いた。
彼は今夜を最後に、サックスを置くという。
それを聞き付けたミュージシャンが全国から集まって、街外れのジャズ・クラブをパンパンにしているのだ。

この店の雰囲気はどこか、カナリアに似ている。

いつかこの指が動かなくなる時、そこにいる自分の姿を思い浮かべた。
彼のように、こうして多くの仲間たちに囲まれることはないだろう。
だけどそこにたったひとり、そばにいてくれるだけで──彼と同じように、心底幸せそうに笑っていられる気がした。




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■Take the “A” train/Duke Ellington

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